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倉敷を歩く
iー愛ロマンチカ
 2003.6.26 出張で岡山県倉敷市(瀬戸大橋の岡山側の入口となっている)を訪れたので、
翌27日に15年ほど前に散策したことのある倉敷川の美観地区と倉敷アイビースクエアを再度歩いて見た。
今回は平日でかつ朝9時頃と比較的時間が早かったこともあり、
人ごみに出会わなかったので大原美術館を含めゆっくり楽しむことができた。
 今回散策した順路はせいぜい延2km程度で、大原美術館の入館時間を除いた所要時間は1時間半くらいであった。
ただ後半は雨に降られて早々に引き返さざると得なかったのは残念であった。
なおストーリの順番と、写真の撮影の時間が事情があって順不同となっているのでお許し願いたい。

倉敷とは
今から約400年前までは、阿知潟と呼ばれる浅い海であったが、遠く中国山地から流れ出てきた土砂が堆積し干拓により点在した島々が陸続きとなった所。温暖な気候で米作農耕も適し、川での舟運で米や綿、菜種などの集散地として栄えた。
地名:、豪商の倉屋敷が多数あったことから、「倉敷」となったという。
代官所:江戸幕府直轄領で代官所が置かれ代官が支配していた町で、明治維新まで続いた。
大原孫三郎:倉敷の町は、事業家大原孫三郎のいろいろな偉業が集積された町とも言えるのではないだろうか。
どのページを開いても大原孫三郎の名前が出てくるほど倉敷の発展に貢献している。

倉敷紡績
:現在は通称クラボウと呼ばれているが、明治21年に倉敷紡績所として設立され、初代社長に大原孝四郎が就任し、翌22年に江戸時代の代官所跡地に当時として最も近代的な紡績工場が創業を開始した。
その後明治末期から大正時代にかけて第二代社長大原孫三郎は事業を大きく発展させるとともに、女工の生活環境の改善、働く人の学校教育制度の確立、倉敷中央病院の設立など労働者のための先駆的な事業を次々と実践し、また事業を通して教育・社会へ貢献した。また福祉活動にも精力的に取り組んだ。

大原美術館
:本館は、昭和5年に大原孫三郎が、前年死去した友人で画家の児島虎次郎の業績を記念して,設立したもの。ギリシャ神殿風の建物の中には17世紀以降の巨匠の作品が陳列されている、日本最初の西洋美術美術館である。
倉敷アイビースクエア:戦後遊休となった倉敷紡績の工場と敷地を、昭和49年に倉敷アイビースクエアとして再開発した。

美観地区:倉敷市は昭和44年に、倉敷川畔一帯を美観地区に指定。その後昭和54年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。

倉敷川畔美観地区案内図
(朱記は歩いた順路)
             
