ぶらっと(鎌倉市)    
    (のんびりと歩く都会のど真ん中)
    
今日は2004.1.25. 快晴の空の下、予報では風の強い日であったはずが、殆ど無風の道中であった。
横浜駅からJR横須賀線で25分の鎌倉駅に到着。
鎌倉を出発して、江ノ島へ向かう。

鎌倉駅から和田塚駅へ
JR鎌倉駅から江ノ電鎌倉駅側に出て早速江ノ電鎌倉駅のハイカラな全景を拝見。そして自動改札口も。
    
すぐ左手は、江ノ電に沿いの御成通り商店街で、その入口の右に「鎌倉御成商店街案内」があり
約160店舗の名前がキチンと記載されていた。はじめて訪れる人には親切な案内である。

   
のんびり数分歩くと十字路の右角に、「旧安保小児科医院」の建物(写真左)がある。
案内板によると次の通り。
「大正13年頃 医師安保隆彦氏により建てられ平成7年まで小児科医院として使用されていた。
通り角に建つこの建物は三方に設けられた切妻屋根とハーフティンバーの表現がとられた妻壁を打ち、
往来の人の目をひきつけている。
建物の内外部とも創建当時姿をとどめていて、重要な医院建築の一つ」。
御成通りは
ブロック敷きのきれいな通りで、道の両側にはシャレた店も多い。
少し行くと右に、赤い派手な店があるが、「
胡胡」という中国専門の骨董品を扱っている店である。
   
御成通りを歩き終えて、鎌倉駅前に戻り、駅を背にして100mほど歩いて十字路に出て左折する。
左折したすぐ右角には
警察署(写真左)があり、そこから前方を見渡すと車のラッシュの最中であった。
この道は
今小路といい御成通りに平行に走っていて、500mほど行くと由比ヶ浜大通りに出る。
   
今小路を100mも行かない右側に、城門のようないかめしい門がひときわ目立っている。
ここは昭和8年
(1933)に関東大震災で破損した御用邸跡に建てられた御成小学校で、
中に入ると敷地はとても広く木造やコンクリート造の建物が並んでいる。
入って左手前にある木造の建物は創立以来のもので、
1937年ヘレン・ケラーがここで講演したゆかりの
講堂という。
御成小学校名の由来:
学校に転用された御用邸が、天皇陛下が「御成あそばされたところ」であったところから、名づけられた。

   
門を出て小学校の塀の外れまで来ると、十字路左角の奥まった所に[問注所舊蹟」石碑がある。
刻まれている文字が風化していてよくわからないが推測すると、
「元暦元年源頼朝幕府が訴訟・裁判を扱う役所を置いた所」と言う意味だとう思う。

   
さらに100mほど行くと、佐助川にかかる小さな裁許橋があり、
橋の上から見た佐助川は水の流れが殆どない都会の用水路というような感じであった。

裁許橋の名の由来:罪人が裁判にかけられ、罪の許しを願った問注所の近くにあった橋であることから、
名づけられたという。

  
橋を渡り約100m行くと、六地蔵信号のある丁字路にでる。
交差点の左角の鎌倉クリーニング店前に
六地蔵が並んで立っている。
この一帯はもともと処刑場であった所で、六地蔵は処刑された罪人の霊を弔うための建てられたという。
また六地蔵の後には芭蕉句碑が建っている。
句碑の正面には「夏草やつはものともが夢の跡 芭蕉翁」、
右側面には「此処はたれにいふべき清水哉 東武独庵買明」、
左側面には「天明六丙午歳5月」と刻まれていて、天明6年(1786)に松尾百遊が建てたもの。
芭蕉句「夏草や・・・」は「奥の細道」の平泉中尊寺詣の時に作られたもので鎌倉とは直接関係がないが、
この地が昔処刑場であったことにちなみ、この句を選んで建てたものという。

   
丁字路を右折すると由比ヶ浜大通りで、
最初の
細い道(写真左)を左折して100mほと行って江ノ電踏切を横断し、
さらに約100m行った丁字路の角の一段高い境内には約20基の五輪塔がひっそりと並んでいる。
その中央には明治34年に建てられた「
和田一族戦没地」石碑がある。
建保元年
(1213)の和田合戦で北条義時に敗れた和田一族の霊を弔ったもの。
                        
和田塚駅から油比ヶ浜駅へ
江ノ電踏切に引き返して来ると、ちょうど鎌倉行電車が和田塚駅ホームに入ってきたのでパチリ。
   
江ノ電の線路風景
  
プラットホームの脇の線路の前には、風情ある門構えで築80年以上という「無心庵」。
「営業中」看板の脇の
おしながきには、豆かん500円、あんみつ600円、アイスクリーム500円などとあり、
食事もできる。
定休日は水、木曜日。ここには勇気をもって線路を横断しないと入れませんので、念のため。

