駿府国清水市
江尻宿
から府中宿へ
江戸日本橋から江尻宿まで164.1km、 江尻宿〜府中宿間10.5km
  
この区間は、東海道53次を初めて歩いた、2002.1.3に歩いた。
このページを作成したのは2003.5.13であるので、約1年半前の出来事となってしまい、
当時の記憶も薄れがちで苦労した。
一番の問題は当時まだ慣れていなかったせいもあり、何しろ撮った写真の数が少なすぎるということである。
ネタがなければ何も書けないが、とりあえずまとめてみた。
清水市辻江尻宿追分草薙静岡市へ

                          
江尻宿江尻というのは巴川の尻、すなわち下流ということで、江尻宿は巴川が造る砂州上にできた宿である。宿の中心は稚児橋付近であったが、伝馬役の負担は主に下町、中町、魚町の3町で、これを江尻町といった。江尻町(現清水銀座)には、本陣、脇本陣があったが今はその標もない。江尻の港としての機能は、巴川対岸の砂州向島の大型化と水量の減少から徐々に河口から離れ、船運の中心的な地位を失っていった。幕末以来のこの地の最大の生産物は茶であったが、輸出にあたっては、開港場の横浜まで茶を運び製茶しなければならず、清水港を生かすことができなかった。その後請願の結果、明治32年に清水港も開港場として認めらて、茶の輸出量の80%を扱うとともに、木材の輸入、マグロやみかんの缶詰の輸出なども取り扱うようになった。
大正13年の江尻、清水他町村の合併では、清水の市名に反対した江尻の人々は税金不納や小学生の登校拒否で市誕生後も抵抗した。
 本陣:2、脇本陣:3、旅籠:50、人口:6498人

   
細井乃松原を過ぎると商店街に入りJR清水駅を左手に見ながら約1.5km歩くと江尻東3丁目となり、巴川の手前の交差点を右折する。巴川に平行な400mほど長さの道には本陣、脇本陣が並んでいたが現在はその標も見当たらない。突き当たりの魚町稲荷神社前の道路に出て左折し、巴川にかかる稚児橋を渡り十字路を横断して次の三叉路を右へ進むと右に、江尻宿東木戸跡の案内板(写真)が立っている。ここは宿の出入口であったが、他の宿のような枡形道路ではなく三叉路で「く」の字に曲がり宿内を見透すことができないように工夫されていた。
   
さらに800mほど行くと左側に、真っ赤な暖簾を垂らした街道名物の追分羊羹店(写真)がある。その店の角の十字路には「是より志三(しみ)づ道」と彫られた高さ約1.5mの古い道標(写真)があ。昔江戸方面へ旅する人が清水港へ抜ける場合は、この道標を右折すれば近道であった。
 追分羊羹店創業は約300年前の老舗で、竹皮に包まれた追分羊羹は旧東海道では名物の一つとなっていた。
   
さらに少し行くと都田の吉衛門(通称都鳥)の供養等がある。1861(文久元)年1月15日清水次郎長が子分の森の石松が殺された恨みを晴らすため、都鳥をここ追分で討ち取った。菩提を弔う人も稀なのを憐れみ、里人が供養塔を建立して剣客の霊を慰めたもの。その先には、江尻宿と追分宿の元追分東海道標識(写真)がある。
 清水の次郎長:本名山本長五郎といい、清水を代表する幕末から明治にかけて活躍した人物であり、稚児橋から南へ約2kmの梅蔭寺にその墓がある。1820(文政3)年に清水で生まれ、侠客として日本で有数の大親分となったが、明治になると開墾事業から文化・福祉事業に至るまで手広く手腕を振るい、郷土の英雄として名を残している。山岡鉄舟、榎本武揚らの知遇も得ている。また山岡鉄舟を西郷隆盛に引き合わせたことでも有名にしている。
 東海道:東海道という言葉は、崇神天皇(4世紀)が四道将軍(よつみちのいくさのかみ)として武淳川別(たけぬなかわわけ)を東海(うみつみち)に派遣した日本書紀の記事に始まる。ヤマトタケルが東征の道に草薙剣の物語を残し、また九州へ下る防人(さきもり)の重要路として、さらに貢物を積んで荷駄が大和朝廷に向かった道でもあった。中世には「いざ鎌倉」のために整備され、徳川時代になり東海道に松並木を植え一里塚を築き整備された。
     
追分2丁目からJR東海道本線、静岡鉄道の踏切を通り有東坂町に入り、約1km行った静岡鉄道狐ヶ崎駅前の十字路の左角に久能寺観音道道標(写真)がある。1778(安永7)年に建立されたもので、この地から有度山麓を通って久能寺(鉄舟寺)へいたる道標である。
 久能寺:もとは久能山にあったが武田信玄が久能城を築いたため、現在の清水市北矢部に移築されたもの。1300年ほど前の推古天皇時代に国主久能忠によって創立された古来の名刹であったが、明治になり荒れ果て廃寺になってしまった。これを惜しんだ山岡鉄舟が明治16年に再興したので、久能寺を鉄舟寺と改め現在に至っている。

   
駅前から上原子安地蔵堂の前を通り西南へ約900m行った上原町の交差点の南と北の両側に、江戸から数えて43番目の草薙一里塚(写真左:南塚、右:北塚)がある。塚の大きさは、9m四方の高さ1.8という大きなもので、南塚は「榎2本杉1本」、北塚は「榎1本」という記録がある。
 一里塚:徳川幕府が1604
(慶長9)年大久保長安を一里塚奉行に命じ1里(3,920m)を36町と定め東海道、中山道に一里塚を築いた。東海道は江戸日本橋を起点に京都までの120里の道の両側に松並木を植え一里毎に塚を築きここに榎を植え目印とした。
    
さらに南西へ約1km行くと、草薙1丁目と3丁目の境界の道路に大きな草薙神社鳥居(写真)がある。草薙神社は、「草薙の剣」で有名な日本武尊を御祭神とする神社で、鳥居から約1kmのところにある。
 草薙:蝦夷平定に向かった日本武尊が、この地で逆賊の放った炎に囲まれた時、あまのむらくもの剣を抜き、「遠かたや、しけきかもと、をやい鎌の」と唱へて、燃える草を薙ぎ払い危機を脱したという。それにちなみこの地は草薙と呼ばれ、あまのむらくもの剣は草薙の剣といわれるようになった。
その先約100mの静岡鉄道草薙駅前の交差点を左折して最初の十字路を右折して西へ進むと、清水市と静岡市の境界となる。
 ここからは府中宿へ向かうことになる。
           
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