遠江国浜名郡新居町
新居宿から白須賀宿へ
江戸日本橋から新居宿まで269.4km、新居宿〜白須賀宿間6.5km
  
 この区間は、前日に新居町に宿泊して2002.3.17日に歩いた。
そしてこの日は快晴で全く風もないとても快適であった。
西浜名湖を渡って新居関所跡までは現在は道路であるが昔は湖であったところで、
関所跡から旧東海道となる。
新居宿は約700m逆L字型の町で、
現在は観光に力をいれているように感じられた。
新居宿を過ぎて遠州灘沿いに国道1号線と平行に走る旧東海道は交通量も少なく、
のんびりとした田園風景を楽しみながら心ゆくまで歩いた。
荒居町関所跡新居宿東海道松並木湖西市白須賀宿へ

   
新居宿宿は浜名湖の今切渡船の独占的運営権と新居関所で代表される。
 今切渡船の独占的運営権は浜松に居城を移した徳川家康が、1574(天正2)年に新居宿の船守に対して与えたもので、これにより新居宿の財政が潤うことになった。ただその結果運営権が剥奪された舞坂宿との争いごとが絶えなかったり、宿内でも渡船業務をを支配する問屋と庄屋の勢力争いの紛争が起きたりした。
 新居関所は、1600(慶長5)年に設置され東の箱根関所とともに東海道の旅人・文物を取締った。全国に徳川幕府が設置した53の関所の中で最大規模のもので、いわゆる「入り鉄砲に出女」の江戸への武器流入と江戸からの西国大名子女の脱走を防止を中心に取締った。また江戸へ向かう入り女の検閲も行われていた。新居関所での厳しい取締り避けるため浜名湖の北岸を超える「本坂越え」を通る旅人も多かった。なおこの本坂越えは、新居関所で頭からつま先まで調べられることを嫌った婦女子の通行が多かったので、別名「姫街道」と呼ばれていた。ただここにも気賀関所がおかれて取締りが行われていた。
 本陣:3、脇本陣:0、旅籠:26、人口:3,474人

   
 国道1号線を歩いてJR東海道本線弁天島駅を通りすぎるとすぐ、舞坂町から荒居町になる。東海道新幹線と平行に走る1号線を西へ直進すると歩道に植樹してあるきれいな浜名橋(写真)を渡ると、そこから地下道に入り1号線を横断する。橋上から左を見ると浜名湖があり、右はJR線路に遮れて浜名湖を見ることができない。次に西浜名橋を渡りさらに進んで行くと、1号線の右側に廃業しているレストランやSSが多数あった。これも不況を反映してなのであろう、悲しいことである。
    
夕方になりこの辺で宿泊することにして、JR新居町駅へ行って宿泊できるところをたずねた。駅員が言うには、「ビジネスホテルなどという言葉はここには存在しないし、宿泊するところは無い。浜松まで引き返した方がよい。」とのこと。仕方なく駅前に客待していたタクシーの複数の運転手にたずねたら、宿泊するようなところは無いという。そしてもしあったとしても男でも一人だと泊めてくれないはずだとのこと。これにはびっくりし、まだ江戸時代がここにあるのかと思った。なおも粘ってようやく思い出してもらったのが、駅から5分ほど歩き小さな浜名橋(写真)を渡って左折したとこにある旅館であった。多分地元の人には旅館は無縁なのであろう。早速その旅館をたずねたら、OKとのことで無事宿泊できた。デジカメを持っているとどうしても充電が必要になり、野宿というわけにはいかなかった。
    
 翌朝(3/17日)窓からは、左手に浜名湖とJR東海道線と東海道新幹線(写真)がすぐそこに見えた。
8時15分に旅館を出発。天気は晴れで風もなく絶好の歩き日和。
                                                  
 旅館から歩いてすぐのところの新居関所跡の一角に、舞浜宿との渡船の船着場跡(写真)がある。ただこの時は整備工事中で、担当者に聞いても渡船場跡の石碑は工事で行方不明ということで写真に収めることはできなかった。
    
 隣には新居関所跡の建物(写真)がある。今切の関所とも呼ばれ、全国で唯一現存する関所建物で、1600(慶長5)年に設置され、「特に入り鉄砲に出女」を厳重に取り締まった。当時は関所跡を再現整備工事の最中であった。
 この関所跡から陸路の旧東海道なり西へ約150m行くと丁字路になり、右手の東海道新幹線と別れ左折が旧東海道となる。丁字路の手前の右に疋田弥五郎本陣跡がある。

    
 丁字路を左折するとすぐ右に、飯田武兵衛本陣跡石碑(写真)がある。
    
 その左隣には疋田八郎兵衛本陣跡石碑(写真)があり、丁字路のコーナーに3つの本陣が揃っている。
    
 そのまま南へ少し行くと、右に寄馬跡の石碑(写真)がある。宿場では公用荷物や公用旅行者のために人馬を提供する義務があり、東海道の宿場では常に100人の人足と100疋の馬を用意していた。ただ交通量が多い場合は助郷制度といって付近の村々から人馬を寄集めて不足を補っていた。こうして寄集められた人馬のたまり場が寄馬所と呼ばれていた。
    
 丁字路から600mほどの左に、新居一里塚跡碑(写真)がある。
    
 その先の丁字路を右折し100m行くと右に、棒鼻跡石碑(写真)がある。棒鼻とは宿場のはずれをいい、道の両側より土塁が突き出ていて一度に大勢が通れないようにしてあった。
   
 棒鼻跡で道はまた丁字路になるので左折して、約200m南下すると橋本交差点信号のある1号線に出る。合流して西へ200mほど行った橋本西信号から右に入るのが旧東海道となる。曲がるとすぐのところに教恩寺(写真)がある。1300(正安2)年創建で、境内のイチョウの木は幹周り4.3m、樹高17.5mで樹齢450年といわれる大きな木である。
    
 道なりに1号線を左にして平行に進んでいくと、この東海道は田園風景と松並木(写真)が続くのどかで快適であった。当然快晴のもとの朝のすがすがしい新鮮な空気も十分堪能した。なおこの松は近年植えられたものである。
    
 約1km続くこの松並木の途中に、藤原為家・阿仏尼の歌碑(写真)がある。「風わたる濱名の橋の夕しほに さされてのぼるあまの釣船」 前大納言為家   「わがためや浪もたかしの浜ならん 袖の湊の浪はやすまで」 阿仏尼 と刻まれている。
 為家は、中世の歌人の藤原定家の次男で「続古今」の選者。阿仏尼は、為家の側室で「十六夜日記」の作者
   
 そして松並木の終わりに、立場跡石碑(写真)がある。旅人が休息する施設を立場といって、江戸時代は東海道の各所に設けられていた。この立場は新居宿と白須賀宿の中間にある。立場では旅人を見ると湯茶をすすめたので、ある殿様が「立場立場で水飲め飲めと鮒は金魚じゃあるまいに」と戯れ歌を詠んだという話が残っている。
 この先からは道も細くなり、民家が立ち並ぶ中を600mほど行くと、荒居町と湖西市の境界となり白須賀宿へ向かうことになる。
                                          
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