千住宿から草加宿へ
(宿間距離 9.2km)
           
2003.5.5日本橋を出発して、15時10分に千住大橋を渡った。
この区間の旧日光街道は、千住大橋から足立区千住を経て埼玉県草加市境界までで、千住宿を通る。
千住大橋から始まり荒川方水路にかかる千住新橋付近までが、千住宿であった。
千住が宿場として栄えたのは、慶長2年(1597)人馬引継ぎ駅として以来のことで、
寛永2年(1625)東照宮建立によって日光道中初宿として繁栄した。

5街道の江戸からの出口には、
千住宿(日光・奥州街道)、内藤新宿(甲州街道)、品川宿(東海道)、板橋宿(中山道)
の4つの宿場が設けられていた。
旅籠が一番多く、賑わったのが品川宿であったが、
千住宿は「やっちゃ場」(野菜市場)があり、人口(約1万人)と家数(約2400軒)が一番多かった。
また日光、奥州街道以外にも水戸佐倉道、下妻道、大師道ともつながる交通の重要拠点でもあった。

現在の千住大橋は昭和2年(1927)に鉄骨で架け替えられたもので、最初の橋は文禄3年(1594)に隅田川最初の橋として架けられた。当初は大橋と言えばこの千住の大橋をさしていたが、下流に大橋「両国橋」や新大橋がつくられたため「千住」をつけて呼ばなければならなくなった。
隅田川と橋:江戸幕府は軍事防衛上千住大橋、六郷橋以外には極力橋を架けさせなった。しかし明暦の大火
(1657)で多数の犠牲者がでたことから両国橋が架けられ、以降大川橋(吾妻橋)、新大橋、永代橋と次々と架けらることとなった。
   
千住大橋を15時15分に出発して、100m行くと道は足立市場入口信号で分岐し、旧日光街道は国道4号線と別れ右手の直進する狭い道となる。その分岐点の右側には都中央卸売市場足立市場の入口が見える。
   
分岐点から見た旧日光街道は、偶然であろうか全く人の影も車もみあたらない真っ直ぐな道であった。遠くに京成本線のガードが見える。
この通りは、元
やっちゃ場といい、多数の青果問屋が道の両側に軒を並べていた。古く戦国時代の青空市場から始まり、江戸、明治と続き大正、昭和が最も盛んで昭和16年末太平洋戦争で閉鎖されるまで、江戸、東京への青果物を供給する一大供給市場であった。やっちゃ場の名の由来は、青物市の毎朝威勢のよい「やっちゃやっちゃ」のかけ声のひびきから来ているといわれている。
   
100m行くと左の家の壁に、「此処は 元やっちゃ場 南詰が掲げられていて、問屋等屋号配置図で道の両側に39軒の屋号が図示されている。
   
やっちゃ場通りの店々には、当時の屋号を書いた表札が掲げてある。
   
京成本線のガード下をくぐるとすぐ左に、千住歴史プチテラスがある。プチテラスは平成5年に地元の千住4丁目の紙問屋の横山家の蔵を解体移築したのもで、街道や宿場に関する資料が展示されている。なお門の右側には建物の構造を記した図が掲示されている。
   
そこから約10m先の十字路の左に「旧日光道中道標が立っていて、側面に「是より西へ大師道」と刻まれている。当地点は佐野大師、川崎大師と並ぶ日本3大師の一つである西新井大師への道の起点となっている。
   
やっちゃ場を通りを150mほど行くと、千住仲町信号のある墨堤通りの交差点に出る。この左角の店の外壁に「此処は 元やっちゃ場 北詰が掲示されていて、ここまでがやっちゃ場であったことを示している。
   
前方を見ると、隅堤通り向うに旧日光街道の入口の千住仲町商店街が見える。
   
商店街を350mほど歩くと、また大きな道路に出る。その左側の歩道に千住高札場跡石碑が立っている。高札は幕府や藩などが出す法令、規則などを周知させるための掲示板のようなもので、宿の出入口に設置したもの。千住高札場は5街道初の高札場で、材料は尾州檜で、高さ2間、幅3間、奥行1間半もあったという。
   
地図を見るとこの左側に一里塚跡石碑があるはずであるが、いくら探しても見つからずあきらめかけたとき、偶然にもマンション入口なバイクの陰に立っているのを発見した。それも何かにぶつけられたのであろうか、傾いている惨めな姿であった。周囲の状況から言っても、ここに設置しなければならない必然性はないと思う。もっと適切な位置に移設した方がよい。
一里塚:江戸日本橋を起点にして、1里(約4km)ごとに街道の両側に設けられた里程を示す土盛。
   
道路を横断して、約400mの千住仲町商店街を通り抜けると、千住二信号のある北千住駅前通りの交差点に出る。右手に東武伊勢崎線北千住駅を見ながら道路を横断して、宿場町通りサンロード商店街に入る。
旧日光街道は左手に国道4号線、右手に東武伊勢崎線に挟まれた形で北へ向かう。

