越ヶ谷宿から粕壁宿へ
(宿間距離 10.31km)
             
2003.5.6 草加市から引き続き越ヶ谷宿を歩いた。
越ヶ谷宿は埼玉県内の日光街道で最大の宿場町で、徳川家康は鷹狩でたびたび訪れた宿でもあり、
休息所のあった場所は現在でも「御殿町」という地名で残っている。
宿場町は、現在の越谷本町と元荒川を挟み大沢町を含めた地域で、
本陣・脇本陣などは大沢町に多かったという。
幕府の保護下に年貢米や商品輸送の大動脈だった越ヶ谷は、綾瀬川、古利根川、元荒川が流れ、
武蔵野の雑木林が広がっていた。
歩いているとなんとなくそんなことを感じさせる越谷でもあった。

    
綾瀬川にかかる蒲生大橋の中間が、草加市と越谷市の境となる。
蒲生大橋は、文化3年
(1806)の「日光道中分間延絵図」では、大橋土橋と呼ばれ、長さ12間4尺、幅2間1尺の橋で、足立郡と埼玉郡の境と記されている。その後大正7年に木橋として架橋され、昭和51年に現在の永久橋に架け替えられた。
橋の壁には「
舟あぞび 綾瀬の月と 領しけり 俳人高浜虚子」と刻まれた銅版が埋め込まれている。
天気良好の中、2003.5.6 10時35分 蒲生大橋を渡った。

  
旧日光街道は橋を渡り左折するが、右折してすぐのところの大きな木の下に蒲生一里塚跡標識がある。
埼玉県内の旧日光街道で唯一現存する一里塚で、塚の横には供養塔と道標がある。この道標は安政4年
(1857)に造られたもの。
  
橋から左折して、左側に綾瀬川と見ながら蒲生茶屋通りを歩く。
   
蒲生大橋から約15分歩いた蒲生1丁目の、丁字路の右角に馬頭観音と不動尊が祀られている。近くの店の年配の熟女の方にいわれを尋ねたら、日光街道から分かれて「現在の越谷市役所前にある不動さまへ行くための」道標であったという。ちなみにその道は写真正面の道。
  
さらに少し行った左側に、青いトタンを巡らした倉庫の前にいくつもの草鞋(わらじ)がぶら下っているお堂がある。ここは「ぎょうざさま「おかまさま」と呼ばれている砂利道供養塔で、幕府直轄であった日光街道の道普請が終了したことを記念して、宝暦3年(1753)に建てられたものとのこと。道普請ということで草鞋との関係が理解でき、納得。ただよくあることであるが、このお堂の前には遠慮なく車が駐車していて、堂には近づけなくて残念であった。
   
そこから2分ほど行くと右側に、天文3年(1534)創建という清蔵院がある。ここの山門には左甚五郎作といわれる竜の彫刻があるが、この竜が夜な夜な寺を抜け出して畑を荒らすために金網を張って閉じ込めている。この山門は寛永15年(1638)関西の工匠によって建立されたもので、建立者は日光東照宮造営に動員された工匠の1人で、日光街道往還でこの寺院に世話になった御礼に建立してものといわれている。
   
すぐその先の蒲生本町信号で国道49号線と合流して進すむ。蒲生本町から越ヶ谷宿が始まる。
右手の東武伊勢崎線に平行して進んで行くと、遠くにJR武蔵野線のガードが見えてくる。

   
淡々と40分ほど49号線を進んで行くと、瓦曾根1丁目の照蓮寺の手前に隣接する駐車場の奥に金網で囲まれた窮民救済の石碑いくつかの石碑がある。この碑は天保9年(1838)に瓦曾根観音堂敷地に稲垣宗輔らが建立したもの。瓦曾根村名主中村彦左衛門は、凶年手当て用として幕府の銀行に預金していたが、天明年間の凶作年にこの預金全てを窮民に与え、飢餓より救った。彦左衛門の養子の宗輔も遺言を守り預金をして備え、天保7年(1836)の大凶作で預貯金を全てを瓦曾根村の窮民に全て施したという。
   
隣接する照蓮院は、天正19年(1511)年に朱印5石を賜った古刹で、墓地には武田勝頼の遺児千徳丸の供養五輪塔がある。
   
照蓮寺併設のさくら幼稚園前から道は分岐し、右は国道49号線で、旧日光街道は左の狭い国道52号線となる。市街地の道は車の渋滞で殆ど動きがなかったが、先へ行くと只今工事中であった。迂回道がないのであろうか辛抱強くじーっとまっている車の脇を滞りなく歩いた。
   
国道52号線を10分ほど歩くき中町10に来ると、右側にとても立派な土蔵(建物左)のある由緒ありそうな建物がある。今は人が住んでいないようであるが、何か歴史的な価値のある建物のような予感がして、後生のため一枚写真を撮っておいた。
   
さらに7分ほど歩くと、元荒川にかかる大沢橋がある。ここの袂で国道52号線は左折し、旧日光街道は橋を渡り国道325号線となる。
   
橋の上から、左を見ると元荒川が遠くまで見え、左前には茶褐色の建物に温鈍屋の看板、右手を見ると国道49号線の元荒川橋見える。
   
橋を渡ると西袂には、さきほど見えた温鈍屋(うどんや)の正面が見える。越谷はうなぎで有名であるが、この店は元和1年(1615)に開業した老舗で、フランスのギメ美術館の創設者エミール・ギメも訪れ、スケッチを残している。
   
大橋の袂から前方は大沢町の通りで、ここまでが越ヶ谷宿であった。遠くにはとても高いビルが見える。それはしばらく行くと左に伊勢崎線北越谷駅があり、その前にある1階がコンビニエンスで40階くらいの高いマンションであることがわかる。しかしこの辺に高いビルがないのでとても目立つ高さである。
   
北越谷駅前を通り伊勢崎線のガード下をくぐりぬけてると、左手に元荒川を見ながら国道325号線をのんびり歩く。ガードから800mほどのところで国道325号線と別れて進む。
   
さらに500m先で再度伊勢崎線にガードをくぐり、伊勢崎線と平行に北に歩き越谷・春日部バイパスのガード下を通ると、左手に伊勢崎線大袋駅が見える。そこから約900m歩いた陸橋入口信号で、国道4号線と合流して進む。
   
     
国道4号線を進みせんげん台駅入口信号の交差点を直進し、陸橋入口信号から約500m歩くと千間堀にかかる戸井橋があり、前方に春日部市の看板が見える。
このとき腕時計は14時17分。蒲生大橋を10時35分に出発して約3時間40分過ぎたことになる。昼食の時間があるだろう、ということでしょうが、私の旅での昼食はいつもコンビにでおにぎりとビールを買い、歩きながらの食事です。もっともビールだけはあちこちで買い、ビールと共に歩いていますが。
                            
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