江戸日本橋から千住宿
(宿間距離 8.7km)
            
2003.5.5江戸日本橋に立った。
2002.年に東海道53次を歩いたときは、こ日本橋から南へ向かった。
さて、今度は方向が反対の北へ向かって歩くことになったが、
街道歩きを一度経験しているせいか余分な感情もなく淡々とした気持ちでの第一歩であった。

この区間の旧日光街道は中央区、台東区を経て荒川区の千住大橋までで、
東京の中心地のビル街と下町の浅草を通る。

起点: 江戸日本橋 (国指定重要文化財)(中央区日本橋一丁目、日本橋室町一丁目)
2003.5.5江戸日本橋に立った。
ここ日本橋は日光街道だけでなくて東海道、奥州街道、中山道、甲州街道の五街道起点ともなっている。写真で日本橋の看板がかかっているのは高速道路で、その下の車が通っているのが日本橋である。 
この日は天気良好で12時15分、昨年東海道へ出発した時と反対の北へ向かって歩き始めた。

日本橋:慶長8(1603)に家康により架け替えられた。以降20回も架け替えられ、現在のものは明治44年(1911)築造でルネッサンス様式の石橋となっている。
   
 日本橋の中央には五街道の起点標識である道路元標が埋められているが、橋の北側西たもとには複製道路元標(写真右、中)里程標(写真右、左)が並んで設置されている。
 よく道路標識で「東京まで
○○km」とあるのは、ここまでの距離を示していて、ちなみに里程標によると青森までは736kmとある。
   
 橋の北側東たもとには魚川岸の碑(写真右、昭和29年建)があり、この地が魚介類の市場で関東大震災で市場が築地に移るまで江戸の一大問屋街とて栄えたと、刻まれている。
その左側には地下鉄
銀座線三越前駅(写真左)の入出口が並んでいる。
   
道路の右側歩道を歩くとすぐ左前方に三越百貨店のビルが見えるが、ここは越後屋呉服店跡である。
   
橋から約400m歩いてUFJ銀行の角から右折する。旧日光街道(写真左)はビル街の中を真っ直ぐ通っている。この日は休日で人通りのないひっそりとした道で、250mほど行くと高架道路下の国道4号線に出るが、横断歩道がないので右手にある地下道(写真右)で横断する。
   
横断して200m行った右側のHOTEL GILMOND(写真左)の電柱の陰になっている植栽の一角に「旧日光街道本通り石碑(写真右)があり、この道が旧日光街道であることを証明してくれている。さらにその側面には「徳川家康公が江戸開府に際し 御傅馬役支配であった馬込勘解由が名主としてこの地に住し 以降大傅馬町と称された」と現在の町名の由来が刻まれている。 
   
さらに進み100mほど行ったところで交差点に出る。ここで左折して寄り道し国道6号線の小伝馬町信号を横断して最初の小路を左折すると右側に十思公園があり、ここには石町時の鐘宝永時鐘(写真)がある。江戸時代最初の時の鐘が、2代将軍秀忠の時代に日本橋石町に鐘楼堂を作って納められたが、その後3度の大火で破損したため、宝永8年に鋳造されたのがこの宝永時鐘である。石町鐘楼堂から220mほど離れたところに傳馬町牢獄があり、処刑はこの鐘の音を合図に執行された。幕末に時鐘が廃止されたあと、昭和5年9月にこの十思公園に鐘楼を建設して移された。なおこの鐘は、銅製で高さ1.7m、口径0.93mの大きさである。
   
