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鞍馬を行く |
iー愛ロマンチカ |
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数年に一度は京都に1週間弱滞在して、
京都や奈良を散策しているが、
尽きることなく逆に訪ねたいところが増えてしまう。
2004.8.22〜25
今回は京都の鞍馬と奈良室生寺などを訪ねたりした。
叡山鉄道終点鞍馬駅を下りて、
鞍馬山の中腹にある鞍馬寺を訪ね奥の院を経由して
貴船側に下りて、貴船神社と奥の院を訪ねた。
源義経が牛若丸の幼少時代を過ごし、
鞍馬天狗が活躍した鞍馬山は
まさに生きとし生けるものの命を大切にする
信仰の山であった。
当日は雨模様の天気で、
貴船側ではついに小雨になったが、まあまあでよしとした。 |
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2004.8.24 京都洛北にある鞍馬を訪れるため鴨川にかかる賀茂大橋を東へ渡った。
大橋から左手(上流)を見ると、
中洲を挟んで左から賀茂川、右から高野川が流れてきて合流している。
賀茂川が高野川と合流した後、鴨川に名前を変えるということを初めて知った。
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中州の3角地帯には、世界遺産(写真左)に登録されている、
豊かな自然が残る糺ノ森とその奥には京都最古の下賀茂神社がある。
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橋を渡り左折して、叡山鉄道出町柳駅から電車に乗り約30分で終点鞍馬駅(写真右)に到着。 |
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鞍馬駅を出ると、駅前広場の左側に巨大な天狗のお面。
さすが天狗の本場と感動したが、あの長い鼻は何に使うのでしょうね。思い当たる方はおりますか。
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広場を出るとすぐ鞍馬寺仁王門への参道石段があるが、くらま温泉へ行くためそのまま進む。
鞍馬川に沿って古い家並みが続く鞍馬街道のゆるい登り道を北へ進んで行くと、
左側に1760年(宝暦10)に建てられた滝沢家住宅(重文)がある。
卯建を上げ、虫籠窓・格子・鎧戸を備えた鞍馬の典型的な民家で、内部を公開している。
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駅から約500mほどの右に、くらま温泉の横看板が出ている。
中に入ると左奥にくらま温泉本館の建物、正面に露天風呂「峰麓湯」の建物がある。
入浴料1600円を払い、山ふところに抱かれてしばしくつろぎの時間。
旅をしながら日中から温泉気分も悪くなく、出口の門には大きな人形がまたの機会を誘っている。
追記:後日、辺津屋はすきさまから、この人形は昔の京都駅のロータリーに飾られていた
「京都国体のマスコット」ではないかとご教示いただきました。
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仁王門に戻り長い石段を登っていくと、左側に5,6階建ての鞍馬山修養道場「歓喜院」がある。
外観が格子状に見えるとても目立つ大きな建物である。
仁王門には湛慶作の仁王像が祀られている。
ここで時はちょうど12:00.
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朱色の仁王門をくぐると目の前に地蔵尊石仏があり、さららに進むと普明殿の建物がある。
ここからケーブルカーが出ているが「約1kmの距離だから健康のためにも歩いてください」との看板。
その辺の神社仏閣と違い、儲け主義でない証拠。
お言葉に従い砂利道を歩くことにした。
静かな木立の中を快く登っていくと、本道をはずれ「右折するように」との案内板。
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案内に従い右折すると、初めに方丈池がある。
方丈とは、生き物を逃がしてその命を救うという意味で、この池に亀や魚を逃がしてやっていた。
石段を登ると吉鞍稲荷、また石段を登ると魔王の滝(写真右中)。
さらに石段を登ると、牛若丸に武芸を教えた達人を祭った鬼一法眼社などの史蹟がある。
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本道に戻り道なりに登っていくと、左側に鞍馬の鎮守で火祭りで知られている由岐神社がある。
何故かお堂の前の左側(赤い天狗)で、天狗みくじを無人で売っている。
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続いて三宝荒神社(写真左)、川上地蔵堂。
川上地蔵堂には、牛若丸の守り本尊の地蔵尊が祀られていたといわれ、牛若丸が日参したという。
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木々の生茂った道を進んでいくと左側の石段の上の東光坊跡に、義経公供養塔が建てられている。
東光坊は義経(牛若丸)が7才から約10年間住んでいた所で、
ここから毎日奥の院まで兵法修行に通い続けた。
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その先の左側コーナーの小さな広場に、愛と光の力の像「いのち」がある。
この像は、鞍馬山の本尊である尊天(宇宙生命・宇宙エネルギー・宇宙の真理)を具象化したものという。
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「いのち」像を過ぎると道はゆるやかな登りで、緑豊かな木立の中をフィットンチットを満喫して歩いた。
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路傍には句碑が並び、また鐘楼もある。
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道は石段になり、折れながら本殿まで延々と続き、九十九折参道と呼ばれている。
途中老木が倒れていたがきちんと根の周りを囲い、
道路のコンクリート柵を一部外して保護していた。
こういうことが「いのち」なのでしょうね。
しばらく行くと、「ここから本殿までの石段は、
約7千万年前の岩石の本鞍馬石(青黒色)と鞍馬石(黄褐色)で出来ている」とのこと。
その色彩(写真右)は、お分かりいただけるだろうか?
