草加宿から越ヶ谷宿へ
(宿間距離 6.2km)
    
200.5.5の正午の江戸日本橋を出発し、17時58分に草加市の境に到着した。
草加宿は、草加市役所敷地の地蔵堂から、約2.5km先の神明町信号付近までといわれ,
宿場時代には、家数723軒、人口3619人、本陣、脇本陣、旅籠67軒で、
賑やかな宿であったという。
加宿の成立と地名の由来:千住から越谷間は沼地が多いため、東側の八条(八潮市)から古利根川沿い迂回する遠回りのコースを強いられていた。
これを慶長11年(1606)に地元の大川図書が、低湿地帯を草を束ねて敷いた上に土で固め、その上にまた草を束ね敷いて土で固めるというやり方を繰り返して、千住と越谷をほぼ一直線の新往還道を造成した。
この「草」を「加」えて道を造成したところであったので、「草加」と名づけられたという。
その後この道を通る人々が急増したため、寛永7年(1630)大川図書が幕府に願い出千住と越谷の間の宿として、草加宿が成立した。

17時58分足立区と草加市の境界を出発した。日が長いといってもさすがにこの時間ともなると夕暮れの色が濃くなったので、今日の宿泊ホテルを探すため東武伊勢崎線草加駅へと急いだ。
国道49号線を7分ほど歩くと、十字路があり、左手方向には東武伊勢崎線谷津駅、右のコーナには
富士浅間神社がある。神社の創始時期は不明であるが、本堂は天保13年(1842)に再建されたもので、間口2.32m、奥行3.6mで前面に軒唐破風、千鳥破風を配し随所に彫刻を配し善美を尽くしたものである。見る社殿を意識して造られたもので、宮彫彫刻を研究する上で重要なものとなっているという。
  
さらに、49号線を約10分直進し吉町5丁目信号の右角の広場に小さな火あぶり地蔵堂がある。
母危篤の知らせを聞いた奉公中の娘が、主人に暇の願い出たが許されなかったので、主人の家が焼けてしまえば母に会えると放火してしまった。捕らえられ火あぶりで処刑された娘を哀れんだ村人が、この地蔵を建てたもの。

   
しばらく歩くと、道は二つに分岐し旧日光街道は49号線と別れて左の市役所通りになる。
火あぶり地蔵から15分程歩いたところの左側に草加市役所があり、その敷地の一角に小さな
地蔵堂がある。寛文7年(1667)に建てられ、当時草加の最高実力者の大和屋浅古家の屋敷神であったもの。
  
さらに市役所通りを進むと交差点丁字路の左側に「草加神社立柱があるが、もう暗くなってよく読み取れない。今日はこれまでと、腕時計を見ると18時34分であった。
それから、東武伊勢崎線草加駅まで歩き、電話帳で草加駅近くにビジネスホテルを探すことにした。

  
翌5/6の朝早く,,タクシーで国土交通省北首都国道事務所へ「日光街道道中絵図(埼玉県内版)」をもらいに往復した。駅より遠くタクシー代も時間もかかってしまった。
草加駅東口の駅前のアコス広場には、等身大でせんべいをやく「
おせんさんのブロンズ像がベンチに座っている。やはり草加せんべいの本場である。
草加せんべい発祥の由来:いろいろな説の一つとして次のものがある。 草加松原で茶店をしていた「おせんさん」が、売れ残った団子の処分を思案していたところ、通りがかりの武士が「つぶして日に干して、焼くといい」と教えてくれたことから始まったという。草加にはやたらと「草加せんべい」の看板を出している店が多いが、良質の米や醤油に恵まれた地方であるということでもあろうか。
   
駅からまっすぐ5分くらいあるいて旧日光街道の市役所通り戻り、前方の元草加宿の通りを見る。
この時間9時20分、何故か殆ど人通りがなく、静かの町並みであった。

   
北へ8分ほど歩くと、十字路になった右角の小さな公園敷地に、せんべいの考案者と言われる「おせんさん」にちなんで名づけられた「おせん茶屋建物(写真左)がある。この建物はトイレもあり休息所とて利用されている。茶屋の前には日光街道道標(写真右)がある。
   
東福寺山門
その左側には長い参道の、草加宿駅成立の功労者の大川図書の菩提寺の東福寺がある。ここの寺院の鐘楼、本堂、山門は市の指定文化財となっている。
   
すぐその先の新明町信号辺りまでが元宿場で、ここで国道49号線と合流して進むと、すぐ綾瀬川にそそぐ伝右門川にかかる草加6丁目橋に出る。橋の向うには高い木造の建物が見えている。
   
橋を渡り切ると、右側は札場川岸公園となっていて、入口のところには芭蕉立像がある。
なお札場川岸の名前の由来は、かってここに私設の河岸場があり所有者の屋号が「札場」であったことから命名された。芭蕉の紀行文「おくのほそ道」に、元禄2年
(1689)3月27日、江戸深川を出立し「其日漸(ようよう)草加と云う宿にたどり着きにけり」と記されている。
   
ここから国道49号線と別れ公園内を通って行く。
公園入口の右手奥には、先ほど橋のところで見えた
檜の望楼(写真右)があり、左手は公園中を通る道(写真左)がきれいに整備されていた。
  
綾瀬川沿いに歩いて行くと木造の矢立橋がある。橋といっても国道34号線を跨ぐ歩道橋である。
松並木の残るこの辺は、「奥のほそ道」に因んだ名所が多く、矢立橋、百代橋などの名称もそれである。

   
矢立橋の階段を登り天場から、左手(写真左)の西側を見る。前方(写真中)の松原遊歩道を見る。
右手
(写真右)の東側を見る。
   
矢立橋を渡ると、綾瀬川に沿った松原遊歩道がよく整備されていて、またこの日は殆ど人通りがないので特別に快適な気分で歩くいた。ただ綾瀬川の水はよどんでいて、興ざめであったが、都会の川の宿命であろうか。松原遊歩道は、元建設省の「日本の道百選」に選ばれている。
なお草加松原は、天和3年
(1683)に植えられたもので、総延長1.5mほどある。
  
700mほど行くと、木造の百代橋がある。
   
百代橋を渡ると、左手に松尾芭蕉文学碑がある。芭蕉もこの草加松原を歩いたかもしれない。
   
札場河岸公園から延々と続いている松原遊歩道も遠くに東京外郭環状道路(外かん)の高架が見えることになると、道も多少荒れたような状態になってくる。
   
外かんの高架のガードをくぐり抜けると、左側に壁に芭蕉の絵がある。
芭蕉と弟子の曽良が日光街道を旅をしている姿を描いた絵タイルである。
   
綾瀬川に沿って、さらに歩き続けると、遠くに蒲生大橋が見え、右にこんもりとした木が見えるが、ここには一里塚跡碑がある。
   
外かんのガード下を潜ってから約1km歩いて蒲生大橋に到着したが、この橋の中間が草加市と越谷市の境界となっている。
腕時計を見ると10時34分。草加駅前を9時20分に出発してから、ここまで約70分かかったことになる。
              
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