十思公園の前には、大安楽寺があり玉垣の前には、「江戸傳馬町処刑場跡石碑が立っている。
伝馬町牢は慶長年間から明治8年までの約270年間存続し、この間全国から送られて入牢したものは数十万人を数えたといわれている。牢屋敷地は現在の大安楽寺、十思公園、十思小学校などを含む2,618坪の総面積を有していた。牢舎は揚座敷
(旗本の士)、揚屋(士分僧侶)、大牢(平民)、百姓牢(百姓)、女牢(婦人)に別れていて、死刑場があったところの大安楽寺境内には地蔵尊が建てられている。
著名な人達も多くここで処刑され、安政の大獄では吉田松陰、橋本左内など50余人が刺殺されている。
吉田松陰:天保元年
(1830)生まれで、明治維新に伊藤博文、山県有明、木戸孝光等の著名人を輩出した萩の松下村塾での教育が最も偉大は事業として残しているが、この伝馬町牢獄には2度入牢している。一度目は安政元年に海外密渡航に失敗し、2度目は安政6年の安政の大獄の時で、そして同年10月27日に30才の若さで処刑された。なお一度目の時下田から伝馬町へ送くられてくる途中、高輪泉岳寺で読んだ有名な次の歌がある。
  
かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂 
   
もとの日光街道へ戻り、歩いて行くとこの辺は地本問屋跡(日本橋大伝馬町12付近)となる。なお地本とは、江戸時代出版された小説、草双紙などをいう。
   
そのまま歩き横山町交差点を直進し、日光街道に戻って約700mのところの浅草橋信号で国道14号線を横断する。
そのすぐ先の両国郵便局前を過ぎると、神田川にかかる
浅草橋(写真左)がある。この橋から隅田川につながる川下を見ると岸壁に繋がれている屋形舟(写真右)が多数見えた。隅田川に繰り出すまでの時間待ちの一休みということであろうか。
この浅草橋が初めて神田川にかけられたのは寛永13年
(1636)で、当初は浅草御門前にあったことから浅草御門橋と呼ばれていたが、いつしか浅草橋になったという。
   
浅草橋を渡ると台東区になり橋の西たもとには、「浅草見附跡石碑がある。江戸幕府は、主要交通路の重要な地点に櫓、門、橋などを築き江戸城の警護をした。奥州街道が通るこの地には、浅草観音への道筋に当たることから門が築かれ浅草御門と呼ばれ、そして警護の人を配置したことから浅草見附といわれた。
浅草橋からは国道6号線が旧日光街道で、約150m行きJR総武線のガード下をくぐると、目の前に秋月、久月、寿幸などの看板がかかっているビルが目に付くが、人形問屋である。浅草橋は問屋街で有名なところである。
道なりに350mほど歩いて須賀橋交番から右折すると、左に榊神社がある。榊神社は江戸時代には第六天神社といい、厄除神として知られていた。ここには浅草文庫の碑があるが、上野図書館の前身で幕府の書籍収蔵所だったところである。
   
日光街道に戻り少し行き蔵前橋通りを横断すると、道は二つに分かれ左が国際通りで、日光街道は右の国道6号線を進んで行く。国道6号線の地下には都営浅草線が走っていて、すぐ目の前に地下鉄蔵前駅の出入口が現れる。蔵前の名の由来はかって浅草御蔵と呼ばれた幕府の米蔵が立ち並び、年貢米が貯蔵されていたところから来ている。
春日通りを横断して蔵前通りから約1kmほどのところに来ると、道路の反対側の店に人の長い行列ができていた。何事かと見ると、
駒形どぜうののぼりが数本たっている。創業200年の老舗「駒形どぜう」店の行列であった。それにしても都会ではよく行列をなして食する光景をよく見かけるが、グルメ志向のその忍耐力にはとても頭が下がる。私などはグルメにはとんと無関心なので、昼食などははやらない店でゆっくり食べることがベストとしている。
  
その先はすぐ浅草通りの交差点の駒形橋西詰信号に出る。右は隅田川にかかる駒形橋(写真右)で信号を渡ると右角に小さな駒形堂(写真左)がある。天慶5年(942)に創建されたもので、本尊は馬頭観世音菩薩。葛飾北斎、安藤広重らにより、堂は絵に描かれていて小さくても江戸では有名な堂であった。堂は関東大震災で焼失し、現在の堂は昭和8年に再建されたもの。
またここの地下には都営浅草線の浅草駅があり、浅草寺の観光客がいつも大勢利用している駅の一つである。
  
