鉢石宿
      
の区間は、2003.11.3 に今市宿に引続き歩いた。
旧日光街道は、 一般道路(並木)→119号線→一般道路(並木)→119号線 の経路となる。
鉢石(はついし)宿は、正保元年(1644)に伝馬宿に定められた日光街道の最終駅となる。
宿場の規模は 本陣2軒、旅籠19軒、人口985人。
鉢石町は、766年に勝道上人により日光が開山されたときの輪王寺とともにできた門前町で、
鉢石の地名の由来は、鉢の形をしていた石があったことにちなんでつけれたという、言い伝えがある。
その鉢石は、現在も大事に保護されている。
江戸時代になり、天海大僧正(慈眼大師)が、家康の遺骨を久能山から日光に移して東照宮を創建した。

日光二荒山(ふたあらやま)神社:男体山(二荒山)をご神体とする神社で、勝道上人が開山してから日光山信仰の中心となってきた。
日光山輪王寺:766年、日光山開山の祖、勝道(かつみち)上人が創建した寺で、修験道場、日光山三社権現の信仰の中心として栄えている。
東照宮:徳川家康を祀ってある。
日光杉並木:徳川家康の忠臣松平正綱が、20年あまりの年月をかけて約20万本の杉を植え、家康の33回忌にあたる慶安元年(1648)に日光東照宮に寄進した。現在日本で唯一、特別史跡と特別天然記念物の二重指定を受けている。また平成4年に、ギネスブックに世界一長い並木道として認定された。
名物「日光ゆば」:「湯波」と書き、もともとは修行僧のタンパク源として作られてきたもの。豆乳を煮たときにできる薄い膜を引き上げて、幾重にも巻きあげ、日光の名水を使って作る。

大沢宿の瀬川の集落から杉並木の道に入ったのが、12時32分。もう目的地はすぐ目の前。
  
砂利で舗装された道には誰一人いるではなく、太陽の光で開放的な雰囲気の並木道であった。
   
しばらくすると、左側に砲弾打込杉と書かれた白い立札がある。この辺りは明治戊辰戦争で、官軍が日光に拠る幕府軍を攻撃したところで、この幹の凹でいるところは砲弾が当たって破烈したとある。目を近づけて必死になって凹を探したが、あるようなないような感じで結局はよく分らなかった。
   
並木通りには、小川もあり小さなのようなところもある。何しろ水が澄んでいて気持ちがよい。
   
誰もいない道をひたすら歩いて行くと、右側に薬師堂があり、境内には多数の石仏石造りの梵鐘がある。明和5年(1768)村人が石の梵鐘も奉納しようとしたが、龍頭が重すぎたため壊れてしまい、以来放置されているいるという。
   
道は石畳敷で、この石は江戸時代からのような気がする。
   
突然左にどっしりと構えた旧家が現れるが、とてもこの通りの雰囲気にあっていた。
   
ゆるく左にカーブしている道を行くと並木は終わり、国道119号線にぶつかる。
   
右に東武鉄道日光線、左にJR日光線を見ながら歩く。
   
119号線を500mほど行くと杉並木が始まる。
   
並木に入るすぐ右に、並木太郎の説明板が立っている。この杉は樹高38m、周囲5.35mもあり、並木の中で一番大きな杉であるとこのと。
   
道はゆるい登り坂で、500mほど行くと右に銀杏杉がある。杉の根元が、銀杏の葉のように幅8mも広がっていることから、銀杏杉と呼ばれている。
    
さらに100mほど行き、尾立岩を見るために左側の細い道を経てJR日光線の線路敷きに上がる。線路ぎりぎりにある大きな岩に、大昔日光山の本宮権現が蛇の姿となって大谷川を渡って乗ったといわれている。尾を空中に立てた、それが名のいわれと伝えられているという。
   
119号線に戻り、しばらく歩いて行くと並木も途切れ途切れになり、並木を出て七里交差点を渡り、その先約150mのところに宝殿交差点がある。旧日光街道の119号線は直進する。
   
また並木道を歩く。
  
並木入口から100mほどのところに、志渡淵川にかかる筋違橋がある。川幅は狭くその左手前の橋の袂の小さなお堂には地蔵尊が祀られている。はしかになったとき、この橋の下をくぐると治るといわれ、はしか地蔵とも言われている。
   
筋違橋を渡ると、道は2つに分かれ119号線は右に、旧日光街道は左の並木道になる。
   
入口からすぐ左側に、異人石がある。明治の頃杉並木を愛した1人の外国人がいて、この石を石屋に頼んで座りやすくしてもらい、毎日ここで並木を観賞していたので異人石と呼ぶようになった。
  
まっすぐ行くとJR日光線の高架の手前で、先ほどの119号線と合流する。
   
高架の下をくぐると、また119号線と別れ、右の並木道に入る。100mほど行った東和町の交差点で再度119号線と合流して、最後の並木道を日光宿へと急ぐ。
   
交差点から約250mのところで並木は終わり、相生町交差点の右手にはJR日光駅が見える。
   
さらにまっすぐ歩いて行くと、日光の市街が見えてきて、鉢石宿ももうすぐ目の前。
   
さらに250m先の交差点の右手には、東武日光駅が見える。
   
ここから道は商店街の中の登り坂道となり、真っ直ぐ進んで行く。
   
歩いていて特に目立つのは、名物湯波(ゆば)の看板であちこちに林立している。
   
美幸町交差点で、右折して200mほど行くと虚空蔵尊がある。日光開山の勝道上人が明星天子を祀ったのに始まり、寛永17年(1640)に現在の地に移転した。今に残るお堂は元禄5年(1692)に建立されたもの。
  
