近江国大津市
大津宿
から京都三条大橋へ
      江戸日本橋から大津宿まで481.1km、大津宿〜京都三条大橋間11.7km
         
この区間は、2002.2.23に草津.宿から引続き歩き、
JR石山駅前ホテルで宿泊して翌24日も歩いた。
天候は青空が多く恵まれた。
24日朝ホテルを出るとき、
今日京都三条大橋に到着することがはっきりしていたので、
これで21日からの3泊4日の旅も終わりになると思い、
何故かほっとした気持ちになった。
やはり多少疲れがあったのだと思う。
大津市月輪瀬田大橋膳所京町逢坂山京都市

大津宿:大津は奈良時代から「古津」と呼ばれて、交通の重要な拠点であった。天智天皇による近江大津宮の遷都があり、また近江商人の町として栄えたところでもある。
宿場として成立したのは江戸寺時代の1602(慶長7)年に、大津陣屋が置かれたことによる。宿場町と琵琶湖の物資が集散する港町を併せ持った大津宿は大いに賑わい、人口も旅籠も東海道53次の宿場で最大の規模であった。
 本陣:2、脇本陣:1、旅籠:71、人口:14,892人

   
 草津市の弁天池から南西へ歩いているといつの間にか大津市に入っていて、道はゆるい下り坂が続く。しばらく行くと月輪寺の敷地に「新田開発発祥之地」と東海道石柱(写真)がある。どちらも新しいもので恐らく東海道開設400年行事で整備したものであろう。
    
 さらに100mも行かないところの左に東海道立場跡石柱(写真)がある。立場(たてば)とは、東海道公路の要所として旅人、駕籠かき、牛馬、人足等の休息所をいう。
   
 またちょうどこの辺の左側には、月輪池(写真)を見ることができる。月輪大池、下月輪池、山ノ神池の3つの大な池があり、月輪池と総称されている。月輪池はいろいろな昔の名所図会にも紹介された有名な池である。現在も池は農業用水として使われている。
   
 さらに400m程下っていくと、JR瀬田駅へ通じる大きな道路へでるので、そこをまっすぐ横断して進む。道は急な坂となり遠くに山並みが見える。もしかしたら京都の山かと思ったが、そうであったかどうかは不明。横断してちょうど1kmくらい歩くとやがて勾配もなくなり、十字路に達する。地図上ではここからの旧東海道の方向はよくわかるのであるが、現地では方向感覚がわからずまごついてしまった。ところが乗用車がスーッと私のところへよって来て、「どこへいかれますか」という男性の声。とても親切に私の行く道を教えていただきました。見れば30代中頃の男女が二人。私は、この男女に幸いあれ、と心からそう思いました。教えられた通り左に直角に曲がり、400mほど行った変形丁字路で右に曲がり浄光寺の前を通って、少し登り坂を歩きながらまっすぐ500m行くと大きな道路に出る。この道路を左に曲がると瀬田の唐橋に通じる道になる。曲がるとすぐのところに高橋川にかかる赤い欄干のおしゃれな橋(写真)をわたる。
   
 まっすぐ400mほど行くと、左側に建部大社の大鳥居(写真)がある。祭神は瀬田川の龍神俵藤太秀郷である。大社は武運出世の神と知られ、源頼朝をはじめ多くの人々の信仰を集めていた。
   
 ちょっと行くと丁字路になるので、右へ曲がり瀬田商店街を通り抜けると、そこは瀬田の唐橋の東側袂の常夜灯の前(写真)となる。携帯したICコーダーには「午後4時45分到着」と録音されていた。
   
 袂で道路を横断して反対側にわたり、唐橋の琵琶湖側歩道(写真左)を歩いた。唐橋の擬宝珠がとても美しく見える。遠く琵琶湖の方に見える橋(写真右)は、国道1号線の瀬田川大橋ではないだろうか。
唐橋は、琵琶湖から流れ出る瀬田川にかかる橋で、近江八景「瀬田の夕照」で知られる日本3大名橋の一つである。橋の歴史は古く既に平安時代の書物にも登場しているが、昔から瀬田にかかる唯一の橋で交通の要衝であったため源平合戦、応仁の乱など戦乱のたび焼け落ち、その都度架け替えたれている。この橋に関わる伝説の一つに「俵藤太百足退治」がある。俵藤太秀郷(モデルは鎮守府将軍藤原秀郷)が唐橋を渡ろうとすると、大きな蛇が寝ていた。藤太は平気でそれをまたいたが、実はその蛇は瀬田の竜神が化けていたものであった。龍神は藤太の勇気に感心し、三上山に住む仇敵の百足退治を依頼する。藤太は百足の目を射抜き見事にしとめるという、話である。

