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三河国豊橋市
吉田宿から御油宿へ |
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江戸日本橋から吉田宿まで287.8km、 吉田宿〜御油宿間10.2km |
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この区間は2002.3.17に二川宿に引き続き豊川にかかる豊橋まで歩いた。
その後2002.11.9に豊橋から豊川市との境界まで歩いた。
ちょっと間隔が空きすぎているけれど、もともと日本橋から順番に歩いているわけでも、
計画を立てて日時を決めていたわけでもないので、こういう結果になってしまった。
ちなみに東海道を最初に歩いたのは2002.1.4の江尻(清水市)から府中(静岡市)で、
江戸日本橋を出発したのは2002.1.13で、京都三条大橋に着いたのは2002.2.24であった。
要するに天候の具合や気分を見計らって旅先を決めていたので
順不同ということになってしまった。
それに準じてこのホームページの作成も、宿順にあまりこだわりなく作成しているし、
最も早く歩いた江尻宿や府中宿を手がけるのは、
今現在(2003.3.27)まだまだ先のことと思っている。
旅というのは、こんな気ままなことを許してくれるものではないだろうか。 |
豊橋市飯村一里塚→瓦町→豊橋市街→下地町→高橋→宝飯郡小坂井町→豊川市へ |
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吉田宿:吉田周辺は鎌倉時代から東海道の交通の要所として栄え、豊川河口に今橋が架けれられたので、町の名前も今橋となった。その後「今橋」は「忌まわしい」させて縁起が悪いということで、1600年(慶長5)年城主池田照政の時に縁起のよい「吉」の一字をつけて吉田と改名した。
明治2年に豊川に架かる橋も名前をとって豊橋と3度目の改名をした町である。吉田宿はもともと城下町であったが、城地整備の途中で池田照政が姫路へ移封されたため、その後の大名たちは少録でその力もなく、明治まで城地は未整備のままになったしまった。
本陣:2 脇本陣:1 旅籠:65 人口:5,277人
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殿田橋を渡るとすぐ1号線と合流し、ほぼ一直線に北西に歩いて行くと伝馬町、瓦町など当時の名残の町名があらわれ約2.5kmのところで、5差路の西新町交差点に出る。この辺からが吉田宿となるようである。交差点の歩道橋に上がると交差点に大きな秋葉山常夜燈(写真)が見えたが、復元されたものであろうか。歩道橋からは1号線と別れて一番手前の道に降り、もちや店の前を通ってすぐ右に入り、保険事務所のところで左折し城下町特有の曲がり角の多い道の住宅地を進む。
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そして造立稲荷の先から右折して500mほど直進すると、クスノキが植えられた中央分離帯に史跡 曲尺手(かねんて)門の石碑(写真)がある。曲尺手門は吉田城内への入口の一つでここから右折して300mほど北に進むと豊川に面して吉田城址のある豊橋公園に出る。旧東海道は分離帯を横断して、「東海道」の標識に従って左折し、右折して西へ進み宿場の中心である豊橋市街に向かう。
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国道259号線を横断するとすぐ右の、鰻屋の店の前に吉田宿本陣跡石碑(写真)がある。また道路の反対側の斜め前には脇本陣跡石碑がある。さらに西へ直進し中島旅館を右折して北へ400mほど行って豊川手前で左折すると、豊橋に出る。
この時点で時計はちょうど2時であったので、少し戻って豊橋公園にある吉田城址を見て横浜へ戻ることにした。
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吉田城:1505(永正2)年牧野古白により築城された。以来東三河の要衝として今川、武田、徳川らの武将の攻防を経て、1590(天正18)年に池田照政(のちに輝政)が入封した。照政は禄高に見合う城地の整備拡張を行ったが、在城10年で姫路に移封されたのちは入封した大名は少禄であったため、城地は未完成のまま明治に至った。写真は吉田城址の隅櫓。 |
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2002.11.9、9時30分東海道新幹線豊橋駅から出発、快晴しかし風は強い。すばやく前回の終了地点へ急ぎ、豊川にかかる豊橋(写真)へ来る。
昔はここから70m下流に吉田大橋がかかっていて幕府直結轄の五大橋の一つであった。そこには豊橋跡記念碑が建てられている。
現在のコンクリートの立派な橋をたまたま人も車も少ない時にデジカメに撮り終えた。
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橋を渡ると大きな通りと別れ、すぐ左折して豊川沿いの道が旧東海道になる。橋から300mほど歩いた右手に幼稚園と隣接して聖眼寺(写真)がある。境内には松葉塚(写真)があり、古碑松葉塚、1769(明和6)年再建松葉塚および古碑松葉塚の所在を占示す1754(宝暦4)年の標石がある。古碑松葉塚に刻まれた「ごを焼きて 手拭あぶる 寒さかな」句は、1687年松尾芭蕉が愛弟子の杜国の身を案じて渥美郡保美の里を訪れる途中、この寺に立ち寄り詠んだものである。なお「ご」(松の枯葉という意味)から、松葉塚と呼ばれている。
