駿河国静岡市
府中宿から
丸子宿へ
江戸日本橋から府中宿まで174.6km、 府中宿〜丸子宿間5.6k
    
この区間は、2002.1.4に東海道53次の最初の宿として歩いたところであった。
ところがこの宿のページは2003.5.14に最後の宿として、
約1年半のブランクを乗り越えなんとか記憶を呼び戻し作成した。
これで53次は完成ということになったが、正直なところ完成させた喜びよりも、
重労働から解放されるという安堵の喜びの方が強いというのが本当の気持ちである。

府中宿:現在の静岡市で駿河国の政治の中心であったので府中といい、駿河の府中であることから駿府ともいった。古代から政治の中心で、安倍の市以来の宿場町、さらに浅間神社の門前町、今川氏以来の城下町であった。徳川家康が大御所政治を執り仕切っていた所もあった。
 本陣:2、脇本陣:3、旅籠:50、 人口:14,071人
    
清水市との境界から西南へ歩き、東名高速のガードをくぐりそこから400mほど行くと静岡県草薙総合運動場(写真)の前に出る。
   
そこから右折して交差点を直進し、初めの分岐を左折して進むとJR東海道本線の線路脇に旧東海道記念碑その由来碑(写真)が建っている。旧東海道はこの東海道本線を真っ直ぐ横断していた。この記念碑のみかげ石は静岡市追手町のあった静岡御用邸に使われていた由緒あるもので、昭和初期の御用邸改修の折栗原町内会が払い下げを受けたものである。
    
現在は線路で通行できないので、右手の地下道を通って線路を横断し高架下を潜って道なりに進み後久橋を渡ると、左江尻宿、右府中宿の古庄の東海道道標(写真)がある。
   
道標から南西へ500mほど行き1号線と合流して進み、長沼交差点で右折してすぐ左折して住宅地に入ると、左の民家の前の植木に飾られた江戸から44里の長沼の一里塚跡碑(写真)がある。
    
一里塚を過ぎたころから、道は静岡鉄道線に沿い約700m行くと1号線に出る。旧東海道は1号線を横切りその先のJR東海道本線を横断することになるが、現在は行き止まりとなっているので、1号線と合流して進む。静岡鉄道線の北側にある護国神社にきれいな蝋梅が咲いているということを聞いていたので、途中静鉄柚木駅の脇の踏切を渡って護国神社(写真左)へ寄り道をした。この日は正月のわりには人込みの少ない神社境内であった。境内右に元歩兵第34連隊生存者一同献木の蝋梅(写真中)が見事に花を咲かせていた。花の黄色(写真右)がとても印象的であった。
     
柚木駅まえの1号線から左折して、地下道でJR線東海道本線を横断して旧東海道へ右折したところの右側に、左江尻宿、右府中宿の曲金の東海道道標(写真)がある。
    
曲金1丁目を通り約600m行き、再度JR東海道本線を地下道で横断したあたりから府中宿に入る。市街地を道なりに南西に進み横田町から伝馬町に入ると、右に徳川家ゆかりの華陽院(写真左)がある。徳川家康は今川氏の人質として8才から19才まで駿府にいたが、幼少の頃の家康は病弱であったため、当時知源院と呼ばれていた華陽院の隣に住まう、外祖母源応尼によって親身に愛情をもって育てられた。1560年(永禄3)5月6日の家康が19才の時、源応尼が逝去してこの院に葬られた。1609(慶長14)年家康が隠退して駿府城に戻ってきたとき、盛大に源応尼の50回忌法要を行い、寺名も源応尼の院号の華陽院と改名した。源応尼の墓(写真右)の隣には家康の5女市姫、また側室お久の方の墓もある。
    
その先に行くと左側に、「上伝馬本陣 脇本陣跡」「東海道府中宿」の標識(写真)が立っている。
    
さらに進んで、静鉄新静岡駅を右に見て少し歩くと右側の寿司屋の玄関前に、市指定史跡西郷・山岡会見之史跡碑(写真)がある。1868(慶長4)年、旧幕府方を平定すべく駿府まで軍を進めた東軍参謀の西郷隆盛と、勝海舟からの書状を携えた幕臣の山岡鉄舟がここで会見し、江戸開城と徳川慶喜殊遇のについての重用な下交渉が行われた。その4日後に江戸薩摩藩邸で西郷と勝の会見が行われ、江戸城の無血引渡しが決まり江戸100万人の命た救われることとなった。
    
寿司屋のすぐ先は江川町交差点の5差路になり、左折するとJR静岡駅で、右折すると県庁と市役所の間を通る御幸通りで、旧東海道はその中間の日生ビルとNTTビルの間を通る道である。5差路を横断して旧東海道を進み、呉服町交差点から右折して約300mほど行くと十字路の右角にりそな銀行がありそこから左折する。
 ここで駿府城址に寄り道するため、右折して市役所の西側を通って県庁の北側の堀にでる。ここには
静岡御用邸跡碑(写真左)駿府町奉行所跡碑(写真中)教導石碑(写真右)その他いろいろな史跡があり、中に静岡の名の由来碑もある。
 教導石:明治の新しい時代を迎え「富や知識の有無、身分の垣根を越えて互いに助け合う社会を目指す」という趣旨に賛成した人々が、明治19年に建立したもの。正面の「教導石」文字は山岡鉄舟の筆になり、正面上部には、静岡の里程元標
(札の辻)から県内各地、東京日本橋や京都三条大橋までの距離が刻まれている。右側面に「尋ル方」とし、住民の相談ごとや知りたいこと、苦情などの内容を貼り付けておくと、左側面の「教ル方」に心あるひとが答えを寄せる、という使い方がされていた。
 静岡の名の由来:明治4年廃藩置県を前にして、駿府または府中といわれていた地名の改称が藩庁で協議された。当初は賤機山
(しずはたやま)にちなみ賤ヶ丘と決まったが、藩学校の向山黄村頭取が時世と土地柄を考え「静ガ丘」即ち「静岡」がよいと提案し、衆議一致で決まった。
   
