杉戸宿から幸手宿へ
(宿間距離 5.9km)
             
この区間は、2003.11.1 粕壁宿に引き続いて歩いた。
杉戸宿は、徳川将軍が日光社参の際に利用した日光御成道との接点として、
小さいながらも交通の要衝であった。
杉戸」の名前の由来は、街道に面したこの地は杉林が多かったことからいつしか「杉の渡」と言われ、
それが「杉戸」になったといわれている。
現在の杉戸は、東武動物公園があることで知られている。

  

2003.11.1 8:59 杉戸町に入ると杉戸町標識のすぐ先に、地球儀のモニュメントがありなんだろう?
ここ杉田町本郷はちょうど北緯36度に位置していることから、当地に作ったパーキングを「
すきすきすぎーと36」と名づけ、地球儀のモニュメントを建てた。
このユニークな名は地元中学生のアイデアという。

  
杉戸宿へ向けて出発すると、ほどなく7号線から左折してまた戻るバイパスが日光街道がある。
歩きながらふと目の前の信号を見ると「堤根南」とある。マップではこの信号はバイパスの出口の信号であり、入口を見落としてしまったと悔やんだ。マップには入口の信号の名称が記入されていないし、ガソリンスタンドを過ぎてから左折するように表示されている。確かに少し前にスタントはあったがガソリンではなく、LPGスタントであるからもっと前に見過ごしてしまったとすると、1km以上は戻らないといけない。などと考えながら歩き続けていくと、次の信号があり見ると、また「堤根南」とある。ということは、「堤根南」信号は2箇所あるということで、先ほどの信号のところはバイパスの入口であったのだ。同じ名前の信号があるとは思いもよらず、また延々と戻る気にもならず、悔しくも日光街道をバイパスすることにしてしまった。
無念さを噛み締めて境界から約35分歩くと、右側に
馬頭院観音寺がある。沿革の詳細は類焼で不明であるが、本尊は伝教大師の作といわれ、脇仏の一体は関東大震災まで東京浅草永住町の浅野家に祀られていたものであるという。
  
さらに4号線を7分ほど進んで行くと道は二つに分れ、右が4号線で、左が373号線で日光街道となる。
   
373号線を約15分歩いて行くと、右奥に杉戸町役場の建物が見えた。これ幸いとトイレを借りるために正面入口から入ったところ、今日は土曜日で休みのよう。それでも事務室に人がいるかもしれないとなおも進むと、突然「侵入者はすぐ退去せよ」との声高な恐いアナウンスの繰り返し。多分センサーで検知して自動的にアナウンスしているだけで、非常ベルが鳴るわけでもないし、また警察などへ通報している様子もない。私は決して怪しいものではないという自信があるし、それより我慢できない一心で警告を無視して進みガラス窓から事務室の中を覗いたが、誰もいない。結局どうしたかはご想像にお任せしますが、それにしても近頃の役所というところは怖いところですね。
   
日光街道に戻り少し歩いて154号線を横断すると、すぐ右に関口酒造の看板のかかった由緒ありそうな建物がある。玄関前には杉戸宿の立て看板があり、よく観察したら清酒の銘柄名であった。地酒は美味しいことに決まっています。
  
さらに数分行くと、右に近津神社がある。創建は貞享元年(1684)以前といわれ、安政5年(1858)と関東大震災後の昭和4年にそれぞれ社殿が再建されているが、平成13年5月にも不審火で焼失し現在は仮社殿で、再建のための浄財を募集している。苦労の多い神社とご察し申し上げたい。本殿の彫刻は近郷では類をみないほどすばらしいものということであるが、無事残っているのであろうか。
  
近津神社を後にして、5分ほどで本陣跡地前信号の十字路に出る。多分この辺から宿場となっていたのであろうか。日光街道は直進するが、左折すると大落古利根川にかかる古川橋を渡り東武動物公園駅に至る。
  
信号の右手前角の中央三井信託銀行の前に、明治14年(1881)明治天皇が奥羽・北海道巡幸の際に休息したとこを記念して大正11(1922)に建てられた、明治天皇御小休所跡記念碑がある。
   
信号から右に入った左に、せんべいのはやしや製菓店がありとてもおいしくて人気がある、とある。せんべいを焼いて実演販売(写真右)もしている。備長炭で焼いた手焼せんべいは、一枚50円。店の奥(写真左)にあったとうがらしせんべい一袋とあわせて購入し、急ぐ旅の合間に歩きながら食した。手焼せんべいの味の方は、どうも味音痴で便長炭のかもしだすという微妙な風味を味わうことができなかった。とうがらしせんべいは、ことのほか辛くて全部食べつくすまで何度も涙が出てしまい、確かな品質を了解した。
  
十字路に戻り、数分先の右に本陣跡があり表門は当時のまま残っている。そう思って見るとやはりそれなりの威厳のようなものを感じる。
  
373号線をさらに進んで行くと、道はゆるいカーブを描いて右に曲がる。そのカーブのところに歴史を感じさせる建物が2軒あったので、記念にカメラに納めた。
   
そしてカーブからちょっと先の左側に、宝性院がある。永禄3年(1561)に幸手城主一色宮内大輔義直が亡き妻の追福菩提のため建立したもので、安産不動明王が安置されている。明治5年(1873)に「学制」がひかれると、宝性院に杉戸学校が設立された。ちなみに児童の数は女35人、男117人、教員5人であったという。
  
宝性院から3分ほど行った十字路の右角に、奥に白い土蔵らしきものがあり、正面からみてもとても立派な風情のある建物(杉戸1丁目11)がある。素人目でも手入れが行き届いて、よく保存されていることが分る。
  
さらに2分ほど進むと、左側の電柱に赤いペンキが鉢巻をして塗られている。貼られている説明書きには「昭和22年の洪水で利根川の堤防がこわれ、赤い線まで浸水した」とある。赤い線の地上からの高さはゆうに1m以上あったが、利根川から20kmは離れていると思われるこの地までもこんなに浸水してしまうとは、自然の力は恐ろしい。なおこの先の利根川直近の栗林町にもやはり同じ赤い印が電柱に塗られていたが、高さは殆ど同じくらいであったので、如何に大量の水が流出したかということではないだろうか。
   
373号線はすぐ先で再度4号線と合流して進む。
   
4号線を約30分ほど進んで行くと、左に幸手市との境界標識が見える。ここで11時20分。
今朝春日部駅前を8時15分に出発して、3時間が経過した。これから以降の道中では宿泊できるところは殆どないので、今日中に古河駅前までたどり着きホテルを探さないといけないことからすると、おおむね順調な歩行経過をたどっていた。
東海道でもそうであったが、こういうように地方を歩く旅は、トイレと宿泊施設探しにいつも苦労する。

   
              
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