JR倉敷駅の南口(写真左)に出て倉敷中央通り(写真右)をまっすぐ南へ歩いて、くらしき美観地区へ向かった。(写真と相違して、この時はまだ雨が降っていなかった)
阿知3丁目に来ると、右手に寿司割烹「菊寿し」の暖簾が見えた。ここは昨夜地元の人に案内されてご馳走になったとろこ。とてもおいしい料理を出してくれる店なので、ちょっとご紹介しておきたい。
中に入ると左側は畳の座席、右側はカウンター,奥は調理場で、とてもきれいな店であった。ここのご主人(写真中)はカウンターの一番奥の方に立っていることが多かったが、多分ここが定位置なのであろうか。20cm以上はあろうと思われる大きな生身のシャコを、パクリとご馳走になったその甘い味わいは忘れることができないであろう。ご主人の弁によると地元瀬戸内でとれるシャコであるが、このように大きなシャコを入手するのはやはりなかなか難しいとのこと。それに身に傷をつけないように殻を剥くのも大変なノウハウが必要ということ。その他いろいろな瀬戸内の幸を食べさせていただいたが、奥では忙しく調理する3人さん(写真右)の陰のご苦労があってのこと。カメラに向かったポーズをとっていただく閑もありませんでした。
駅から15分くらい歩き信号のある交差点に来ると、左側コーナーに民芸「佐野屋」があり、そこから左に入ったところが「美観地区」になる。
道路を横断して美観地区へ歩くと、佐野屋の隣に「猫屋敷」の看板。何事かと店に近づくと美女が二人笑顔で迎えてくれるではありませんか!この時間まだ朝9時、朝から倉敷美人、それも二人にも会えるなんて幸をいっぱい胸に感じてしまいました。もしかしたら彼女らの笑顔は、いい男に出会った喜びであったかも知れないが、ご本人に確認するのを忘れてしまいました。店の中に入ったら猫の置物だらけ、多分その数は数千個はあるだろうということで、今年4/17にオープンしたばかりであるが全国からその趣味のある人が訪れてくるという。姉妹店は湯布院にあるとのこと。何故猫を扱っているか、それは店主が猫好きだからだという。そのとき店の奥から「ワンワン」という鳴き声。うんっ、猫はワンと鳴くのでしたっけ!?
100mほど行って右折すると、倉敷川沿いの美観地区が現れる。そして左側のレストラン「亀遊亭」のところで倉敷川は行き止まりとなっている。
倉敷の観光・文化施設の殆どはこの倉敷川沿いに集中しているといってよい。
倉敷川沿いの右岸通りを歩くとすぐ、大原美術館本館が右手に現れる。正面の門から入ると右側の切符売り場で本館、別館、東洋工芸館共通の入館券を1,000円で購入する。私は芸術的素養に全く欠けているので、本館入口で500円を出して音声ガイド機を借りて絵画を見てまわった。
この中の作品で、エル・グレコの「受胎告知」は大正時代5万8千円で購入したものが、現在は100億円の値がついているという。ちなみに昭和5年に建てられた本館の建設費は5万円とのこと。どうもこんなことばかりに関心があり、花より団子の口でして、すみません。
本館から別館には、写真左のような風情のある道をしばらく歩いて、そして突然現れるのが近代的な前庭の向うに見える別館である。別館には日本人の洋画と現代絵画が展示されている。
中に入ると新聞紙が山ほど積まれた芸術作品など、私が理解するにはとても難しい作品が多すぎました。新聞紙の山でしたら、何もここで見なくても私の家にもありますし・・・・。
本館前には工芸作家の作品を集めた工芸館、中国美術を収集した東洋館がある。
この東洋工芸館の中庭には、写真のような巨大なものが! これ何なんだろう?
芸術を理解するということはやはり難しいことだと、改めてしみじみ身につまされた。
大原美術館前から左岸に渡る今橋の上から倉敷川を眺めると、水の流れは無いが両岸の柳とマッチしたとても落ち着いた雰囲気の景色であった。なお今橋は1926年に大原孫三郎が建造したもの。
ただこの倉敷川は以前はどぶ川であったということであるから、多分悪臭を放つ手に負えない川であったのであろう。柳の樹令が30年ということなのでその頃から周辺を整備して、現在の魅力的な美観地区を作りあげたということであろうか。
今橋を渡ると小路を挟んで、左側に国指定重用文化財「大原邸(写真左)と、右側に「大原別邸(写真右)がある。
左の大原邸の裏側の細い小路
(写真中)はよく映画のロケに使われた場所だということであるが、見覚えのある方はおりますか?
左岸を歩いていると、対岸の建物の前に今頃珍しい大きな黒板が見える。慌てて行って見るとなんと「北田証券」の看板のかかった会社の建物と掲示板であった。民家そのものの木造建物を店頭としている証券会社は全国でも珍しいのではないかと思う。それにチョークで書かれた掲示板には、「不況下の株高」というタイトルでいろいろ解説が記載されていた。つい北田証券を応援したくなりました。きっとお客さんの信頼があついことでしょう。
右岸の道路には、敷物の上に商品を並べて店を出して商売している人があちこちにいる。この店主の女性は足が短いのではなくて、道路より一段と低い川岸にたっているので背が低く見えるだけのことで、観察していたらこの高さはお客さんが腰をかがめたときの目線とちょうど会う高さで合理的なんですね。商売上手です。どんなものを売っているか、店主が留守の店の品揃え(写真右)をカメラにおさめた。
左岸道路に戻り、2,3分歩くと右岸にかかるアーチ状の中橋に来る。この橋は明治10年に建立された重さ10トンの石造の橋であるが、今でも倉敷川の雰囲気にマッチした美しい橋である。
中橋の上から、振り返ると、きれいな倉敷考古館の建物の姿が見える。倉敷考古館には古代吉備文化の発祥の地、吉備路出土品を年代順に陳列され、またイラン、ペルー、中国の古代遺跡も多数展示されている。
中橋を渡った正面の倉敷館(観光案内所)の前に、黒の郵便ポストがある。
右の説明板によると、このポストは書状集箱といい、明治4年
(1871)郵便事業創業当時使用していたものを復元したもので、今も現役で頑張ったいるのでドーゾ利用してください、とのこと。
川沿いに右折して右岸の道を歩いていると、日本ならびに世界各地の民芸品が約4000点展示されている倉敷民芸館の建物がある。この建物は江戸時代の古い米倉を改装して昭和23年に美観地区の古民家再生第1号として開館した、記念すべきものとなっている。
ちょどこの辺りから雨が降り始め、時計を見たらまだ10時前。今朝のテレビの天気予報では夕方から雨のはずと、予報のいい加減さにテレビを恨みながら、白壁通り手前の高砂橋で左岸へ渡った。
ちょど目の前に、むかしきびだんご、の看板を出している「廣榮堂」があったので、ここで雨宿りをすることにした。店内には客は居なく今日3人目の倉敷美人とおぼしき店員が一人。問わず語りで彼女が言うには、147年前の安政3年にここの店主が初めてお菓子として吉備団子を製造した、いわゆる元祖だという。
そのときの吉備団子を今でも「むかし吉備団子」として発売していて、甘みを抑えた味とのこと。それではとむかし吉備団子を買うことにしたら、今の吉備団子もそれ以外にも倉敷すずめというお菓子もあるという。
いつの間にか10個も買い込んで帰りの新幹線で、さてこんなに多く誰にあげたらよいのやらと、女性に弱い自分を嘆きました。
廣榮堂を出て、倉敷川を左にして歩くと右側には土産屋の建物がつながって並んでいる。
すると、川岸に「倉紡製品原綿積み降ろし場所」と書かれた標識と3個の角石がある。文字通り昔この川から船で荷の揚げ降ろしをした場所である。
そして倉敷紡績の工場まで続く、荷を運搬した一直線の道路が今でも残っていている。写真の奥の突き当たりが工場(現在は倉敷アイビースクエアで、道には大八車(どんな車かご存知ですか)の車輪がぬからないように石が敷き詰めてあり(ただし昔の石ではない)、入口の右にある大きな石は大八車が建物にぶつからないようしている防護石である。
                                   