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本殿の東南(巽)の方角にあるので「巽の弁天さま」と呼ばれている弁財天を過ぎると、もうすぐ本殿。
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最後の石段を登ると境内で、正面に朱色の本殿金堂(写真中)がある。
本殿は標高410mの高さにあり、標高570mの鞍馬山の中腹になる。
770年(宝亀元)に鑑真和上の高弟鑑禎上人が、毘沙門天をまつって創建したと伝えられている。
何度も火災にあい、堂宇の大半は昭和30年代以降に再建されたもの。
本殿正面の境内の端にある板石(写真右)は、
本殿後方から出土した経塚の蓋石で、納められていた経は殆どが国宝になっているという。
本殿に向かって左側の庭は瑞風庭といい、
650万年前人類救済の使命を帯びた護法魔王尊が鞍馬山に降臨せんとする相を形象化したもの。
確かに今の世の中の乱れは異常であり、人類救済は急をようすると思うので、よろしくお願いしたい。
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瑞風庭の角に「奥の院参道」の白い案内塔が立っていて、
本殿の廊下を突っ切って石段を登っていく。
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石段を登りきったところは平地で、
正面に鞍馬山の信仰・歴史・自然について紹介している霊宝殿(写真中)の建物があり、
手前には与謝野晶子と寛(鉄幹)の歌碑が並んでいる。
「何となく君にまたるるここちしていでし花野の夕月夜かな 晶子」
「遮那王が背くらべ石を山に見てわが心なほ明日を待つかな 寛」
霊宝殿正面前には、東京の荻窪から移築した与謝野晶子の書斎の冬柏亭がある。
冬柏亭の右から再び石段を登り奥の院を目指す。
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途中右側に息次ぎの水と言われる清水がある。
東光坊から奥の院まで毎夜剣術修行に通った牛若丸がここで乾きを潤したという。
ただこの時は水不足でここの清水もチョロチョロで心もとないものであった。
そういえば道中の茶店では水不足につき、麺類の販売は中止とあった。
とそのとき、とても若い女性たちだけが私を取り囲んでしまった。
それにしてもそんなにもてるわけがないと思ったが、
後でよく考えてみたら彼女らもただただ清水ほしさだけだってんでしょうね。
1人残らず美人ばかり!
こんな機会はメッタにないことなのか!それとも日本女性は美人だらけになってしまったのか!
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美人の余韻を残してさらに石段を登っていくと、
この辺りから坂道に露出している白い砂岩は2億1千年前のものである、との説明板がある。
そんなに古すぎる時代が身の周りを取り囲んでいるとは、感激ものですが実感なし。
屏風坂に来ると、右側に革堂の地蔵尊。
次の石段を登るとようやく峠の頂上にたどり着く。
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頂上には奥の院570m、西門(貴船)1,134mの道標が立っている。
ここまで来ると、まだ600mもあるのかというのが実感。
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平坦な道を3,4分歩くと前方に真新しい柵(写真中)があり、その左側の柵の中に石が立てられている。
これは背比べ石といい牛若丸が16才で奥州に下る時、名残を惜しんでこの石と背比べをしたという。
背はこの石と同じ高さだっということであるが、せいぜい1.5mもない低いものであった。
ということは義経はとても小柄な人であったようである。
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ここにも道標が立っている。
「奥の院 461m 貴 船 1,026m」
「本 殿 491m 仁王門 1,455m」
ということは、仁王門と反対側の西門(貴船)の距離は約2.5kmあるということになる。
ここからは、下り坂となり急傾斜の石段を下っていく。
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階段を下りきると、そこは老杉が高くそびえまさに昼なお暗いうっそうとした林の中となる。
カラス天狗が思わず高い木から飛び降りてくるような気分に襲われる。
ここは謡曲「鞍馬天狗」で有名な僧正が谷で、牛若丸は天狗僧正坊から武芸を習った所である。
居住していた東光坊から毎夜、延々とこの地まで修行に通ったということは、凄い熱意である。
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狭い広場には、不動堂(写真左)と義経堂がある。
義経堂は、1189年(文治5)奥州衣川で命を落とした義経(牛若丸)の魂が、
この鞍馬山に戻り遮那王尊として魔王尊のそばに仕えていると信じられ、ここに祀られている。
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岩盤が固く地下に根のはれない、杉の木の巨根があらわに地を這っている、
木の根道と呼ばれている薄暗い道を、足元も怪しく歩いて奥の院に向かう。
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2分ほど歩いて、奥の院の境内に出ると正面に魔王殿が鎮座している。