   
商店街に入ると一つ目の十字路の左側に100円ショップ「シルク」店があるが、ここが千住宿本陣跡(写真右)である。千住宿本陣跡の案内板(写真左)は、小路の対面のインテリアハウス「ヤマザキ」の外壁に掲示されているので分りにくく、私などは見過ごしてしまった。案内板によると、千住宿の本陣(大名等専用の宿屋)はこの1ヵ所だけで、敷地は361坪、建坪は120坪で間口9間半、奥行38間あったという。
   
商店街を進んで行くと右側に、千住ほんちょう公園があり「千住宿・高札場由来」説明板が立っている。
   
宿場町通りに入り400mも歩くと商店もまばらになるが、左側に吉田家の絵馬屋(写真左)が見えてくる。吉田家は、江戸中期より代々絵馬を描いてきた問屋で、当代は8代目にあたる。先代からの独特の絵柄とその手法を踏襲し江戸時代からの伝統を守り続けていて、手書きで描く絵馬屋は殆ど見かけない希少的な存在となっているという。縁取りした経木に、胡粉と美しい色どりの泥絵具で描く小絵馬が千住絵馬である。
道の反対側には、江戸時代から続く紙問屋松屋(写真右)の横山家がある。玄関の柱に残っている刀の傷跡は官軍と戦った彰義隊が刀で斬りつけたものであるという。なお横山家にあった蔵が、先ほど見た千住歴史プチテラスとなっている。
   
そこから200mも行くと道は荒川の土手に突き当たる。その手前右側に古風な長屋門のある名倉医院がある。明和年間(1764〜)開業した歴史ある接骨医院で、戦前は1日の患者数は300〜600人もあったという。
   
道は土手沿いに左折していて、土手にあがると荒川千住新橋の広い景色が目の前に展開する。
この川は、昭和5年
(1930)に荒川放水路として人工的に造られたもので、江戸時代には存在しなかったものである。
なお旧日光街道は、千住新橋のたもとから対岸まで西へ斜めに走っていた。

   
千住新橋の上から荒川下流を見る。遠くに見えるのはJR常磐線の鉄橋。
荒川の改修:古来から荒川はたびたび氾濫を起こし、荒ぶる川であった。明治43年
(1910)の大洪水を機に、翌年から約20年の歳月をかけて全長20kmにおよぶ大規模な放水路が開削され、昭和5年(1930)荒川放水路が完成した。昭和51年に荒川放水路を荒川と名称変更した。
   
千住新橋を渡り荒川の土手沿いに西へ約450m歩いて、旧日光街道に戻る。
土手をおりて約300mほど行くと、左側のセブンイレブンの前に
石不動お堂があり、子育て八彦尊のお地蔵さんが祀られている。このお地蔵さんは以前荒川の土手下にあったといい、そのためお地蔵さんは荒川の方を向いている。  
さらに約550m進んだ広い道との合流点に、「右日光道中」「左東武鉄道旧線路跡と刻まれた道標がたっている。これからするとこの広い通りは線路跡ということになる。
   
広い通りを斜めに横断し、東武伊勢崎線梅島駅でガード下をくぐり、さらに島根信号交差点で環七通りを横断して北へ淡々と歩く。旧日光街道標識から約1.3km地点の左折する道のコーナーに、将軍が安穏寺に立ち寄るために渡った「将軍家 御成橋松並木跡が立っている。
   
すぐその先で道路を横断し直進するが、腕時計を見ると17時10分。空も夕暮れが近くなった色彩を感じさせるようになった。さて今夜泊まれるホテルがあるとこまで急がなくてはと、気持ち足を速めることにした。
   
300mほど歩くと、左側に「島根鷲神社」の案内標識が立っているので、そこから左折して小路を入って行くと鷲神社がある。文保2年(1318)に創建された島根村の鎮守で、11月の酉の市は台東区千束の鷲神社ほど有名ではないがにぎやかである。祭礼時奉納される島根ばやし、島根神代神楽は足立区の無形民俗文化財となっている。社殿は昭和31年に再建されたもの。
   
旧日光街道に戻り、市街地の平坦な道を3kmほど歩き西保木間になると、高い煙突が見え始める。そして西保木間小学校を過ぎると左側に足立清掃工場があり、煙突はこの清掃工場のものであった。
夕陽での逆光撮影で、もう日が落ちたような写真であるが、肉眼的にはまだ充分明るい場面であった。

   
さらに歩いて草加バイパスの下をくぐって、国道49号線に出て埼玉県との堺の毛長川にかかる水神橋を渡ると、埼玉県草加市の看板が見える。ここは江戸日本橋から15.6kmの地点。腕時計は17時58分を示していた。
  
日本橋へ 草加宿へ
                
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