                         
KURASHIKI IVY SQUARE
(倉敷アイビースクエア)
倉敷代官所跡:1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いで東軍が勝利してから、この地は徳川幕府の直轄(天領)となった。1614年(慶長19)の大阪冬の陣で、備中国総代官小堀遠州が幕府の命で兵糧米を倉敷湊から大阪に積み出すためここに屋敷を構えて陣屋にして以来、倉敷湊は急速な発展を遂げた。そして1642年(寛永19)に陣屋は倉敷代官所となり、明治維新まで続いた。倉敷代官所は備中(倉敷)美作(久世)讃岐(塩飽諸島)の直轄領を支配する枢府とであった。
倉敷紡績:明治になり遊休となった代官所跡地に、明治21年に設立された倉敷紡績所が翌22年に当時として最も近代的な紡績工場を建設し、創業を開始した。
倉敷アイビースクエア:戦後遊休となっていた倉敷紡績の工場を、昭和49年に倉敷アイビースクエアとして再開発したもので、建物の基礎、柱、屋根など当時のまま再利用されている。
敷地内にはホテル、レストラン、多目的大ホール、コンサートホール、工房、倉敷記念館、児島虎次郎記念館
(大原コレクションに活躍した画伯)、アイビー記念館などがあり、いろいろな人が心の出会いができるようなコンセプトでつくられている。
IVY(アイビー):英語で蔦
(つた)の意。スクエアにある蔦は、ぶどう科に属する。砂糖のなかった平安時代にはこの幹から液をとり、煮つめて甘味料を採り、珍重されていた
大八車の道を真っ直ぐ進むと、突き当たりに「KURASHIKI IVY SQUARE」と書かれた大きなアーチがある。左手の道路沿いには、敷地内にある児島虎次郎記念館のイギリス積レンガ造建物のきれいな外壁が見える。また入口右には「倉敷紡績株式会社 定時株主総会会場」の案内の立看板があり、ちょうどこの日は株主総会の日であった。
中に入ると右手に、アイビースクエアの案内板)がある。
以下朱線
番号(これらは案内板に記載されているものではなく、加工したもの。念のため)説明する。
入口のすぐ左側の建物の壁面()には西日による室温の上昇を防ぐため、昭和初期に蔦が植えられた。
またスクエア内の多くの建物にも蔦が植えられている。
蔦の間からはレンガ造の児島虎次郎記念館)が見える。ここには大原コレクションの中心となった児島画伯の代表作と、その収集した洋画、オリエント美術品が展示されている。建物は倉庫であったもの。
次に倉紡記念館
)の建物が見える。ここには倉敷紡績に関する明治時代からの資料が年代順に展示されている。この記念館は創業の明治22年に建てられた原綿倉庫を若干改装したもので、土蔵造の原型は昔のままとなっている。
右には「天領倉敷 代官所跡」と刻まれた碑()があり、道の反対側の児島虎次郎記念館と倉紡記念館に挟まれたところに「代官所内堀遺構」()がある。
そのまた反対側には「代官所井戸」()と称せられている関ヶ原以来伝わる井戸があり、遠州の井、鶴形の井とともに倉敷3つの名井といわれている。写真に見る井戸枠は石からくりぬいたもの。
その先には、他と違った可愛い建物「オルゴールミュゼ・メタセコイア」()があり「アンティーク オルゴールコンサート」の案内が出ていた。料金大人500円とある。この建物は明治のオフィスを改装したもの。
道を挟んだその先には、蔦で覆われた「アイビー学館」()がある。
この建物は明治22年に建設された混綿室で、設計は日本で最初の紡績工場を建設した石河正龍らによるもので、純英国風といわれる鋸型の屋根、赤いレンガの外壁、半円形の窓、石畳の床など当時もままの面影が残っている。、また窓ガラスも手造りの口吹きガラスのものが残っていて、写真右の窓ガラス
10)の上半分の4枚は手造りのため均一質でなくゆがんでいるが、下の4枚と比較してそのゆがみがわかるだろうか? アイビー学館では吉備路の風物と西洋絵画の流れを勉強できる。
アイビー学館の入口の前を通り、以前工場として使用していた大きな建物に入ると、すぐ左のレンガ造の壁11)は北海道の小樽運河や横浜の桜木町にあるレンガ造り倉庫の壁と同じ方法で作られたもので、今でも大切に保存されている。そこから右折すると突き当たりはホテルの入口12)となる。
入口に向かって左手を見ると、蔦に囲まれた1,300uもあるおおきな「ひろば」(13)があり、テーブルと椅子が多数揃えてある。全ての人が自由に出入りできる。
ホテルへの入口の戸を開けて左折するとホテルのロビーとなり、その左壁には時価数千万円するという中川一政の絵
14)が燦然と輝いていた。(お金でしか価値観を見出せないような、悲しい男ですみません)
ロビーを通り過ぎると正面に大きな「KURASHIKI IVY SQUARE」の門構えが見え、そして後を振り返るとそこにはホテルの正面入口15)があった。いつまでたっても裏口から入るのが好きです。
                
