伊勢国桑名市
桑名宿から四日市宿へ
江戸日本橋から桑名宿まで374.9km、 桑名宿〜四日市宿間12.6km
                                          
この区間は、前日の宮宿歩いたあと桑名駅前のホテルに宿泊して、2002.12.7に歩いた。
天候は曇りで風も冷たかった。
宮宿の対となる七里の渡し場は、
残念ながら大規模な治水工事中で景色を十分堪能できなかったことは残念であった。
また七里の渡し周辺にはマップにを見ると結構史蹟跡があるはずであるが、
見過ごしてしまったことも多く心残りであった。
名市七里の渡し西矢田町町屋橋三重郡朝日町四日市市へ

桑名宿桑名を開発したのは天照大神の子孫と伝えられている豪族、桑名首(くわなおびと)だと言われている。平安時代以降は桑名神社を中心とした「十楽の津」と呼ばれ、楽市が開かれ商人の港町として発達した。江戸時代には城下町とともに、木曾、揖斐、長良の河川の合流する水陸の要衝として、物資流通の中継基地として繁栄した。
七里の渡し場にある大鳥居は、ここから伊勢国であり、旅人にとってはお伊勢参りの出発点という意味もあり、従って伊勢一の鳥居とも称している。桑名の町は、江戸時代1701(元禄14)年、1719(享保4)年の2度の大火に見舞われて城下町ほ殆ど消失してしまった。さらに明治維新の戦いで城は破壊され、太平洋戦争で戦災にあい、1959(昭和34)年の伊勢湾台風で大被害を蒙ったりして、昔日の面影は全くなくなしまった。
 本陣:2、脇本陣:4、旅籠:120、人口:8,848人
    
 桑名駅前のホテルを発って七里の渡し場(写真左右)についてのが8時50分。周囲が白い塀で囲まれていて伊勢神宮の一の鳥居が塀越しに見えていた。手前の塀に沿って右のスロープを上ると入口がある。
  
 入ると前面に揖斐川が広がっていて七里の渡し場前(写真中)は現在大掛かりな治水工事中(写真中)で背の高い土留め壁などが邪魔して、景観を楽しむような状況ではなかった。左手奥には1856(安政3)年建立の秋葉山常夜燈(写真右)がある。なお普通ならば左手水面上に住吉神社が見えるとのことであるが、ここも治水工事のため取り壊して神様が春日神社に仮住まい中で見ることができなかった。
   
7里の渡し場跡を後にして旧東海道を南へ歩くと、東海道マップには左手に丹羽本陣跡の標識などがあることになっているが、見当たらなかった。左側の住宅の裏は(写真)で何本もの橋がかかっている。
   
、そのうちの1本である北大手橋(写真)を渡って桑名城址に立ち寄った。
   
 桑名城跡は昭和3年に九華(きゅうか)公園として整備され、桜、つつじ、花菖蒲の名所となっている。写真左から順に三重県指定史蹟桑名城跡碑紅葉堀にかかる朱色の橋。桑名城は鎌倉時代初期に桑名三郎行綱が築城したのが最初で、その後いろいろな武将が入城するが関ヶ原の戦いで西軍についたため徳川家に没収された。本田忠政が城主の時、大阪城から救出され桑名城に立ち寄った20才の千姫に、忠政の子忠刻がとき一目惚れして強引に結婚し、桑名城へ入城させたという話もある。
九華公園の名前:桑名城はその形から「扇城」と呼ばれていた。「九華」は「くわな」と読ませ、江戸時代から使用されていた。これは中国で九華扇という扇があり、扇城の名と「くわな」の読みにかけて名づけられたということである。

    
 1つ上流の他門橋から旧東海道に戻り、南に歩きはじけると右手に春日神社青銅製大鳥居(写真中、右)と左足元にしるべ石(写真左)がある。「勢州桑名に過ぎたるものは 青銅鳥居に二朱女郎」とうたわれた大鳥居で、1667(寛文7)年に建立された。しるべ石は明治18年の建てられたもので、当時の人を探すための伝言板であった。正面「志るべい志」、左面「たずぬるかた」、右面「おしゆるかた」と刻まれている。
   
 春日神社から200mほど行くと丁字路になり、左は南大手橋へ行くが反対に右折して桑名市博物館脇を通って広い京町通りを横断して、最初の丁字路を左折してよつや通り(写真)が旧東海道である。
   
 よつや通りを通って約300m行くと勤労青少年ホーム敷地角に宿の出入口である吉津屋見附跡碑(写真)がある。現在この地は鍛冶町となっているが、江戸時代初めは吉津屋町に属していたので、吉津屋見附と呼ばれていた。
   
