iーロマンチカ
ポルトガル国旗 ポルトガル共和国
                               
 2000年3月16日から2泊3日でポルトガル共和国を観光した。
多感な中学校生の頃だろうか、「ポルトガルの洗濯女」という
小川で陽気に足踏みで洗濯している女性たちの姿を画いた絵
(だと思うが)を見たことがあった。
いつの日かポルトガルへ行って彼女らに是非逢いたいとはかない恋心を抱いたが、
それから40数年たった今ようやく実現した。
しかし電化した今、果たして彼女らの姿を見ることができるのだろうか、
という不安は現地に着くまで持ち続けた。      
ポルトガルには16日にスペインとの南の国境から入国して、
途中エヴォラの町を観光してからリスボンへ向かった。
翌17日にリスボン市内と郊外にあるロカ岬を観光して、
18日朝リスボン空港から飛行機でスペインのマドリッドへ向かった。
    
ポルトガルは種子島の鉄砲伝来なじみの深い国であるが、
意外とその国情については知られていないように思われるので、簡単に概要を記しておきたい。
ポルトガル共和国とは
 ポルトガルはイベリア半島西端の、スペイン強国に押し込めれた形のユーラシア大陸の地の果てといわれるところに位置している。
国 勢
 国土面積は日本の1/5(東北6県と新潟県を加えた面積)で南北に細長い地形となっている。
 北部と南部とでは地勢が違い、北部は
標高1,999mエストレーラ山で代表される山岳地帯でブドウ畑が主体、
 南部は ゆるやかな平坦地が広がりブドウ畑やコルク樫が茂る。
 気候は冬暖かく夏は涼しい海洋型気候で、雨期は世界的に珍しい冬季(11月〜12月)にある。
 人口は約1,080万人で、そのうち首都リスボンに約300万人が住んでいる。
ポルトガルの歴史
 イスラム教徒に支配されていた国土を、キリスト教徒による聖地回復運動(レ・コンキスタ)の戦いの末、
 1143年ポルトガル王国が誕生し、最初の王朝ブルゴーニ朝が成立した。
 15世紀初頭第二王朝ジョアン一世の王子
エンリケによる海外進出でポルトガルの華々しい大航海時代が開かれる。
 1497年から2年かけて
ヴァスコ・ダ・ガマが世界一周を果たし、インド航路を開いて国力を急速に発展させ
 ポルトガルの黄金 時代が幕開けした。
 現在の共和国になったのは1974年で、それまでの独裁政治を軍事クーデターで打破して成立したもので,初めて
 近代国家 の体制が整った。
 また隣国の強国スペインには国を支配されるなど弱小国としての悲哀を度々味わされている。
 大半がカソリックで、文化的遺産はイスラムとキリストの両方の融和混在型である。
産 業
 コルクは世界一の産地で、有数なワインの産地でもある。
・観光
 リスボンとその郊外が中心となるが、大航海時代のロマンの名残や哀愁をおびた歌
ファド、ポルトガルでしか
 飲めないワイン
Vinho Verde(ヴィーニョ・ヴェルデ)など、見て聞いて食べる事にはことかかない
その他
 公用語 : ポルトガル語、 ・通貨単位: スクード($)(約60円)、 日本との時差  9時間

日本との関係
 よく知られいるのは1543年にポルトガル船が種子島に漂着し鉄砲を伝来したことであるが、それ以前の1541年に
 豊後にもポルトガル船が漂着しているのでそれかが最初のかかわりとなる。
 1584年には、天正遣欧少年使節団がヨーロッパ最初の地としてリスボンに8月10日〜9月5日までリスボンに滞在
 している。
 ポルトガルからの主な輸入品は、コルク、sea food食品、皮製品、、ユカリの木(紙)などである。
 ポルトガル語は日本にきた初めてのヨーロッパ語であるため、現在も外来語として定着している言葉も多く、
 カステラ、タバコ、パン、ボタン、カルタなど300語くらいあると言われている。なんとテンプラやコンペイトウも
 外来語とのこと。
                          