堀にかかる二之丸橋(写真左)を渡り城址の駿府公園に入る。公園には二の丸東御門巽櫓(写真中)が復元されていて昔の面影の一端を偲ばせてくれる。そして公園の中央には家康の立像(写真右)がある。
 
駿府城の歴史:約650年前の室町時代に、今川範国が駿河守護職に任じられて以降、駿河国は今川氏の領土であった。9代目今川義元の時、徳川家康は7才から18才までの間今川の人質として駿府で暮らしていた。1582(永禄3)年に今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれたあと、今川氏は1568(永禄11)年武田信玄により駿府を追われ、武田領となった。徳川家康は駿府の武田氏を1582(天正10)年に追放して領土とし、1585年から駿府城を築城して浜松城から移り住んだ。しかし1590(天正18)年に徳川家康は豊臣秀吉により関東へ移封され、豊臣秀吉系の中村一氏が城主となった。秀吉の死後関ヶ原の戦いで豊臣方に勝った徳川家康は征夷大将軍となって江戸幕府を開き、1605(慶長10)年に将軍職を息子の秀忠に譲り、1607年に三たび駿府に入った。このとき城は拡張修築され壮大な城となっただけでなく、合わせて安倍川の堤防の改修や城下町の整備も行われ、現在の静岡市街地の原型が造られた。家康は1616(元和2)年になくなるまでこの城に住み、将軍職を辞しても駿府の決定を江戸へ下ろす形で実質的実権を握り、駿府で大御所政治を執りおこなった。家康死後は、頼宣、忠長が城主となったがその後は幕府の番城となり城代が置かれて明治を迎えた。城は度重なる大火や安政大地震で殆どが焼失したり崩壊してしまい石垣と堀だけとなった。平成元年に二の丸東御門と巽櫓が復元された。
   
もとのりそな銀行角に戻ると、右に札之辻址標柱(写真)が歩道に建っている。この辺りには明治7年まで高札場がおかれ、札之辻と呼ばれていた。
   
札之辻から七間町通りを呉服町、両替町、七間町、人宿町と懐かしい町名を歩いて、ファミリマートの交差点を右折して約200m行って、由比正雪の生まれた梅屋町の十字路で左折する。このように枡形の道が曲がっているのは宿や城下町の入口の特徴である。右手の広い大通り道と平行に南西へ新通1、2丁目、川越町、弥勒1丁目と約1km弱歩き、弥勒2丁目の安倍川の手前で大通り道と合流し、その挟まれところは小さな弥勒公園となっている。ここには由比正雪公之墓址(碑面には油井と刻まれている)川会所跡や左丸子宿、右府中宿の弥勒の東海道標識(写真)が立っている。
   
道の左側を通って行くと、赤い派手な暖簾のこじんまりとしたあべかわ餅元祖石部屋(せきべや)(写真左)がある。ちょいと中を覗かせていただくと、とてもシャレた女性たち、いや失礼しました店内(写真右)であった。安倍川餅は、上流の金山に働いていた鉱夫が、金粉餅といって家康に献上したのが始まりといわれ、太田蜀山人も食したという。私の方は甘いのが苦手なのでお許しをいただくことにしたい。
   
そのすぐ先の安倍川の堤防に、安倍川の義夫の碑(写真)がある。1738(元文3)年初秋のころ、紀州の漁夫が金150両の大金を持って安倍川を自分で渡った際、着物を脱ぐとき財布を落とした。それを人夫(川原町彦右衛門の息子の喜兵衛)が拾い川を渡って旅人のあとを追いかけ、宇津の谷峠から引き返してきた旅人に無事手渡すことができた。しかし「拾ったものを落し主に返すのは当たり前のことだ」と言って旅人の謝礼を絶対に受け取らなかった。この正直な川越人夫の顕彰碑は昭和4年、和歌山県と静岡県の学童や有志により建立された。
   
そしてすぐ目の前には安倍川にかかる大きな鉄橋(写真)がある。昔はこの橋のちょっと下流から川越をしていたが、明治7年に安水橋が出来、その後改築され現在鉄橋は大正12年に完成したものである。東海道には13の渡しがあり、安倍川もその一つであった。川幅は約650m360間ほどで、船渡しもあったが歩行渡しで知られていた。両岸にあった川会所で川札を買い、人夫に渡して肩車か蓮台で対岸に渡った。
安倍川:静岡県境の安倍峠を源とし、藁科川と合流し駿河湾に注ぐ川。
 この橋を渡り丸子宿へ向かうことになる。

   
              
ホームページ
トップへ
東海道53次
トップへ
次の宿へ
ホーム