         
                     
スクエアを出て左に曲がり、最初の角を左折すると殆ど車の通りそうもない小道に出る。ここは本町といい昔はそれなりに店があって賑やかなtころだったという。左はスクエアの境界。
  
静まりかえった古い建物群を数分進んで行くと、突然路上の左にカラフルな看板があり、可愛い少女マークの下に「愛と元気に再会できる美術館 いがらしゆみこ美術館」とある。そして道の反対側には、この地味な町並みにマッチしない派手な建物がありびっくりさせる。どうやって愛と再会できるのかを尋ねるために店に入ったが、一人しかいない若い女性店員が熱心に電話をかけていたので、待ちきれず外へ出てしまった。それで愛との再会方法はわからずじまいで、今頃になって悔やんでいる。どなたか教えてくださいませんか? この いがらしゆみこさん は有名なひとのようです。
また雨が降り出してどうも本降りになりそうで、時計を見たらまだ11時前。美術館から歩くとすぐ丁字路になるので右折して進み、数分でまた丁字路になり左折して進む。この区間は昔風の古い建物の町並みの中を歩くことになる。
美観地区の建物の特徴は ・色彩は白黒のモノトーン ・屋根の勾配が統一されている ・高い建物がない ということであるというが、確かにそういうようになっていると思う。
いろいろ変わった建物があるが、建物には詳しくないので、以下解説抜きの写真だけでご勘弁願いたい。写真右の軒先の丸い玉はよく造り酒屋にぶら下っているものと同じだと思う。
写真左は、瓦棒が珍しかったように思う。写真右の右側の建物の前に立てかけてある板のようなものは確か「矢たて」とかと聞いたような気がする。
写真左は地ビールの店「倉敷麦酒館」で雨でなければ絶対に立ち寄ったところである。写真中は、岩手県出身の水沢の豪商の家だったところだと思ったが?
この頃になると、雨は本降りとなり小さな折りたたみ式の傘などでは間に合わず、全身びしょぬれとなった。
あきらめて、新幹線で懐かしい横浜の我が家に急ぐこととし、前方のトンネルを潜ることにした。
(写真ではまだ雨は降っていないが) ちなみにトンネルの手前から左折すると、大原美術館前に出る。
トンネルを潜るとそこは、別天地のえびす通りアーケード商店街で延々とJR倉敷駅まで続いていた。お陰で駅までの約10分はそれ以上ぬれることなく、岡山行きの電車に乗ることができた。
感謝します。

 しかし急にこんなに雨に降られてしまうとは! 今日は美人に会い過ぎたせいではないかと、反省してしまった。大体私が女性にもてるなどということは、あるわけがないのですから。
                           
                              
                             
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