坂道を登ってい行くと、市役所前の交差点の左方の高台に、お城の形をした日光市役所が見える。
   
市役所への入口の左角に、日光のおいしい水「磐裂冷水」の立札があり水呑場になっている。1200年前、日光開山の祖勝道上人がこの地に清水を発見した霊水で、男体山山系の湧き水で日本でもっともおいしい水として定評があるということ。訪れた皆さんも一口どーぞ。
   
道の反対側には、3軒の家が並んでいるが、このうちの1軒が本陣であるはず。それは高野家ということだけはわかっていたのであるが、3軒とも表札がなかった。私の第六感では一番右の建物ではないかと思うが、果たして・・・。
   
市役所前から約100m行った右の、日本生命の看板のあるビルの角に、「日光市指定文化財」「史蹟 鉢石」と書かれた標識が立っていて、その足元になんとなくちょび髭に似た草が生えている石があった。周りを見回しても石らしいものはないので、これが鉢石に違いないと、あらゆる角度から写真を撮った。それにしてもなんと品のない鉢石なのであろう、と正直思った。いずれにしてもこれで鉢石宿にたどり着いた証明ができた。
   
旧日光街道はまだ続き、正面を見ると橋があり、その向うにこんもりとした木立が見える。
   
大谷川にっかる大谷橋の袂にくると、右に小さな広場があり、日光のおいしい水「磐裂冷水」の水呑場がある。その奥の方に天海大僧正(慈眼大師)の銅像がある。天海は比叡山で天台宗の奥義をきわめてから徳川家に仕え、日光山の管主となった。家康がなくなると遺言を守り、久能山から遺骨を日光に移して東照宮の創建につくし、日光山中興の恩人と言われている。
  
道の反対側には、当時の姿を残した土産屋がいまでもある。
   
橋の上から大谷川を見る。そして只今神橋保存修理工事の看板で、江戸時代にかかっていた神橋は現在工事中であった。
   
橋を渡り案内板に従い左折すると右に、日光の社寺と刻まれて大石の脇に登り階段があり、日光社寺への参道となっている。
  
道案内の順に歩いて行くと、坂道がある。この坂道は日光東照宮の春・秋例大祭の千人武者行列の際、神職などの騎馬で使用する道となっている。
   
日光山輪王寺の境内入口には、正面に勝道上人銅像が建っている。左端には真紅の紅葉が色鮮やかに咲いていた。正面の坂道を登って行く。
  
長い階段を登っていくと、766年に勝道上人により創建された輪王寺がある。空海や滋覚大師などが来山したと伝えられ、また坂上田村麻呂や源頼朝などの武将の信仰を集めて、日光山三社権現の信仰の中心となって栄えた。登りきった右の樹齢約500年の金剛桜は、山桜の天然変種として昭和11年に国の天然記念物に指定された。黄芽、白花大輪の山桜で、地際より数本の支幹に分れ、特異な樹形をしていて、基部は周囲約5.7mもある。
   
輪王寺の左手にある、重要文化財相輪塔は、慈眼大師(天海大僧正)が寛永20年に比叡山の宝塔に模して構築したもので、高さ15mの青銅の供養塔。
   
相輪塔の前にある、鎌倉中期に建てられた小さな光明院稲荷社は、日光山の5大稲荷として学業成就・家業繁栄の祈願に信仰されている。
   
先に進むと、東照宮の参道に出る。そこから徳川家康を祀ってある東照宮の門が見える。
   
二荒山神社へ通じる新道
   
突き当たりにある、8世紀末に勝道上人によって開山された日光二荒山神社は、ご神体は男体山(二荒山)で、日光山信仰の中心となっている。
   
さらにその先には、徳川3代将軍家光の霊廟の大獣院。祖父家康の東照宮によりそうように建てられている。
   
帰りは、来た道と違う道で落葉がさらさら舞い落ちるを下って行った。
   
下りきり、国道120号線に出て左折してちょっと歩くと、左側に大きな太郎杉がある。
ここで、旧日光街道の旅は全て終わり、先ほど通った大谷橋を渡り家路についた。時は15時21分。
     
日光の町を散策しながらある店に入り、妻への買い物をしながらご主人と話をしていて、大ビックリ!
鉢石は以前は、標柱の脇に立派に祀られていたけれど、駐車場ができたためその坂下の方へ移されているということ。私が貧相に見えた石など全く関係ないただの路傍の石であったことが分り、急ぎ戻った。
       
現場に戻ると、確かに標識の道を挟んで駐車場があった。以前はここに鉢石を祀っていたのだという。駐車場ができたので、標識のある坂道の下の方へ移設したという。
  
坂を下ると、「日光市指定史跡鉢石」と書かれた案内板があり、間違いなく捜し求めていた鉢石である。
中世紀まではこの辺は「坂本」と呼ばれていた。。勝道上人が766年に日光を開山した頃からここにも人家が建ち、鉢の形のした石があったことから、「鉢石」と呼ばれるようになったという。その石は昔から、柵をもうけしめ縄で飾って
神聖視されて保護されてきた。
 あわや見落としそうになったことの非礼を鉢石に詫び、こんどこそ心おきなく横浜に戻るため東武日光駅に向かった。
   
今市宿
                   
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