遠江国湖西市
白須賀宿
から二川宿へ
江戸日本橋から新居宿まで275.9km、 白須賀宿〜二川宿5.8km
                                                     
この区間は、2002.3.17新居宿に続いて歩いた。
天候は晴れで暖かい良い日であった。
街道随一の潮見坂からの展望など結構景色がよかったが、
デジカメで撮った写真を見てみるとそのよさがわからない。
これは腕が悪いということもあるが、
それより目にははっきりわからなかったが、花曇でかすんでいたせいでもあったのでではないかと思う。
白須賀宿は高台にあるので、すがすがしい空気も十分吸い込んで歩いた。
湖西市新町潮見坂おんやど白須賀白須賀宿境宿境川橋豊橋市へ

白須賀宿:名前の由来は、「白い砂州の上に開けた集落」と言う意味で、和歌や多くの文献にその名が出てくる。
白須賀宿ははじめは坂見下の現在の元町にあったが、1707(宝永4)年の地震と津波により大半の家が流されたため、翌年坂上に所替えをした。多くの大名はここを素通りして浜松、舞坂、西であれば御油、赤坂に宿泊とした。
 本陣:1、脇本陣:1、旅籠:27、人口:2,704人

    
 遠州灘沿いに走っている国道1号線と平行に旧東海道を西へ歩き、左に明治天皇野立所跡石碑が見えるとすぐに、荒居町と湖西市の境界になる。境界の町は新町でそこから道なりに約1.1km行くと元町の民家の前に右に元町一里塚跡、左に高札場跡の標示板(写真)が並んでいる。手前にある歌壇は旅する人に花を添え楽しませてくれてる。
    
 さらに500mほど行くと右手奥に蔵法院の山門(写真)が見える。蔵法院は宗眠によって1598(慶長8)年に開山され、以来現在まで法灯は絶えることなく続いている。寺の本尊は約58cmの木造観世音像で、1654(承応3)年に漁師の網にかかって引き上げられたものであるという。
    
 その先200m行くと道は分岐しコーナーには、東海道標識と右旧道の石碑(写真)がある。標識には白須賀宿塩見坂下 新居宿まで4.5km二川宿まで7.7kmとある。まっすぐ行くと国道1号線に出るが、旧東海道は右折して坂を登る
   
 この長い急な坂道は全くの人影もなく、自分だけが黙々と登っているが果たしてこの先はどうなっているんだろう、という不安もちょっぴりよぎった。坂の途中で振り返って見ると長い坂道の遥か向うに、青い遠州灘が見え、とてもきれいな景色(写真ではうまく現せなかったが)であった。この坂は潮見坂(写真)と言って街道一の景勝地として知られ、西国から江戸への道中で初めて太平洋の大海原や富士山を見ることができる場所としても、古くから旅人を楽しませてくれた場所である。そして浮世絵、和歌、道中記などに多数紹介されている。
   
 だんだん内陸へ入り坂下から500mを約10分かけて坂の頂上にくると目の前が開け、左手に新しい建物がある。これは東海道宿駅開設400年記念として建設されたおんやど白須賀(写真左)で、白須賀宿歴史と文化に関する資料(写真中、右)の保存と活用を図っている。休館日は毎月曜日で、内部には休憩室、展示室があり利用料は無料となっている急坂をあがってきて、お茶を頂いきゆっくり館内を見学したが、少なくとも東から来る人にはとてもありがたい館であることは確かである。
   
 平坦な高台の道を北西へ歩いて行くと左手に潮見坂公園跡碑(写真左)があり、ここから見下ろす遠州灘(写真右)もすばらしいもの(写真ではうまく現せなかったが)であった。
    
 中学校、小学校の校庭を右に見ながら尾根道を歩いて行くと、白須賀の町並み(写真)が現れどこかしこに昔の宿の名残を見ることができる。
    
 町並みをしばらく歩いて行くと、道は直角に曲げられている。ここは曲尺手(かねんて)(写真)と言い軍事的な役割を持つ以外に、大名行列同士がかち合わないようにする役割もあった。大名がすれ違うとき位の低い大名が駕籠から降りて挨拶をするしきたりであった。しかし主君を駕籠から降ろすことは行列の指揮者にとっと大失態であり、これを防ぐため斥候を行列が見えない曲尺手に出してかち合いそうな時は、休憩を装って最寄のお寺に緊急避難をしていた。
   
 曲尺手を過ぎると道は下り坂になり、家々には屋号の入った札(写真左、右)がかかげられていて、一つひとつ見ていくとなんとなく宿場の雰囲気を感じるような気がするのも不思議である。
   
 潮見坂公園跡から約1.1km歩いてくると十字路があり、その手前の右側に脇本陣跡石碑(写真)がある。
本陣:もともと戦場における武将の本営のことをいっていたが、そののち武将の宿泊所もさすようになった。大名の参勤交代などでは、宿々の富裕者で住居も広く召使も多数いた家を宿所にあてていたが、それが定宿になり、寛永年間から本陣と呼ぶようになった。
脇本陣:通常は旅籠として使用しているが、大名行列などが重なり混雑するときは本陣の代行をしていた。
旅籠:武士や旅人を宿泊させた食事つきの宿屋を旅籠と呼び、江戸時代になって発達し宿場の中央に軒を並べていた。そのうち接客用の飯盛女を置く飯盛旅籠と、置かない平旅籠に別れるようになった。
木賃宿:旅人が米を持参して自炊を行い、薪代を支払う形式のものを木賃宿と呼ぶ。江戸時代には宿場 はずれや町裏で営業して、大道商人、助郷人足、旅芸人など貧しい渡りものを対象にする宿になった。

   
 十字路横断するとその右コーナーに、白須賀出身の偉人、夏目甕麿(みかまろ)邸宅跡と加納諸平生誕地の石碑(写真)がある。甕麿(1774〜1822)は国学者で、本居宣長の門下入り国学の普及に努めた。著書には「吉野の若菜」などがある。諸平(1806〜1857)は甕麿の長男で「鰒玉(ふくぎょく)集」などを出版し、晩年は紀州国学者の総裁となった。
   
 十字路から300mほど北西に行くと右に立派な鬼瓦の庚申堂の建物(写真左)がある。この建物は1841(天保12)年に再建されたもので、この地方でもっとも大きい庚申堂である。中には「見ざる、言わざる、聞かざる」の3匹の猿の像(写真右)があるが、時代が変わると、これら猿には悪いが無責任な猿達ととらえられてしまうのも、仕方がないことであろう。
   
 さらに進んで行くと境宿の町並みのはずれに、東海道標識と白須賀宿も案内看板(写真)がある。
   
 東海道標識から行くとすぐ左側の国道1号線と合流(写真)し、歩くことになる。
    
 1号線を400mほど歩くと、用水路のような境川(写真)にかかる境橋になる。ここが静岡県と愛知県の県境になり、湖西市から豊橋市へ入り二川宿へ向かうことになる。
   
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