 見付け跡を過ぎてからちょっと迂回する形で左折して100mほど行ってから、右折して京町通りに並行して走る寺町通りに出る。名前の通り数多くの寺が道の右側に並んでいる。光徳寺(写真)には万古焼創始者の江波弄山(1718〜1777)や大阪の市岡新田開拓者の市岡宗栄(1664〜1714)の墓がある。
万古焼:弄山が創始した陶器で茶陶が多く赤絵に優れ、その技法は数々の人々の研究と工夫によって受け継がれている。現在では食器、花器、工芸品として愛用され、海外にも輸出されている。
   
 十念寺(写真)には明治維新に、桑名藩が敗北した責任をとり藩を代表して44歳で切腹した、森陣明(もりつらあき)(1826〜69)の墓がある。きちんと結果責任をとれる政治家でないと政治を任せることができないのは、時代が変わっても同じことであるし、現状の有様を見ているとやはり切腹の復活が必要なのかも。
   
 寿量寺(写真左)には、江戸城の障壁画を画いて京都に帰る途中の1608(慶長13)年に桑名で没した、狩野光信の墓(写真右)が参道入口のすぐ左側に小さな五輪塔(写真手前の黄色花がある)としてある。
   
 道なりに歩くと、広い京町通りに出るがすぐ日進小学校前通りから右折して西へ向かう。交差点からすぐの右に天武天皇社(写真)がある。壬申の乱(692年)の際、大海人皇子(のちの天武天皇)が桑名に駐在されたことにちなみ建立された神社で、天武天皇を祭祀する神社として全国唯一とのこと。天武天皇は、大化の改新とそれに続く内政外交上の大変革期に成長して、白村江敗戦後国政の表にたち、壬申の乱に勝って第40代天皇となった。
   
さらに進んでいくと十字路の右角に
「左 東海道     右 西京渡船場道  伊勢道 」 の
道標(写真)がある。
   
 西へ進み郵便局前を通過して国道1号線を横断すると、西矢田町となり右側に竹内家の馬のつなぎ輪(写真:コンクリートの上部に黒い模様のようになっている)が残されている。往来した旅人たちが馬をつないで休息した風景が伺える跡である。ただ当家のご主人とたまたまお話できたが、ご主人は輪の高さの位置からして馬ではなく牛の輪であると考えているとのことである。そういえば昔見た西部劇でも馬の手綱をとめる位置は確かに高いところにあったことから、ご主人の推理の方が妥当と思うのだが。
   
さらに進むと道は丁字路になり、その右角に復元された火の見櫓の矢田立場(写真)がある。
   
旧東海道は左折して真っ直ぐな道を南へ進む。この辺は江場松原跡(写真)で、民家は全くなくて松並木となっていて西には鈴鹿山脈、東には伊勢の海が見えるとても景色のよいところであった。1959(昭和34年)の伊勢湾台風のころまでは松並木も残っていたが、現在は家が立ち並び松は1本も残っていない。
   
国道258号線高架下を通り、昔の面影を残す安永の町並み(写真)を見ながらさらに南へ進む。
   
町並みの終わりの一段高い位置に、伊勢神宮常夜燈と里程標(写真)がある。
   
さらに20mほど直進すると小さな公園(写真)があり、昔はここから対岸まで町屋川に橋がかけられていていたが、現在は下流へ架け替えられている。
   
下流側に迂回して現在の町屋橋(写真)を渡ると、中間地点で桑名市から三重県朝日町に入る。
   
 町屋橋を渡ると堤防沿いに右折し、左折して旧東海道に戻る。そこから南西へ300mほど行くと左に江戸から97番目の一里塚跡碑(写真)がある。
   
さらに約600m行き近鉄名古屋線いせあさひ駅の踏切を渡ると、右側に東芝工場(写真)がある。
   
東芝工場の道の反対側の左に枯れた榎(写真)があり、街道の松並木に混じって植えらたもので樹齢は推定300年ある。
   
 踏切を渡って約1km道なりに進むと十字路があり、手前の左角は朝日町公民館で、旧東海道は直進する。少し行くと右に浄泉坊(写真)がある。1603(慶長8)年に伊勢慶昭が正治寺を再興し小向山浄泉坊と改称したのが始まりで、1638(寛永15)年に西本願寺から寺号の公称を許された。徳川家ゆかりのある桑名藩主奥方の菩提寺でもあったため、山門や瓦に徳川家紋章の三つ葉葵が入っていて、参勤交代の大名はこの寺の前で駕籠をおりて一礼したという。
   
 道なりに進んでい行くと浄泉坊から約500mで道は丁字路になるので、左折する。人家の殆どない道を歩き続けると桜並木(写真)に来る。
その先の朝明川にかかる朝明橋手前で三重郡朝日町から四日市市に入り四日市宿へ向かうことになる。
                        
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