歩いて行くと正面に高いビルが目立つ。このビルは松屋デパートで中には東武伊勢崎線浅草駅もある。
道はこのビルの前で5差路になっていて、ビルの右側を直進するのが日光街道で、右折すると隅田川にかかる吾妻橋になり、左折すると雷門があり浅草寺へ通じる。

浅草:浅草は古くから墨田川を利用した物流集積基地として栄えたが、下町の代名詞のように言われている浅草も、江戸時代は下町の枠にも入らない地域であった。そのため封建社会の制度の希薄な土地として、羽を伸ばして風俗や流行、文化を享受できる、浅草独自の文化を発展させた。
   
松屋ビル前の5差路の吾妻橋信号で右を見ると、紅い吾妻橋の向うに黄金の大きな塊が派手に浮いている、ように見える。これはアサヒビールの広告塔であるが、それにしても大胆な発想の工作物である。
  
少し寄り道をして左折して100mほど行くと右側に100kgもある大きな提灯を吊るした雷門(写真左)がある。この門前は観光客が途切れることなく記念写真を撮っていた。そしてそういう観光客を目当てに人力車が道路の両側に多数並んで車夫が客引きをしている姿は、いかにも観光浅草の風景としてふさわしい。
雷門をくぐるとアーケードの
仲見世商店街(写真右)が宝蔵門まで延々と続き、多数の人でごった返していた。(写真を撮影したときは偶然にも人の群れが途切れた時であった。)ただ人混みの多くは外国人で、中国系の人が多いのではないかと思う。
雷門:浅草寺の総門で正式名は風雷神門といい、右側に風神像左側に雷神像があり創建は不明。
仲見世通り商店街:雷門から宝蔵門までの300m区間に約90店舗が並び、始まりは江戸時代初期で、
手焼せんべい、人形焼き、民芸品などのお土産が多い。

   
仲見世を抜りi通り抜けると、浅草寺山門の宝蔵寺(写真左)があり、門をくぐると浅草寺本堂(観音堂)(写真右)がある。
浅草寺:推古36年
(645)漁師の檜前(ひのくま)浜成、竹成が墨田川から拾いあげた観音像を土師中知(はじのなかもと)とともにお堂をつくって供養したのがはじまりで、昭和20年3月に戦災で焼失したが昭和33年に再建された。山号は金龍山、通称は浅草観音。年間参拝客は3千万人。
  
浅草寺本堂の右には、「さんじゃさま」と親しまれている、漁師の檜前浜成、竹成、土師中知の3人の祭神を祀った浅草神社がある。テレビなどで毎年紹介される三社祭りは5/17に近い金、土、日に開催されて大小90の神輿が繰り出し、観客は3日間で約150万人にものぼる。
浅草のお祭り:古くからの町で観光に力を入れているせいか、毎月のようにお祭りや行事がある。主なものは、針供養(3/3)、浅草観音示現会(3/18)、花まつり(4/8)、ほおずき市(7/9,10)、台東薪能(8/下)、隅田川の花火大会、浅草秋の観光まつり(10/10〜15)、浅草菊花展、菊供養(10/15〜11/15)。圧巻はリオのカーニバルと同じように女性の裸体が舞い踊る浅草サンバカーニバル(8/下の金、土)であり、1981年から開催されている。
 
   
5差路に戻り、松屋デパート右側の国道6号線を歩きデパートのはずれで東武線のガード下をくぐる。
道の右手にはよく知られている隅田川が平行して流れ、両岸には
隅田公園(写真左)があり憩いの場となっている。たまたま人力車(写真右)が通ったので、カメラを構えたら止まってポーズをとってくれたが、何故か車夫だけが目立つ写真となった。なお乗っているお客さんにはホームページの掲載の了解をいただいているので、念のため。
隅田公園:関東大震災後に避難所として隅田川の両岸に造られた公園で、かっては文人などの舟遊び、散策の拠点でもあった。

  
5差路から約600m歩くと、言問通りの言問橋西信号のある5差路に出る。日光街道は正面の左側の吉野通りの道となり、右側は隅田川沿に直進する道で、国道6号線は右折して隅田川にかかる言問橋を経て対岸へ行く。言問橋から隅田川の上流を眺めると遠くに桜橋が見え、左岸には多数のホームレスのテントが整然と並んでいる。
  
