幸手宿から栗橋宿へ
(宿間距離  10.3km)
   
この区間は、2003.11.1に杉戸宿に引き続き歩いた。
幸手は古代から奥州へ通じる道筋の古い集落であったが、
元和3年(1617)日光東照宮殿の竣工を期に幕府がその参拝道として整備した宿駅である。

また幸手宿は日光街道と日光御成街道が合流し、さらに筑波道が分岐する
交通の要衝として賑わったところでもある。、
幸手の名所は権現堂堤の桜並木で、毎年50万人以上の人々が訪れるという。

2003.11.1 11時20分 杉戸町から幸手市に入り幸手宿に向けて出発した。
  
国道4号線の左側を平行に走っている東武鉄道日光線の杉戸高野台駅案内看板(写真左)下を通り、幸手団地入口信号(写真中)を直進して4号線(写真右)を歩いていく。
    
幸手市境界から約12分くらい歩いたところの左側にautoazex(写真左)があり、その先で4号線は分岐(写真右)する。どちらの道が日光街道なのか、標識もなく迷いに迷った末右の国道4号線を選んでしまった。これが誤った選択で数キロ先でようやく店の人に教えられて戻ってくる羽目になった。せめて要所には標識が欲しい。
   
4号線と別れ左の道を道なりの歩いて行くと、目の前に踏切が現れる。
   
踏切では、東武鉄道の電車が走り去って行った。
   
電車が過ぎた後踏切を渡ると、そこは一面田園風景で、なにか空気も違うような気がした。
   
踏切から5分くらい歩くと、右側にシャレた建物が見えるがこれは幸手南公民館
   
その塀の前には、新しい上高野村道路元標が説明板とともに立っている。
   
時計は12時を過ぎ、淡々とした道を歩いて上高野小学校を過ぎた頃に、正面にゴルフ練習場のネットとスーパーの赤い看板が現れる。
   
道はスーパーの前で丁字路となっていて日光街道は右折する。ここは左手からの日光御成街道と合流する追分となっている。日光御成街道とは、代々の徳川将軍が家康を祀る日光東照宮に参詣するときに通行した道を言う。
   
あちこちで道路工事中の国道65号線を真っ直ぐ歩いて行くと、再度東武日光線の踏切を横断する。左手に幸手駅の建物があるはずと踏切から遠方(写真左)を凝視したが、民家と混ざり合ってよく分らなかった。さらに65号線(写真右)を歩き続けると道はゆるく左にカーブして幸手市街に入っていく。
   
カーブを曲がると小さな倉松川にかかる志手橋(写真左)を渡る。志手橋から見た倉松川(写真右)
   
橋を渡るとすぐ駅入口信号の十字路になり、左折すると東武日光線幸手駅へ行く。日光街道は直進する。
   
この商店街通りが、幸手宿の通りとなる。
   
すぐ左側にとても近代的な旅館あさよろず(朝萬)の建物が目に付く。この旅館は180年以上の歴史をもち、板垣退助や伊藤博文などの宿札が残っているという。
   
志手橋から5分ほど来ると中一丁目(南)信号の交差点に来るが、横断した右コーナに小さな公園がある。ここには問屋場跡碑がある。説明板によるとこの屋敷の大きさは168坪(間口11m、奥行60m)で問屋場、人足溜、馬小屋があった。問屋場とは旅人の世話、運搬など街道に関わる一切の事務を年中無休で管理する役所で、ここでは人足25人、馬25頭を常時義務づけられた重責を課せられていた。
問屋場の近くには本陣、旅籠、商店が軒を連ねて賑わっていたということであるから、この辺が宿場の中心であったということであろう。

   
通りには古い建物が何軒か残っていた。
   
町の中を真っ直ぐ歩いて行くとやがて道は右折するが、その突き当たりに聖福寺がある。この寺院は徳川3代将軍家光が日光社参の時休憩したのを始めとし、天皇の例幣使た歴代将軍が18回も休憩したところで、将軍の間、例幣使の間、菊の紋章の入った勅使門(唐門)があり、左甚五郎作といわれる彫刻なども保存されている。
   
道が右折する右角には、ちょっと目立たないが幸手一里塚跡案内板が立っている。
   
少し進むと道は3つに別れるが、日光街道は左の道を進む。間もなく左側にちょっとシャレた本堂の正福寺がある。この境内には、県指定史跡義賑窮餓之碑がある。天明3年(1783)に浅間山が大噴火し関東一円に灰がつもり冷害と重なり大飢饉となったとき、幸手の有志21名が金品などを出しあって難民を救済したことの顕彰碑である。
   
正福寺から12分ほど歩くと、内国府間信号で右からの国道4号線と合流して進む。
   
さらに約4分行くと、右側に幸手公市北民館立看板(写真右)があり、ここから権現堂川堤防への近道となる。日光街道はこのまま4号線(写真左)を直進して権現川にかかる行幸橋を渡るのであるが、ちょっと寄り道をして公民館前を通って権現堂堤に出ることにした。
   
公民館看板から2.3分歩くと前方に堤の木立(写真左)が見える。手前の国道371号線を横断して小さな公園を通りぬけると権現堂川堤(写真右)に出る。ここは大正時代からの桜の名所で、延長約800mもある。シーズンともなるとさぞかしきれいな桜並木であろうと、1人しみじみ考えにふけりながら行幸橋の方へ急いだ。
   
行幸橋の手前で4号線と合流し、橋を渡った。そのとき橋の上から右手の権現堂川を写したが、まだ13時20分というのに光加減のせいか夕方のような景色になってしまった。どうも細かいことが苦手なのでカメラワークも単純でよい写真がとれない。
   
橋を渡るとすぐ4号線を横断しなければならないが、この時4号線はおおげさな道路工事中で横断する場所がなかった。仕方なくトラックなど多数の車が行き交う中を信号なしでビクビクしながら横断した。
横断したら、工事現場と通りぬけて4号線の土手を下り4号線と平行して走っているのどかな小さい道にでて歩いた。車の騒音から解放されるといかにも
田舎の日光街道というよい気分になった。
   
4号線を横断して10分ほど歩くと道が2つに分かれ、その間に日光街道道標があるが、丁度総選挙運動中で地元の候補者のポスターがとても目立つようにかけられていた。後日の選挙結果ではこの候補は当選したが、この場では将来何か支障があってもいけないので、道標も遠景とした。道標は安永4年(1775)に日光街道と筑波道の別れるところに建てられたもので、「左日光道」「右つくば道」「東かわつま前ばやし」と刻まれている。かわつまは現在の茨城県五霞村字川妻、前ばやしは茨城県総和町前林のことで、筑波への道順である。
   
道標に従い左の道を歩いて行くと、ここはまさに田園風景
   
道標から5分ほど歩くと、突き当たりに雷電神社があり、ここで道は左右に分かれてしまう。国土交通省発行の埼玉県内のマップは日光街道の系統を示しているだけなので、こういう分岐するところではどちらの道が正しいのか迷ってしまうことが多い。今回も何度も行ったり戻ったりして確認したが、ついに日光街道を歩いているのかどうか最後まで自信がなかった。
  
ようやく小右ェ門南信号のある国道4号線に出ることができた。ここで4号線を横断して日光街道に続くはずであるが、道は工事中で立ち入り禁止の看板。
   
ふと横を見ると、栗橋町境界看板が目に入った。
さて、この時間13時55分。今日宿泊予定の古河駅まで、なんとかぎりぎり間に合いそうな時間であった。急いで栗橋宿へ。

  
                    
杉戸宿へ 栗橋宿へ
    
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