   
 西詰から撮った橋(写真)もので、残念ながらこの日は時間が早く見れなかったが、この角度からの夕陽が水面に映える橋の姿はとても美しいという。橋を背にして200mほど行くと十字路になるので右へ曲がり石山商店街を通って歩く。1号線を横断して100mほど行った十字路を左へ曲がるとJR東海道本線(琵琶湖線)石山駅前に出る。17時30分でもう暗くなりここで宿泊することにして、駅前交番で2,3ホテルを紹介してもらうことにした。返事はなんと、ホテルは1軒しかないということで、迷うことなく駅から歩いて1分の紹介してもらったホテルへ向かった。
   
 翌24日はとてもよい天気であり、そして今日京都三条大橋に到着できる。、亀山から3泊4日の歩きもとりあえず今日で終わりと、日曜日で車の通りも全くないすがすがしい朝の空気を思い切り吸い込んだ。朝7時半にホテルを出発し駅前に行く。旧東海道は高架となっている石山駅改札前を通る経路となっているので、駅の南口の階段を登り、反対側の北口へ抜けた。北口から右へ曲がり、すぐ左へ曲がって200mほど行って関西日本電気大津工場の角から左に曲がる。工場沿いの道を行くと松の木がところどころに見えてくる。江戸時代はこの道は、粟津の晴嵐と呼ばれる松並木(写真)のとても美しいことで著名であったが、今では見る影もなくなっている。
   
 道は琵琶湖の西側に沿って北上し、800mほど行くと右の民家の玄関前に、膳所城勢多口総門跡碑(写真)がある。
   
 そこから左へ曲がり、300m行って右に曲がって少し行き、京阪電鉄石山坂本線瓦ヶ浜駅の踏切を渡ると右手奥に、膳所焼美術館(写真)がある。まだ時間が早く開館間近ということであったが、こういう美術には全く疎いので門前で失礼した。
   
 さらに300m行って左に曲がり中の庄駅から右に曲がって400m行くと十字路になる。東海道は真っ直ぐであるが、左手奥には豊臣秀頼や徳川家康が尊信したという膳所神社(写真)がある。
   
 さらに右手に行くと琵琶湖に面して膳所城址公園入口(写真)がある。膳所城は徳川家康が関が原の戦の後、最初に築いた城であるが、現在は城の遺構などは何も残っていない。
   
 公園の中に入り護岸に行くと、北東の方角に琵琶湖にかかる近江大橋(写真)すぐ目の前に見える。流線型できれいな大橋であるが、カメラの腕の問題だろうか写真では平凡に見えてしまう。
   
 またもとの十字路へ戻り直進して旧東海道を400m行くと丁字路になるので、左に曲がり200m行って響忍寺の前の丁字路を右に曲がり、半円を描くような道路を歩いて石坐神社前を西へ進み琵琶湖から離れて行く。この辺は旧街道の面影を残す道で少し複雑になっているが、それにしてもズーっと琵琶湖方面に見えている凄く高いビル(写真)何ものぞと、地元に人に尋ねたら、最近できたプリンスホテルだという。それにしても目立ち過ぎるような気がするが・・・。
   
 石生神社から300mほどの右に、膳所城北総門跡碑(写真)がある。これは来る道中の膳所城勢多口総門と対をなすもので、大津口総門ともいう。
   
 さらに500m行くと左側に国指定史跡の義仲寺(ぎちゆうじ)(写真左)がある。拝観料200円。名誉のため釈明しておきますが、お金をけっちたわけでなく時間の関係で中に入らず、山門入口からタダでデジカメで撮った境内(写真右)。寺の名は、来る道にあった粟津の地で討たれた木曾義仲の葬られた塚があるところからきているが、現在の寺は1553(天文22)年に佐々木高頼により再建されたもの。門を入ると左には(義仲の妻の)小さな巴塚、その隣には義仲の供養塔がる。さらにその隣には松尾芭蕉の墓がある。松尾芭蕉はたびたびこの寺を訪れていて、1694(元禄7)年大阪で死去すると「遺骸は木曾塚に送るべし」との遺言に従ってここに墓が作られている。境内には「木曾殿と背中合わせの寒さかな(芭蕉の門人、又玄作)、芭蕉自筆の文字を刻んだ「行春を近江の人とおしみける」など十数基の句碑がある。
   