ポルトガルには、スペイン南部からの国境をバスで越えたが、国境の税関では特別な持ち物検査もなくとても簡単に入国できた。
    
国境の町AZULの、のんびりした雰囲気。
天候はよくて正に快晴の真っ直ぐな道を首都リスボンへ向かってひた走り。道はどこまでも平坦で周りのコルクの木が延々と続く。
    
途中城壁に囲まれてたたずむ歴史の町エヴォラに立ち寄った。ローマ時代から自由都市として、イスラム教時代には商業の中心地、キリスト教時代になってからはイエズス会の大学が設置され学芸の町として栄えた町である。なお天正遣欧少年使節団がリスボンからローマへの向かう途中訪れ、歓待を受けた町でもある。写真は町の中心にあるジラルド広場。
1986年にエヴォラ歴史地区は世界文化遺産に登録された。

    
広場の周辺の町並みで、石造の建物と狭い小路が特徴的である。
   
広場から少し離れたところにあるエヴォラ大聖堂。1186年に着工して1204年に完成した。ここには、ヨーロッパに2台しか現存しない、イベリアパイプオルガンがある。
   
町外れには、ローマ帝国の名残として数少ない遺跡のディアナ神殿がある。コリント様式による花崗岩の柱が14本残っている。
エヴォラを出発してリスボンに近づくと、高いキリスト像が見えてくる。 そしてテージョ川の向うにはリスボンの町がある
                                
                 首都リスボン (ポルトガル語ではリスボアLisboa)
 首都リスボンは大西洋へ注ぐテージヨ川(といっても巾10kmもあり川と いうより海という感じ)の河口に開けた街で、大航海時代の”世界の表玄関”として栄華を誇った面影を残 している。
人口は国の約30%に相当する300万人が住んでいる。
 1755.11.1に発生したリスボン大地震では、わずか6秒間で全市が破壊し壊滅状態となり、6日間の火災で死者1万人以上の大被害を出した。復旧は大規模な都市計画のもとに、碁盤目状に区画され全ての建物を同じ高さに統一した美しい街に復興されている。
 リスボンの観光はロシオ広場を中心にして、北端の新市街と東側の旧市街、西南側のショッピング街、 そしてベレン地区が主たる観光地。郊外にはイギリスの詩人バイロンが「この世のエデン」と表現したシントラ、そしてロカ岬がある。
      
 リスボンは丘の町、坂の町のイメージが強いが、また色彩的には茶褐色の町で緑などはこの写真からは想像つかないが、確かに今思い起こしても緑は少なかったと思う。
リスボンにはポルトガルの全人口1,080万人の約30%に相当する、300万人が住んでいる。
ポルトガルはヨーロッパでもとても治安の良い国の一つで、犯罪天国化した日本から行くと、ほっとした気分になれる、うらやましい国である。その一つの例として、タクシーは全て良心的なタクシーばかりで観光客とトラブルを起こしたことは一切ないという。ちなみにタクシーは手動開閉で初乗りは28$。

リスボンのサラリーマン生活(2000年当時の)
 リスボンに住む300万人のうち70万人が市の中心部に住み、住宅事情は厳しい。
 平均月給は16万$(9万円)であるが、家賃が10万$(5.6万円)もするため生活が苦しく、共働きの家庭が多い。
 サラリーマンの勤務時間は、9時から17時迄で昼休みは12時から14時迄の2時間と長い。
 金曜日と月曜日はサラリーマンの大移動日で、郊外に通ずる道路は大渋滞となる。
 物価()は、焼きたてパン15〜20、ワイン
(上等)600、タバコ(贅沢品扱い)360、ガソリン税はヨーロッパで最も高い.。
リスボンにあるヨーロッパ一と言われるものに、最長の吊橋4月25日橋、規模が最大のスーパー(店名は失念)など
 がある。
 また有料道路の料金所の
ETC化は日本よりはるかに早く、しかも車体登録制なのでノンストップで通過する車をカメ
 ラで キャッチし後日銀行から自動引き落としするというシステムとなっている。現地でみていると、車の流れがスムー
 ズでとてもよくできたシステムだと思う。
    
