粕壁宿から杉戸宿へ
(宿間距離 5.9km)
             
この区間は、2003.5.6および2003.11.1の両日にわたり歩いた。
粕壁宿は、江戸を早朝出発した旅人の多くが夕方到着して、はじめて泊る宿として賑わった。
また宿場に沿って流れる古利根川は江戸と結ぶ交易路となり、宿の商業を栄えさせた。
現在の「春日部」の名称は、昭和29年(1954)、粕壁町、武里町などが合併したことから
名づけられたもので、鎌倉時代の地頭の春日部氏に由来している。
近年春日部市は、近隣の宮代町・杉戸町・庄和町との合併を計画しているが、
今度はどんな名称となるのであろうか。
粕壁には、江戸時代日光東照宮を造営するために全国から集められた工芸職人が
多く移り住んだため、地元の桐の木を利用した桐工芸品などが盛んで、
今でも全国的に知られた土産のものとなっている。

  

200.3.5.6 14時17分 国道4号線の春日部市の境界標識から、粕壁宿を目指して出発した。
   
国道4号線を淡々と歩いていくだけの単調な道程で、いつの間にか空模様がちょっと暗くなってきた。
   
淡々としたあまりにも平凡な道を歩いていると、町角にたっているお地蔵さん(備後東4丁目8)までもが何か特別な由緒ある史跡のように思ってしまう。
   
さらに歩いて春日部市の境界から約45分のところの右側歩道に、備後一里塚跡石碑がある。ただこの写真を撮るときは、脇にある広告看板があまりにも派手すぎるため多少抵抗があった。意識してローン宣伝の片棒を担いでいるわけでないので、ご理解のほどを。
   
国道4号線に右手には、大落古利根川が接近して見えたりする。この古利根川は江戸初期までは利根川と呼ばれていたが、以降はその名を現在の利根川に譲っている。
   
一里塚から7分ほど歩くと藤塚橋信号の十字路となり、右手には大落古利根川にかかる藤塚橋が見える。この橋は現在でも交通量の激しい橋であるが、昭和29年までは有料橋で「賃とり橋」と呼ばれたいた。
   
日光街道は直進して4号線を進み、さらに20分ほど歩いて行くと遠くに4号線を横断する東武鉄道の高架が見えてくる。
  
10分ほど行くと一宮信号の三叉路となり、日光街道はここで4号線と別れ左折して国道2号線を進むことになる。
   
ここから粕壁宿となる。現在では宿場の名残となるようなものは殆ど見当たらない。
   
左折してすぐの右に東陽寺があり、山門の右に伝芭蕉宿泊の地の石碑がたっていて、芭蕉がこの寺に宿したと言われている。
  
さらに数分行くと粕壁2の右側の旧家(田村本店)前に、天保5年(1835)2月銘の道標が建てられている。以前は田村家の裏庭にあったものを、旧街道通りを整備したときに表通りに移したもので、「南西い八つき」「北日光」「東江戸 右乃方陸羽みち」と刻まれている。
 腕時計を見ると16時少し前、この時間まだ日没まで2時間以上は充分あった。ただ日本橋をスタートした前日に両足の親指に血豆ができ、爪が全面剥離をしていたこともあり、ここで帰宅することにした。
そのためここから数分のところの十字路で左折し、東武伊勢崎線春日部駅から横浜へ向かった。
                                                 
 2003.11.1前回の歩きで全面剥離した両足親指の爪もほぼ復元したので、スニーカーも自分の足によりマッチしたものに買い替えて再度歩きを敢行した。
横浜の我が家を朝5時過ぎに出発して、東武線春日部駅についたのが7時45分。颯爽と歩き始めたのであるが間違えて駅の反対側の改札を出たため道に迷いロスタイムが発生して、前回の所へ戻った正式記録は8時15分であった。
この日の天気は朝から小雨模様の曇天。最新鋭のカメラを購入して意気込んでいたのに、カメラと腕に関係なく泣くような写り具合となったしまった。
春日部駅前の国道2号線を500mほど真っ直ぐ行くと
新町橋西信号の十字路がある。
   
日光街道は信号から右折するが、寄り道して直進して約70m行くと突き当たりに最勝院があり、春日部の名前の由来となった春日部重行を葬ったといわれる塚がある。
春日部重行は鎌倉時代、南朝の後醐醍天皇の臣下でこの地の地頭職を任ぜられたが、のちに足利尊氏との戦いで敗れ京都で自刃した。その後遺骨は持ちかえられてここに葬られたという。
最勝院は明治時代、粕壁小学校
(明治5年)、粕壁税務署(明治42年)に利用されたり、広い境内は大相撲の地方巡業なあどに利用された。
   
最勝院のあるこの付近は寺町と呼ばれ、多数の寺院が残っていて往時の粕壁の面影を残している。
最勝院の前にあるコンクリート造の
普門院(写真左)、左隣の見事な楼門の成就院(写真右)
   
新町橋西の信号に戻り左折すると、高いクレーンが目の前に現れなにやら工事中(写真左)。工事の仮設塀沿いに右に曲がり左折すると、大落古利根川にかかる舗装したばかりの新町橋(写真中)がある。橋の中央から川下(写真右)を見ると遠くの赤い古利根公園橋の姿が風情ある景観をかもしだしていた。
   
新町橋を渡ってすぐ丁字路を左折し、国道319号線を進んで行く。道中小渕一里塚跡石碑があったはずであるが見落としてしまった。橋から約10分ほど行ったところに、関宿街道との追分道標が2つあり、向かって右は宝永6年(1709)に建立され、左は宝暦4年(1754)建立で正面に「青面金剛」横に「左日光道」と刻まれている。
   
さらに5分ほど進むと小渕南信号で三叉路となり、日光街道は国道319号線と別れ右から来る国道4号線と合流し、国道16号線を横断してて進む。4号線は交通量の少ないように見えるが、車の途切れるのをじーっとまって苦労してシャッターをきっているもので、実際にはとても交通量の激しいところであることを、誤解なく。
   
信号から数分歩くと、左側に京都聖護院の末寺の観音院がる。春日部市指定有形文化財の楼門(写真左)は只今工事中。本堂(写真右)は文政8年(1825)に再建されたもの。この寺は、この地方の観音信仰の霊場として有名で、家内安全、商売繁盛のほか、いぼ、こぶ、あざにご利益があるといわれている。本尊の観音像は高さ196cmもある大きなもの。また境内には「ものいえば 唇さむし 秋の風」と刻まれた芭蕉の句碑がある。
   
さらに10分ほど歩くと、杉戸町の境界標識があらわれ春日部市を別れることになる。只今8時59分。
雨の心配はどうやらなくなったようであるが、なんとなく低く垂れこむ雲は歩行を鈍くし今朝からまだ調子が出ていない。杉戸宿では頑張ろう。
   
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