言問橋信号から200mほど先の歩道に「待乳聖天」案内の白杭があり、右折したすぐのところに浅草寺子院の待乳山聖天(まつちやましょうでん)がある。正式には待乳山本龍院といい、創建は推古9年(601)で夫婦和合のご利益があるとして広く信仰されている。現在の本堂は戦災で焼失したものを昭和36年に再建されたもの。
なおここは小丘で江戸時代は東都随一の眺望の名所と称せられ、多くの浮世絵や詩歌などの題材ともなった。
境内には江戸時代の歌人戸田茂睡の作の次の歌碑がある。
  
哀れとは夕越えて行く人も見よ 待乳の山に残す言の葉
   
さらにこの近くには今戸神社(写真右)があり、本堂の右前には新撰組の沖田総司終焉之地碑今川焼発祥之地碑(写真右)がある。今戸焼の記念碑が立っている。この辺は江戸名物今戸焼の生産地で現在も小規模ながら続いている。
  
日光街道に戻り、台東区浅草の市街地を淡々と進み泪橋信号のある明治通りを横断すると荒川区となる。待乳山聖天から約1.6kmのところにある都営バスターミナル前で、南千住駅前歩道橋を渡って線路を横断する。
階段を下りた右側には営団日比谷線南千住駅があり、左側には
小塚原刑場跡がある。
この付近は江戸初期頃から「浅草のはりつけ場」と称せられ重罪人の刑場であったが、その後刑場として開創され明治時代に廃止されるまでの220余年にわたり、ここで処刑された死体、また伝馬町牢獄で処刑された死体の捨て場となり、その数は約20万人となったという。刑死者の菩提をとむらうために寛保元年
(1741)に建立された、南妙法蓮華経と刻まれた題目石石首切り地蔵が残っている。この地蔵は花崗岩の坐像で高さ3.6mある。
  
刑場跡kからJR常磐線のガードをくぐると左に小塚原回向院(写真左)がある。江戸時代は刑死者を自由に供養することは許されなかった。回向院は、寛文7年(1667)に本所回向院の住職弟誉義観(ていよぎかん)がこれら刑死者と行路病死者を供養するために開いた寺で、当初は常行堂と称していた。墓地には安政の大獄で刑死した橋本左内、吉田松陰、頼三樹三朗らの多くの志士が葬られている。寺院から墓地に入って左折したすぐのところに、生前の名前を記した掲示板とともに4つの墓(写真右)が並んでいる。写真右から、腕の喜三郎、高橋お伝、片岡直次郎、ねずみ小僧次郎吉。
ねずみ小僧次郎吉:中村座の木戸番の子として生まれ、名は次郎吉。武家屋敷ばかり狙うので義賊とよばれ 120回以上も盗みに入ったが、ついてに捕らえられて鈴ヵ森で処刑された。なお本所回向院にも墓があるが、法名も没年も違っているとのこと。

  
小塚原回向院から500mほど歩いて国道4号線に合流すると、その左側に地元ではてんのうさまと呼ばれている素盞雄(すさのお)神社(写真左)がある。創建は延暦14年(795)で瑞光石信仰にもとづく縁起の古社である。この境内には、松尾芭蕉「奥の細道」の矢立初めとなった下記の有名な句を刻んだ碑(写真右)がある。
   千寿といふ所より船をあがれば
   前途三千里のおもひ胸にふさがりて
   幻のちまたに離別の
   なみだをそそぐ「行くはるや鳥啼き魚の目は泪」

文政3年
(1820)10月12日の芭蕉忌に際し、千住宿に集う文人によって建てられた碑であるが、以来170有余年の風雨による損傷が激しく判読できなくなったため、平成7年に復刻されている。
  
      
これからは国道4号線が旧日光街道となり北へ向かって歩いて行くと、前方に墨田川にかかる千住大橋が見える。この橋を渡ると千住宿の町並みが待っている。
この時腕時計は15時10分を指していた。
                  
千住宿へ
                 
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