リスボンの港 町の中を走る水道橋 (たんに「水の流れる橋」いうことで、日本の水道水と違い飲むことは不可
    
ベレン地区の観光
ベレン地区はリスボン市の南のテージュ川に面したとこにあり、コロンブスが世界へ出航した港に位置する。またベルンとはキリスト生誕の地ベツレヘムに由来する名称である。
テージュ川4月25日橋(1966年竣工) ベレンの塔
テージュ川には、1974.4.25の革命を記念して命名された、ヨーロッパで最長の吊橋(上は車道、下は私鉄が走る)がかかっている
全長2,278m、橋高さ190m。

    
マヌエル1世の命で、リスボン港を守る要塞として1520年に建設された5階建の塔で、地下は水牢、1階は砲台、2階には船乗りたちの安全を祈るマリア像があり、3階以上は王族の居室というように多様な使い方がされていた。
発見記念塔
1960年にエンリケ航海王子の500回忌を記念して建てられた、高さ53mの巨大な帆船を形どった記念塔で、エレベーターで屋上まで昇れる。両側には新天地に向かう人物像が並んでいて、先端にエリンゲ王子、その後に冒険者、天文学者、宣教師と続く。写真右で、女性と比較すると如何に巨大な塔かわかると思う。
え、その女性は誰か?ということですか。 説明すると長くなるので、次の機会にします。
大航海の必然性:15,6世紀パスコ・ダ・ガマなどが活躍したポルトガルのいわゆる大航海時代が何故起きたたのか。それは当時弱小国ポルトガルが発展するためには地図から分かるように強国スペインに取り囲ま れているため、仕方なく海洋に出て行くことしかなかった結果だという。そのための海洋技術の貧弱だったポルトガルは、諸外国から来ていた民族、例えばイスラム教徒からは造船技術、ユダヤ人からは天文学というようにそれぞれから必要技術を習得した。

    
世界地図 飛行機
発見記念塔の後ろの広場の地面には新天地発見の年号を記した世界地図が描かれている。日本地図には1541年発見とあるのは、ポルトガル船が豊後に漂着した年号である。
     
広場にはブラジルまで飛んだという、プロペラ飛行機が展示されている。
ジェロニモス修道院
1502年に、マヌエル1世が、エンリケ航海王子とヴァスコ・ダ・ガマの功績をたたえて建設した白亜の寺院で、その費用はヴァスコ・ダ・ガマの海外遠征で得た巨万の富によるもの。院内には写真右の石棺にパスコ・ダ・ガマの遺体が安置されていている。
                  
ロ カ 岬
リスボンから西へ向かい、海岸線沿いに行くとロカ岬に到達する。
ロカ岬は
ユーラシア大陸の西の果てにあり、北緯38度47分、西経9度30分。
16世紀のポルトガルの詩人ルイス・デ・カモンイスの「
ここに地果て、海始まる」という有名な言葉のある岬である。
観光案内所では、ロカ岬に到達したことを記念する証明書を旅行者の名前入りで発行してくれるが、有料である。

   
ロカ岬は140mの断崖で、天気良好なれど風強く、また寒かった。 十字架の足元に、「「ここに地尽き、海が始まる」が刻まれている記念碑が建っている。
   
リスボンの夜
リスボンには、気軽に楽しめる日本の居酒屋風のファドクラブがあちこちにある。
ファドの歌:語源はファタメ
(運命)でリスボンのファドは女性の歌で、コインブラ(旧都)のファドは男性の歌う恋の歌。
ファドクラブでワインVinho Verdeを飲みながらファドを聴いたが、歌詞はわからないが何故か旋律はとても物悲しくも、哀愁をおびて聞こえた。愛の切なさであろうか、それとも強国スペインにいじめられ続けらてきた悲哀からくる国民性によるものであろうか。そういえばスペインのフラメンコのような激しさなどは全く感じられない。
・ワインVinho Verde :緑色のワインで何故ポルトガルでしか飲めないのかというと、時間が経つとすぐ変質してしまい輸送に弱く輸出ができないためだという。味はさわやか。
                      
スペインへ
 ポルトガルでは予想通りついに洗濯女の影も形もみることができなかった。少年の頃に絵画で見た彼女らは今どうしているのであろうか。
 そんな余韻を残して、帰りはリスボン空港からスペインのマドリッドへ向かったが、飛行機の窓から見た下界には、日本でお馴染みのゴルフ場の姿は、少なくともポルトガル国内では全く見る事が出来なかった。
 果たしてゴルフ場はどこに?である。
                      
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