iー愛ロマンチカ
栗橋宿から中田宿へ
(宿間距離 2.0km)
        
この区間は、2003.11.1に幸手宿に引き続き歩いた。
栗橋は埼玉県の西北に位置し利根川を超えると茨城県となる。
ここには寛永元年(1624年)に、東海道の箱根、甲州街道の駒木野、中山道の碓氷と並ぶ
主要な栗橋関所が置かれ、明治2年まで続いた。
 関所の規模は、箱根の関所と同規模で幕府が北からの警護に力を入れていたことがわかる。
明治2年に関所が廃止されるまで、栗橋は宿場町、利根川の船運の町として栄えた。
栗橋町はまた静御前終焉の地でもあり墓もある。
静御前と名前を聞いただけで女のお色気に魅せられてコースを外れて墓を訪ねてしまった。
仏になってしまえば女も男もないということは頭ではわかっているのであるが、
それでも気持ちが許さない自分が情けなくなる。
なお静御前の没地といわれる場所は、全国で7ヶ所あるとう。
栗橋町伊坂が以前は静村と呼ばれ、静御前が没した場所を村に冠したということなどから、
栗橋没地説は信憑性が高いと、その筋では言われているとのこと。

静御前(1168〜1189):義経の寵愛を受けた白拍子といわれる美しい舞姫。兄頼朝の追手をうけて奥州へ下向した義経を慕い、
奥州平泉へ向かう途中義経の討死を知り、悲しみのあまり病に伏し文治5年(1189)9月15日にわずか21才で栗橋伊坂の地でなくなった。侍女琴柱は遺骸を当時この地にあった高柳寺(後に中田宿へ移り光了寺となった)に葬ったという。
現在の光了寺は茨城県古河市中田にあり、この寺には静の遺品の舞衣の一部、鏡、守本尊などが残され、過去帳には静の戒名として「巌松院殿義静妙源大師」と記載されているという。なお現在の墓は享和3年(1803)に関東郡代中川飛騨守忠秀により建てられたものといい、当初の墓は利根川の氾濫で流されてしまった。

    
2003.11.1 13:55 幸手市から栗橋宿へ向けてスタートした。ただ旧日光街道は国道4号線を横断して反対側にあるが、旧日光街道は道路工事中で立入り禁止となっていて通行ができない状態であった。
  
しかたなく今来た道に戻り、しばらく4号線と平行に歩いてから、4号線を横断して権現堂川沿いの旧日光街道に出て歩いた。道の環境は自然にあふれ歩くのに最高ともいえた。
   
4号線沿いにしばらく歩いて行くと、権現堂川にかかる太平橋が見えてくる。
   
さらに20分ほど歩いて行くと、東北新幹線のガードをくぐる。
   
さらに数分歩くと、旧日光街道は4号線を横断して反対側に行くことになるが、横断信号がないので信号のあることろまで通り過ぎて横断し、戻って日光街道を歩くことになる。少し行ったところの右手の高台になったところに川通神社がある。
   
全く人通りのない右なりにカーブする道を歩く。
    
約7分歩くと右手の民家敷地の奥まったところに、栗橋町指定文化財会津見送り稲荷神社がある。民家の敷地内なのでちょっと遠慮しながら近づいて写真を撮った。江戸時代会津藩の武士が江戸へ届ける大切な書面をなくしてしまい、栗橋宿下河原の茶店で切腹しようとしていたら、狐の化身である白髪の老人が現れて死を思いとどまらせた。そして何者かがその書状を見つけて届けてくれたという。この伝説の舞台となった茶店跡に神社が建っている。本尊は女性と思える人物が狐にまたがっていると変わったもの。
   
神社の先で日光街道は栗橋信号の手前から4号線を横断し4号線と平行して進む。信号を通り越し少し歩いてから左側にある東6丁目トンネルをくぐって再度4号線を横断する。
    
トンネルからすぐ道は突き当たり直角に右折し、4号線と平行に進む。右折してから10mも行かない右側に小さな焙烙(ほうろく)地蔵がある。昔現在の利根川に関所が設けれたていた時代、関所を通らないで渡ろうとしたり、渡ったりした人たちは発見されると関所破りとして、この地蔵尊のある処刑場で火あぶりの刑に処せられたいう。こうした多数の処刑者を憐れみ火あぶりになぞらえて、土地の人が供養のため焙烙地蔵とした祀ったもの。またエボ地蔵ともいわれ、あげた線香灰をエボにつけると治る、といういいつたえがある
   
