三河国豊橋市二川町
二川宿から吉田宿へ
江戸日本橋から二川宿まで281.7km、 二川宿〜吉田宿間6.1km
     
この区間は、2002.3.17に白須賀宿に引き続いて歩いた。
また約4km、約2kmと特に史蹟などを探すことのない平凡な長い道を歩く区間でもあった。
この平坦で直線的な長い道を、快晴無風の絶好の条件のもとで歩く時速に挑戦したが、
私の実力は精々4.5km/h程度であることがわかった。
ところが先日(2003.3.21)静岡県の浜名湖を訪れたとき、
たまたま湖畔半周の2デーズウオーキングが開催されていて、
ダントツの先頭を歩いていた50才の女性に聞いたら、
普通に歩いて6km/hとのことでモーびっくり。
その素敵な女性から歩き方のノウハウをご教示いただだけたらどんなにハッピーであろう、と思う
のであった
豊橋市里山二川町岩屋飯村吉田宿へ

二川宿:江戸から33番目の宿場で、宿場規模は小さく町並みも1.3km程度しかなかった。旅人もここで宿泊する人が少なく1軒しかない本陣の経営は困難を極めたという。産業としては玉糸製糸が有名で海外へ輸出されていた。現在も江戸時代の町割りがほぼそのままの状態で残り、旧東海道ではここと草津宿だけにしか残っていない本陣の遺構がある。
 本陣:1、脇本陣:1、旅籠:38、人口:1,468人
    
 静岡県と愛知県の県境の境川を渡って国道1号線を約300m行くと、左からくる潮見バイパスと合流する。その合流点の三角地帯には「一里山七本松植樹の案内板(写真)が中央にあり、きれいに生え揃った緑地がある。
   
 さらに300mほど行くと右手にこんもりとした林が見えるが、これは細谷一里塚跡(写真)で、東西11m、南北14m、高さ3mの旧東海道の面影を残す遺構として保存されている。
    
 一里塚からダンプなど交通量の激しい国道1号線を道なりに北西へゆるい下り坂を、ただただ歩く。周囲は正に田園風景で何も改めて見るところはないが、右手の遠くには頂上付近が岩肌の立岩(手前の山)(写真)が常に見えていた。約4km弱歩くと左側の神鋼電機工場の建物を過ぎたところで道は分岐し、1号線は左折するが旧東海道は右へ行き東海道新幹線のガード下を潜る。
    
 それから150m歩いて梅田川にかかる筋違橋を渡り、続いてJR東海道本線の踏切を横断して左折して100mほど行った右に、江戸から72里の二川一里塚跡標柱(写真)がある。
    
 一里塚辺りから二川宿に入り、現在の豊橋市二川町の町並み(写真)は人通りもなくのどかな雰囲気を漂わしていた。町並みは東海道新幹線、東海道本線と平行にある。
   
 宿場に入ると右に日蓮宗の妙泉寺(写真左)がある。山門を入った境内の左側には1798(寛政10)年建立の芭蕉句碑(写真右)があり、「芭蕉翁 阿ちさゐや 藪を小庭の 別座敷」と言う句と、世話人である二川宿の俳人9人の名が刻まれている。
   
 その先の右奥には赤い鳥居の二川八幡神社(写真)が見える。1295(永仁3)年鎌倉鶴ヶ岡八幡宮から勧請したと伝えられる二川の氏神で、境内には1809(文化6)年建立の秋葉山常夜燈がある。
   
 町には旅籠(写真左)、商家の東駒屋(写真)など江戸時代の面影を残していると思われる建物も、所々に見ることができる。
   
 二川八幡神社から200mくると、右に東問屋跡標示がある。
   
 そのすぐ先の右の民家の庭に、松坂家脇本陣跡掲示(写真)がある。
   
 道を挟んで反対側には、豊橋市二川宿本陣資料館(写真)がある。二川宿は小宿場で旅人の宿泊も少なく経営的にも苦しくまた火災などもあり、本陣役は当初は後藤家であったが、紅林家そして馬場家と交代した。馬場家も質屋、紙細工内職、寺子屋などの多角経営でようやく本陣を支え1805(文化4)年から60年間勤めた。その後昭和60年に馬場家から豊橋市に建物が寄贈され、昭和63年に江戸時代の姿に整備復元されて資料館となっている。敷地内には1716〜1818年に建築された表門、母屋、玄関、土蔵などが当時のまま残っている。本陣は、間口32m、敷地面積1,733u、建坪598uと宿内一の建物であった。
   
 資料館のはずれの敷地には高札場(写真)が復元されている。
   
 さらに行くと右に西問屋跡標示(写真)がある。
    
 宿のはずれにくると右手奥に大岩神明社(写真左)がある。文武天皇2年(698)に岩屋山南に勧請したのが最初といわれ、その後数回の遷宮ののちこの地に移ったもので、境内には1751(寛延4)年の燈籠(写真中)、1807(文化4)年の秋葉山常夜燈(写真右)、1823(文政6)年の手水鉢がある。
   
 宿を出て少し行くと左手にしゃれた感じのJR二川駅(写真)が見える。しかし地方駅の多くの駅と同じように現在は、駅前商店街を形成するような電車の本数も乗降客もいない。
   
 駅を過ぎると道の右端に、「伊良胡阿志両神社  右東海道」と刻まれた岩屋八丁道標(写真)がある。この辺から道は東海道新幹線と別れ右方向の北へ進み、火打坂を上がったいく。
   
 約800m上り、ソバどころ信州庵から左折するのが旧東海道であるが、現在はガーデンガーデン花屋の敷地となっているため、行き過ぎてから花屋の角を左折する。道は北西へ下り坂になり快晴のもと順調に歩いて行くとこれは絵になると、つい思ってしまった松の木(写真)が高師原口バス停の所にあった。地元の人に聞くとそれなりの謂れがあると思う。
   
 ゆるい下り坂(写真)を延々と歩く。
    
 左折してから約2.4km歩くと柳生川にかかる殿田橋を渡る。渡るとすぐ左に江戸日本橋から73里の飯村一里塚跡標柱(写真)がある。
 一里塚跡を過ぎると道は1号線と合流し、吉田宿へと向かう。
   
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