   
再度六地蔵信号交差点に戻り、由比ガ浜大通りを100mほど西へ行くと、
右に
スリランカティールームの緑の看板の白い建物と井上蒲鉾店の古い木造の建物が並んでいる。
ティールームはセイロンティーの専門店で産地名のついた旬の紅茶が飲めるという。
また井上蒲鉾店はJR鎌倉駅前にもあるが、こちらが本店。
さらに、すぐ先の右には寺院建築と城郭建築を合体したような作りの建物があるが、
これは昭和11年
(1936)に鎌倉彫の店として建てられた寸法堂である。
   
さらに進むと左に何やら顔に似た大きな看板の店がある。
看板にはいろいろカタカナで書かれているが意味不明。店名は
ギルドといい手作りアクセサリーの店で、
買った商品にその場で名前やマークを手彫してくれるということで人気があるという。
その店のちょっと先で左に曲がり歴史を感じさせる家並みの
路地を歩いて由比ケ浜駅に向かう。
   
油比ヶ浜駅から長谷駅へ
由比ヶ浜駅
プラットフォームにはトイレがあり、かつ無人駅であるので遠慮なく利用でき助かる。
   
由比ヶ浜駅の藤沢側から舗装された道を通り由比ガ浜大通りへと歩くと、
左側のあまり目立たないところに、石碑が立っている。
分り難い刻まれた文面によると、藤原鎌足の4つ下の孫に当たる
染屋太郎太夫時定邸跡とある。
ということはとても古い年代ということになる。

   
さらに進んで由比ガ浜大通りに出、
左折して100mちょっと行くと右に慶長年間
(1596〜1615創業という鎌倉彫陽堂のレンガ造建物があり、
小路を挟んで
甘縄神明宮石柱が立っている。
   
石柱から右折して約150m行った突き当りの一段高いところに境内がある。
ここから
石段でさらに登ったところに甘縄神明宮の社殿がある。
この石段の付け根の左に、柵で囲まれて「
北条時宗公産湯の井」石柱がたっている井戸がある。
   
甘縄神明宮は和銅3年(710)染屋太郎太夫時忠の創建で、
永保元年
(1081)源義家が社殿を再建したもので、鎌倉でもっとも古い神社という。
   
元の大通りに戻り、
窓のない
不思議な建物の前を通って西へ向かうと長谷観音前信号のある長谷通りの丁字路になる。
正面は長谷寺の参道で、右折し400mほど行くと有名な鎌倉大仏がある。
なお鎌倉大仏は高徳院清浄泉寺の本尊で鎌倉唯一の国宝仏となっている。

丁字路を左折すると長谷駅に出る。
     
長谷駅から極楽寺駅へ
長谷駅
   
長谷駅から左折し星の井通りに出て右折、星の井信号から左折すると国道134号線の坂下信号に出る。
目の前には
由比ヶ浜の真っ青な海の色が開ける。
しばしここの堤防でゆっくり休憩して思いっきりマイナスイオンを体内に吸収した。
そのせいか今でも体調は良好。

   
しばしの休憩の後、再度星の井通りに戻り左折して歩くと、
丁字路の角に御霊神社ゆかりの力餅を売る老舗
力餅家がある。
狭い店内には数人のお客がいてさぞかしおいしい餅なのであろうが、
なにしろ私は甘いものがダメなので遠慮させていただいた。
左手に今頃珍しい
赤いポスト
   
力餅家の丁字路を右折して行くと、突き当たに御霊神社があり、境内には紅梅がみごとに咲いていた。
御霊神社は鎌倉近辺に住む大庭、梶原、長尾、村岡、鎌倉の平氏の五家を祀るために、
平安末期の創建された五霊神社が、いつのまにか御霊神社となったもの。

   
星の井通りに戻り200mほど歩くと、
右の歩道に
星の井標柱とその前の階段の上には虚空藏菩薩が祀られている星井寺がある。
星の井は鎌倉十井の一つで、この井戸の中に昼間も星の影が見えたことからこの名がつけられた。
また奈良時代の名僧行基は井戸の中から出てきた光り輝く石を、虚空菩薩の化身と思いお堂を建てて、
虚空菩薩を祀ったという伝説がある。

星の井通りを西へ歩き、極楽寺切通しを通ってしばらく行くと、極楽寺駅にたどり着く。
    
極楽寺駅から稲村ヶ崎駅へ
極楽寺駅
   
駅からちょっと戻り、江ノ電の横断橋を渡り駅の反対側に出て極楽寺駅を撮る。
   
駅の反対側には極楽寺がある。
境内は撮影禁止。確かに境内は極楽のような気分にさせていただく雰囲気が漂っていた。
せめてもの願いということで門外から
境内をパチリと撮影させていただいた。
   