 道は琵琶湖を離れてからズーっと、登り勾配が延々と続いている。しばらく行くと右に西方寺というお寺の門前に「西方寺 テレホン法話看板(写真)があり電話番号が書いてある。最近はテレクラ、携帯電話など便利のものが多いが、宗教の世界もついにここまで利便性をたかめないといけない時代になってきているのだろうか。テレビ付電話でお坊さんの顔が拝見できれば、もっとご利益を感じるかもしれないと思うが・・・。
   
 西へほぼまっすぐ市街地の中を通って行くと、左に滋賀県庁(写真)が見える。そして義仲寺から約1.8km地点で大津宿中心地(現在は京町)の札の辻十字路に出るので、左に曲がり南下してさらに坂道を上っていく。
   
 十字路から600mほど歩くと、JR東海道本線(琵琶湖線)を横断する陸橋から、新旧のトンネル(写真)が並んでいるのが見える。やはり左の明治のトンネルの方が歴史と貫禄を見せているように思える。
   
 さらに400m行くと1号線と合流する。この道路はトラックなど交通量がとても激しい上に、歩道は左側にしかなく、また横断歩道が殆どないため史跡の多い右へ行くことは難しい。道路は左に京阪電鉄京津線を見ながら逢坂山へ登っていく。合流して延々と400m歩くと道路の反対側に、朱色がとてもきれいな鳥居の開蝉丸神社上社(写真)が見える。ここには1号線と合流する少し手前に開蝉丸神社下社、ここから先の逢坂山関所跡付近に開蝉丸神社分社と3つの蝉丸神社がある。蝉丸は謡曲、浄瑠璃、歌舞伎によく登場する名前である。蝉丸は平安時代の歌人で盲目ながら琵琶の名手で有名で、そのため蝉丸神社は音楽や芸事の神とされ、祈願されている。百人一首の「これやこの 行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関」は蝉丸の歌で、余談ながら私の得意とした取り札の1枚でもあった。
   
 また少し行くと、同じく道路の反対側に常夜灯(写真)が見える。
   
この常夜灯あたりから1号線は右にカーブするが、、旧東海道はここで1号線と分かれて右の山道に入り、逢坂山関所跡を経て300mほど歩いて無人の大谷駅前に出て、京阪電鉄京津線の跨線橋を渡り再度1号線と再度合流する。跨線橋の上(写真)から今来たところを振り返って見ると、京阪京津線の線路の左にある建物が大谷駅で、右の道路は国道1号線となる。
   
 逢坂山を越えると、ひたすら1号線は下り坂となり、跨線橋から500m来た左側に月心寺の建物(写真左)と、中に入ると今でも泉が沸く走井(写真右)がある。江戸時代の広重の絵に「大津 走井戸茶店」として画かれているほど有名で、旅人はこの走井の水で喉の乾きを癒していた。東海道本線が開通するとともに逢坂超えの旅人が激減して、茶店もさびれてしまった。それを大正の初め日本画家橋本関雪が別荘として買取り、その後昭和21年に村上独潭を開山とする「月心寺」となった。この走井の名水は、第13代成務天皇誕生の時、産湯に用いられたと伝えられている。
   
さらに600mほど下り続け、阪神高速道路の下を右に曲がった直後の交番のところで、1号線と別れて左に入る。この旧東海道は1号線と平行に走っているが、静かでとてものどかな町並みでほっとする。ゆるい下り坂はまだ続き、400mほど行くと追分道標(写真)がある。旧東海道は右に行く。
   
 少し行った右側に東海道の石柱の前に車石(写真)が置いてある。昔この付近の街道は車道と人道とに分けていて、京に向かって右側に車石を敷き、左側は人や馬の通る道としていた。
   
 500m行くと1号線にぶつかるので、跨線橋で横断する。その橋の上(写真)から京都方面を見てすぐ目の前が京都であるという実感を噛みしめた。
   
 1号線を横断して300mほど行くと、左に京都市の標識(写真)がある。もうここは京都である。この時ジャスト12時であった。
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