ただ写真は、撮影距離の関係でどうしても前面の石燈籠が邪魔してしまった。(技量不足です)
奥の院には、金星から降臨した護法魔王尊が祀られている。
周辺には2億6千万年前に海底から隆起した石灰岩が露出している。
魔王殿の脇に刀で傷つけられたような傷痕のある石灰岩があるが、
これは牛若丸剣道修行の跡で兵法石と伝えられている。
但し本当のところは雨水で侵食されて出来た溝で、カレンというとのこと。
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奥の院から下り坂で、途中自然風景保護地区の立杭を見ながら
貴船側からの参拝口鞍馬寺西門に出る。
時は14:05.仁王門から約2時間の行程であった。
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ここで鞍馬寺を出て、貴船川にかかる朱色の橋を渡り右折して、
貴船神社などを訪ねるために貴船川沿いに上流へ歩く。
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左側に大きな鳥居が現われ、長い石段の参道を登ると貴船神社がある。
平安京の水源地の貴船に鎮座し、水を司る神・雨乞いの神として崇敬を集めてきた神社であったが、
1046年(永承元)に出水で社殿が流されたため、1055年(天喜3)に現在地に本宮が再建された。
なお社名は、古くは木船、貴布弥とも書いたが明治4年以降貴船に改められた。
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境内には、樹齢約400年のご神木の桂や
神水にお御籤を浸すと文字が浮かび上がる水占斎庭(写真中)が人気だという。
本殿の裏にあるもう一つの参道から下りて、再度川沿いの道に戻る。
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貴船川沿道の左側には川床料理を提供する料理屋が多数並んでいる。
まだ昼食をとっていないので、帰りは川床料理と固い決意のもと先へ進んだ。
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10分ほど歩くと左側の石段の上に結(むすび)社(写真中)がある。
その前でいつもでもいつまでもお参りしている若い女性。
しびれを切らしてデジカメでパチリ。
ここは縁結びの神、「恋を祈る神」として信仰が篤く、
平安時代の女流歌人和泉式部も、切ない心情を歌に託して祈願したという。
お参りしているこの女性の素敵な恋が成就できますようにと、つい祈ってしまった。
社の左側に和泉式部の歌碑(写真左)がある。
また右手には社のご祭神磐長姫命の御料船天の磐船という巨石がある。
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左側の相生の杉から少し行った所で、本道と分れ左の道に入り思い川にかかる橋を渡って
樹齢700〜1000年の大杉並木を歩いて行く。
夫の愛を取り戻そうと貴船神社奥の院詣でをした和泉式部の恋の話から、
いつの頃からかこの谷川を「思い川」と呼ばれるようになった。
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突き当たりに貴船神社奥の宮の門がある。
広い境内の正面に奥の宮、その左に御船形石がある。
奧の宮は貴船神社が当初創建されたところで、起源は5世紀初めころという。
御船形石は、起源となっと玉依姫(神武天皇の母)が乗ってきた黄船を人目につくのを嫌って
小石で覆ったと伝えられているもので、航海するときこの小石を携帯すると海上が安全とされている。
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これで今回の旅は終わり、来た道を引き返し固い決意をした川床料理を食べることにした。
約30軒が軒を並べる料理屋のどこにするか迷っていた。
するとほどよく熟した客引きの女将は私のタイプ。
これがすべての悲劇のスタートで、自業自得のお話。
川床料理は15時までだがちょっと過ぎたばかりだからまだ大丈夫ということで、
女将に言われるままにこの店の川床へ。
しばらく料理を待っていたら小雨になり、先客の1組の男女も退席し残るは私だけ。
とすると急に何人かの店の人たちが現われ、私のテーブルだけを残して
ご覧のように、川床の敷物もテーブルも全部店の方へ片付けてしまいました。
屋根があるとはいえ、こんな風景の小雨の中でわびしくビックリするほど高い料理を食しました。
惨め!!
前方の料理屋はちゃんと開店しているのにね。
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食事が済んだら、この女将は叡山鉄道の貴船口駅まで車で送ってくれるという。
料理の恨みは、まあよしとするか。
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京都祇園新橋界隈の昼と夜
(この界隈が祇園発祥の地) |
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新橋通り |
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白川にかかる巽橋から北(新橋通り入口)を見る |
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白川にかかる巽橋から南(小路)を見る |
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