ここからの道は国道60号線で、またこの通りは昔の栗橋宿場の通りでもある。60号線は4号線に平行に走り、利根川までほぼ真っ直ぐな道である。
   
4分ほど歩くと、左側に元和8年草創の浄心寺がある。
   
道の反対側には、栗橋町の開発者で栗橋町指定文化財の池田鴨之介の墓のある顕正寺がある。この寺院に安置されている阿弥陀如来像は聖徳太子作と伝えられ、仏像研究家から優作との賛辞を得ているものという。
   
さらに5、6分ほど行くといかにも宿場の名残を漂わせる雰囲気を感じさせる道となる。そして栗橋駅入口信号の丁字路で、静御前の墓を見るために、左折して寄り道し栗橋駅方面に向かう。
   
道なりに10分ほど歩いて行くとセブンイレブン店(写真左)が左側に、そしてそのちょっと先の和菓子店(写真中)から小路を左折すると、すぐ左足元に静御前墳塋参道標識がある。
   
その先を数分行くとJR東北本線栗橋駅北口駅前の丁字路の小さな公園(写真左)に,静御前の墓がある。公園入口の左側奥にきれいに整備された墓で、やはり女性を意識した墓だな,というのが第一印象。
境内には
静御前の墓石(写真右)、その左に義経招魂碑と生まれてすぐ頼朝により海に流された静と義経の子供の小さな慰霊碑がある。また左側のガラスドアーケースの厨子(写真中)内には、中川飛騨守忠秀により建てられた旧墓石が大事に保管されている。
            「
吉野山峰の白雪踏み分けて入にし人のあとぞ恋しき
            「
しづやしづしづのおだまき繰り返し昔を今になすよしもがな」 静
人を恋するということは、いつの世でも素敵なことですね。
ところで私も女性に恋されたい! 悲願。
年令不問、募集中。
   
静御前に本当に会ったような気分になり、余韻を味わいながら再度栗橋駅入口信号の丁字路に戻ったのが、15時30分ころ。これから中田宿を訪れて、それから古河駅近くで宿泊先を探すためには、日没を考慮すると遅すぎる時間となってしまた。
先を急いで本陣や脇本陣跡を省略して宿場町を通りすぎて行くと、利根川の手前の坂道で右に入る細い道があり、その突きあったたところの土手斜面に、埼玉県指定旧跡
栗橋関所址碑がある。栗橋関所は、利根川を越す要地に「利根川通り乗船場」から発展した関所の一つで「房川渡中田・関所」と呼ばれた。東海道の箱根、中仙道の碓氷と並らんで重要な関所であった。関所の位置は、現在の堤防の内側で利根川のほとりにあったが、大正13年に現在地に移された。
  
日光街道に戻り反対側の小道には、八坂神社がある。栗橋町発祥の頃より村社として祭られている。江戸末期に作られた御神輿は、大きさならびにその作り方において、現代まれなるものとして保存されており、関東三大神輿の1つに数えられている。
   
再度日光街道に戻り、ゆるいスロープを20mほど登ると信号のある丁字路(写真左)となり、突き当たりに利根川堤防が見える。道路を横断して堤防の階段(写真中)を登ると利根川の水面が見える。この辺から舟で対岸の茨城県(写真右)まで船で渡っていたのであろうか。
   
現在は100mほど下流にある利根川橋を渡り対岸に行くことができる。
   
利根川橋は並んで2本かかっているが、手前の橋の歩道(写真左)を歩いて渡る。数分歩くと古河市と茨城県の境界標識(写真右)がたっている。時は今15時51分。
ここから埼玉県から茨城県に入り、中田宿へ向かう。
                  
幸手宿 中田宿へ
 
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