極楽寺から稲村ガ崎駅に向かう途中に、階段を登って線路を横断して玄関に入る家がある。
沿線はこのような家が多数ある。

極楽寺駅から江ノ電沿いに南西に行くと、稲村ヶ崎駅に出る。
   
稲村ヶ崎駅から七里ヶ浜駅へ
稲村lヶ崎駅
  
駅から海岸に出ると、左手に稲村ヶ崎が見える。
海岸沿いの134号線を歩いて行くと、派手なピンク色のレストランが目だっている。
さらに進んで殆ど水の流れていない音無川にかかる
音無橋を渡り、
相模湾ながめながら道なりに七里ヶ浜駅に向かう。

行合橋交差点から右折して七里ヶ浜駅に行く。
    
七里ガ浜駅から鎌倉高校前駅へ
七里ヶ浜駅
   
再度134号線に出て線路沿いに鎌倉高校駅へ歩くと、
顕証寺境内の向うの高台に
白い建物がポツンと見えるが、さて何んだろう?
(後日メールをいただき、白い建物は若貴兄弟のどちらかの相撲部屋の別荘だった、ところ、とのこと。)
   
すると突然右側に藤沢行の電車が、猛スピードで通り過ぎて行った。
運転手の顔もはっきりわかるほど近くから、すかさずシャッターチャンス。
うーん運転手は若くてなかなかの美男子であった、念のため。

   
鎌倉行の白い電車
   
鎌倉高校前駅から腰越駅へ
鎌倉高校前駅は、プラットホームに相模湾に向かってベンチが多数置かれている。
   
このベンチに座って展望する景色はことのほかすばらしい、といわれている。
左手には遠く
三浦半島、右手には逆光の江ノ島が見える。
   
江ノ電に沿って134号線を進んで行き、小動信号交差点で134号線と分れ右折して腰越駅へ向かう。
しばらく歩き小路を右折すると前方の踏切のところに
幟のある階段がある。
   
階段を登ると天平16年(744)に行基が開いたと伝えらる満福寺がある。
またこの寺は源義経
(1159〜89)が腰越状を書いた所として有名で、
境内には
義経公慰霊碑(写真左)弁慶の腰掛石などがある。
関東大震災後に再建された本堂には、義経の一生を描いた鎌倉彫の襖絵などがある。

   
帰り幟のある階段を下りていたら、目の前を轟音とともに電車が走り抜けていった。
直ぐ目の前であったので写真のように中にいる乗客の一人ひとりがはっきりわかる。
あまりの音の凄さに一瞬ひるんでしまうほどであった。

   
沿線に面した北側には道路がないので、線路を横断して玄関に入る家々。
満福寺から元の道に戻りちょっと歩くと、腰越駅がある。
    
腰越駅から江ノ島駅へ
腰越駅
   
腰越駅から商店街を通って江ノ島駅に向かう。
この辺では江ノ電は普通みかける
市電のイメージとなる。
   
腰越駅を出て神戸川にかかる神戸橋を渡ると、右コーナーに鮮魚と惣菜の庄虎がある。
ここで揚げたての魚のフライを買って道々食べながら歩いたが、
格別おいしく感じたのは気のせいだけだったのだろうか。

  
さらに歩いて行くと鎌倉市から藤沢市に変わり、
その直後に道は十字路となり右に日蓮上人の法難で知らる瀧ノ口刑場跡に建てられた
龍口寺がある。
境内の左側には
龍口刑場跡碑がある。
文永8年(1271)幕府の怒りを買った日蓮はこの地で斬首されるはずであったが、
一心に題目を唱える日蓮に役人が刀を振り上げた瞬間、雷が落ちて刀が3つに折れてしまったという。
また同時刻に幕府殿中に化物が出る騒ぎになり、ついに処刑は中止されたと伝えられている。

(「片瀬の住人」さんからのメールによると、
この言い伝えは後世の人が作ったもので事実とは違うと言うことです。
確かに、もし太刀に雷が落ちたら側にいる日蓮も感電死してしまうはずです。
日蓮の自筆にある「江ノ島の方よりまりのような輝くものが飛んできて太刀取りが目がくらみ
処刑ができなかった」とあるのは、
「球電現象」と呼ばれる現象ということで、以前早稲田大学の大槻教授がテレビ等で話されていた、
ということです。


瀧口寺からは、江ノ島駅はすぐ近くとなる。
    
江ノ電TOP 江ノ電(藤沢市)