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聖眼寺を出て下地町を歩くと、よく案内書に紹介されている下地の家並み(写真左)があり、同じ位置からデジカメで旧家を撮ってみた。この旧家は連格子、低い二階屋根と塀のある旧家で江戸時代は燈油を造って商いをしていたという。近くで撮った写真(写真右)でその様子がわかるかもしれない。
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この辺は戦災を免れたため、その先も旧家の家並み(写真)が続いていている。
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町並を出て500mほど歩くと、右側道の足元に「史蹟境界」と書かれた小さな標示石があり、そこから右折して細い道に入り100mほど行くと左側の公園の中に瓜郷遺跡(写真)がある。低湿地に囲まれた自然の堤防の上に立地する1700〜2000年前の弥生時代の集落で、昭和22〜27年の発掘調査が行われ土器、石器、木製農具などが出土した。三角形の建物は弥生時代の竪穴住居を復元したのもで、大きさは東西5.8m、南北3.5mの楕円形になっている。この瓜郷遺跡は唐古遺跡(奈良県)、登呂遺跡(静岡県)とともに低湿地遺跡として全国的に有名とのこと。
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瓜郷遺跡から戻って淡々と歩いていると、左側に多数の車が駐車している広場と奥に建物がある。これは思いがけず魚市場(写真)であった。地理的な関係はわからないが、旧東海道のこんなところによくあるな、という感じがした。
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さらに歩いて瓜郷遺跡から北西へ約800m行くと豊川法水路にかかる高橋に来る。高橋の手前が豊橋市と小坂井町の境界でここから小坂井市に入る。この橋には歩道がなく、また交通量も多いのでちょっと身の危険を感じてしまった。歩いている人は誰も見当たらないということは、人が歩くことは初めから考慮していないのかも知れない。ただ橋の中ごろで向うからとても風の強い中を必死になって自転車をこいでくる50代の女性を見た時、やはり歩道の線引き程度は必要と思った。私もまた風に飛ばされないように頑張って、上流側の風景(写真)を撮ったが見えている橋は国道1号線小坂井大橋である。
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橋を渡ってゆるい下り坂を200mほど行くと、右に数本の木に囲まれて子だが橋碑(写真)がある。1000年前、う足神社には人身御供があり大祭初日にこの街道を最初に通る若い女性を生贄にする風習があった。ある時生贄を捕らえに来ていた役目の人の前に現れたのは、なんと出稼ぎに行ったいた自分の娘であり、故郷の祭礼と父母に会うことを楽しみさを胸に秘めてようやく朝早く橋の上までたどりついたのであった。その男は悩んだが神の威光の前に「我が子だが、やむを得ん」と生贄にして神に奉った。それから「子だが橋」と呼ぶようになった。現在はう足神社では11羽の雀を生贄にしているという。
こういう生贄の話をよく聞くが、人を助けるはずの神が、人を殺して生贄にしてくれ、などというだろうか。神から直接聞いたり、ハンコの押してある書類でも貰った人がいるのだろうか。こんな神のお告げなどということは全くのデタラメで、宗教的なことはわからないが単に人間の残忍性を現しているだけだと思うし、また若い女性のご指名があったなどというのは、Hな男の考えることである。また人間ではまずいからといって、雀を殺してくれなどということを神が求めるであろうか。
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生贄に義憤を感じて歩いていたら5分もしないうちに、才ノ木南交差点に来ていた。旧東海道はそのまま直進するが、う足神社を訪ねるために右折して100mほど歩くと左側に大きなう足神社の案内立看板(写真左)があり、その奥に神社(写真右)があった。(う足のうの漢字は写真の通りであるが、IBMのホームページビルダーでは取扱っていない漢字のため、やむ得ず平仮名表示にしてある。) う上足尼命(うのかみのすくねのみこと)を祀ってあるので、略してう足神社という。古い神社で文化財の所蔵も多く、武蔵坊弁慶が1175(安元元)年に書いたと伝えられている大般若経600巻がある。神社の説明板によると生贄のことが書いてあり、昔から生贄神事が行われていて猪を供えていたという。ただ人身御供という伝説もあるとのこと。三河の国の国司の大江定基がその生贄の残忍なありさまを見て出家し、唐に渡り法師になったことが「今昔物語」(平安時代)に書かれているという。現在は雀11羽を供えている。何故半端な数の11羽なんだろうか?
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う足神社の境内から左に抜けて旧東海道の戻り北西に歩くと、すぐJR飯田線の踏切を横断する。その直後の右側に秋葉神社と常夜燈の祠(写真)がある。
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住宅街を通り約1.2km歩くと道路の右に江戸より75里の伊那一里塚跡標示(写真)があり、ここから600mほど行くと佐奈川がある。
佐奈川にかかる佐奈橋を渡るとそこは小坂井町と豊川市の境で、ここから御油宿へ向かうことになる。 |
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