山城国京都市
京都三条大橋
                     江戸日本橋から京都三条大橋まで 492.8km
の最終区間は、2002.2.24に大津宿からの延長上で歩いた。
京都市の境界からちょうど2時間で三条大橋に到達した。、

ただこのページは、約1年後の2003.2.2に作成したのであるが
写真を見ると不思議と当時の細かいことまでしかっり思い出すことができ、
人間の記憶力とは凄いものだとあらためて思う。
京都市山科区日ノ岡東山区白川橋三条大橋

京都三条大橋:鴨川にかかる三条大橋は東国への出発点として、また東国からの表玄関としての役割を持ち、交通の要衝として重要な位置づけにあった。橋の始まりは早く室町時代初期には、簡素な構造で既に架けられたいた。
その後何度か改造されたが、安藤広重の東海道53次「京都 三条大橋」の絵の橋は、長さ約104m、幅約7mあった。現在の橋は昭和25年に改造されたものである。
 大津市と京都市の境界に着いたとき、ふと腕時計をみたら丁度12時であった。この日は太陽はが時々顔を見せる曇り空で、風の冷たい日であった。人通りの殆どない旧東海道(写真)を、京阪京津線沿いただひたすら三条大橋を目指して西へ向かって歩いた。
 商店街を通りながら900mほど歩くと、右側の義士餅店の前に「京三条はしまで一里半」「大津札の辻まで一里半」と記された道標石柱(写真)がある。ということはこの地点が大津宿と京三条大橋との丁度中間ということになる。ただこの石柱は新しいので最近立替えたものなのであろう。
 さらに100m歩くと京阪山科駅前交差点になり、駅は右手にある。交差点を横断してなおも西へ行くと町並みはビル街となり、都会の真ん中をを歩いている感じになる。そしてところどころに旧東海道の新しい道標石柱があるのは、多分400年祭で整備されたものであろう。
 交差点から400mの右に、當麻寺(写真左)があり境内にすらっとした白い像(写真右)が見える。山門に掲げられた看板には「文化財指定 丈六阿弥陀如来安置」とあるので、この像のことであろう。現場ではとても目立つ立像である。
 さらに400m行くと、三条通りとの交差点にでる。三条と名前がついているので三条大橋へ続いていること間違いなし、との確信のもとに右折すると、すぐJR東海道本線琵琶湖線のガードをくぐる。出るとすぐ右に小さな広場があり天智天皇稜へ続く道(写真左)がある。その入口には天智天皇山科陵看板(写真右)が立っている。
 そして、何故かその看板の脇に石造りの日時計(写真)があったが、どういう意味なのかは不明。
 旧東海道は、山科稜看板の手前から左に入り西北へ向かう。道は急に狭くなり(写真)、大津宿からの道中では逢坂山と並び称された日ノ岡峠の難所に向かって登っていく。
 道はゆるやかなスロープで延々と続く。
 そして三条通りから別れて日ノ岡峠道に入ってから1.5km歩くと、再度三条通り(写真)と合流する。
 三条通を西北へ500m歩いた九条山信号機から道は下り坂になる。少し行くと地下鉄東西線蹴上駅前のレンガ造りのずい道(写真)があるが、もしかしたらこれが明治時代に建設されたという、琵琶湖から鴨川までのインクライン(傾斜鉄道)の遺構なのであろうか。
 さらに行くと道は丁字路になり、左折すると左側にに都ホテル、右の一段低いところに関西電力の発電所のレンガ造建物(写真)がある。とても歴史を感じさせる建物で多分明治時代のものであろう。昭和38年の新潟地震ではこういうレンガ造の建物が殆ど被害を受けていなかったので、これからも長い間その姿を残し続けることができるのではないかと思う。解体などせずに是非後世に残して欲しいと願いたい。
 道はまっすぐ西へ進み三条大橋へ向かう。道中とても古そうな、家並み(写真)に出会う。これが京都なのかもしれない。
 なおも歩くと、今度は家と家の間に突然お稲荷さん(写真)が現れてびっくりした。合槌稲荷神社といい、昔刀匠三条小鍛冶宗近が常に信仰していた稲荷の祠堂があったところ、とのこと。
 その先の地下鉄東西線東山駅の手前に、鴨川にそそぐ小さな白川にかかる白川橋と道標(ひだり ち於んゐん ぎおん きよ水みち)(写真)がある。もうここまで来ると、三条大橋はすぐ目の前となる。
 東山三条交差点を過ぎてしばらく行くと、遠くに(写真)が見えてくる。これが江戸日本橋を出発した時からの目的地の三条大橋である。空にたなびく雲がとてもきれいに見えた。
 その前に、三条大橋の左詰めの袂に京阪三条駅の入口(写真)がある。この駅入口は京都へ来たとき時々見た風景であった。そうすると三条大橋は知らない橋ではなかったということである。急に三条大橋に昔の懐かしい異性と会うような親しみを感じた。
 三条大橋に着いて時計を見たら、ジャスト14時であったので、京都市境界に入ってから2時間で到達したことになる。この3条大橋は国道37号線にかかる橋で、橋の右詰めには、三条大橋を説明している立札(写真)がある。要約すると次の通り。「三条大橋は室町時代の前期には既に簡素な構造で架けられていた。本格的な橋となったのは、1590(天正18)年に豊臣秀吉が奉行増田長盛に命じて大改造させたことによる。擬宝珠は天正と昭和のものが混用されているが、その銘によると、後世の人々にも用をなすよう礎を磐石とし、礎は地の中に約9m、、切石の柱は63本うつなど、大変な大工事であった。この橋は、たびたび流失したが交通上で重要であったので、幕府によりすぐ修復された。改造も元禄以来たびたびされてきたが、現在の橋は昭和25年に改造されたもので、橋の長さ74m、幅は15.5mである。」
 橋の上から鴨川(写真)を見る。
 橋を渡って西詰め南側に弥次喜多像(写真左)が、陽気に語り合っている。この方角から見る三条大橋(写真右)も、また素晴らしい。
 そして三条大橋を後にして横浜へ戻るべく、鴨川河川敷(写真)を歩いてJR京都駅へ向かった。
                                                                           
ホームページ
トップへ
東海道53次
トップへ
ホーム