駿河国静岡市丸子町
丸子宿から岡部宿へ
江戸日本橋から丸子宿まで180.2km、丸子宿〜岡部宿間7.8km
                         
この区間は2002.5..3に歩いた。とても天気の良い日でまさに五月晴れであった。
ここを流れる丸子川には、全く水がなかったことにはビックリした。
昔、宇津ノ谷峠の約870m区間を大名行列の人馬が列をなして通ったということであるが、
現地に立って見ると、とても細くて険しい山道で、人が1人りやっと通れる位の道で、
行列が通るなどということはとても信じられないことであった。
この宇津ノ谷峠には、明治以降明治トンネル、大正トンネル、昭和トンネル、平成トンネル
というように各時代ごとにトンネルが掘られていたということで、
いかにこの宇津ノ谷峠を越すかということが交通の重要課題であったかということだと思う。

ちなみに明治トンネルは通行料金をとった、日本初の有料道路である。
静岡市安倍川橋丸子宿宇津ノ谷集落岡部町へ

丸子宿:丸子宿の歴史は古く、鎌倉後家人の手越家綱が奥州藤原氏を討伐した恩賞として駿河国麻利子村を賜り、そのとき鎌倉幕府に宿駅の開設を願いでたことから始まる。江戸時代には1497石の幕領となり、安倍川の川越を扱い、川越人足も多数いた。とろろ汁が名物である。
 本陣1:、脇本陣2:、旅籠24:、人口:795人

    
旧東海道の橋が現在ないため、迂回して安倍川橋(写真右)を渡る。橋の上から安倍川の下流(写真左)を見るとこの時期殆ど水がない状態であった。
    
 橋を渡り旧東海道に戻り、南に約1km歩き国道1号線に合流する。200mほど歩くと道は分岐し、1号線と別れ左手の県道静岡藤枝線から丸子宿に入る。丸子1丁目を通って400mほど行くと丁字路になる。左折するとJR安倍川駅へ行くが旧東海道は直進し、道なりに右に曲がり1号線と平行に走る。閑静な住宅街を歩いて丁字路から約500mの道端の右に、江戸から46里の丸子一里塚跡碑(写真)がある。通常塚は道の両側に作られているが、この塚は北側に塚のない「片側塚」となっている。
    
 さらに西へ500mほど行くと左側の丸子川の堤防斜面に馬頭観音(写真)がある。観世菩薩は変身自在で33にも身を変えて現れるという。この仏も化身されたひとつの姿であり、頭に馬をいただいているところからこの名がついている。
    
 堤防から丸子川(写真)を見たら、なんと全く川水がないではないか!地元の人に聞いたところ6月の梅雨の時には水が一杯になるということであるが、これでも川かと、本当にびっくりした。なお周辺の茶畑は特に水は不要で、雨水程度でよいそうで、特に丸子川に水がなくても支障がないということである。
    
丸子川沿いの丸子七丁目の宿の町並み(写真)を西へ歩く。
    
馬頭観音から200mほど行くと、右に丸子宿本陣跡碑(写真)があり、この辺が宿の中心であったのであろう。
    
 そのすぐ先にお七里役所跡碑(写真)がある。江戸初期の寛文年間、紀州徳川頼宣は江戸屋敷と領国の間146里にわたって7里間隔の宿場に独自の諜報機関として中継ぎ役所を設けた。この役所を「紀州のお七役所」と呼び、5人1組の飛脚を配置した。これには健脚で剣道、弁舌に秀でた者が選ばれた。お七里飛脚の看板を持ち腰に刀、十手をさして徳川御三家の威光を示しながら往来した。普通便は8日、特急便は4日足らずで到着した。徳川頼宣は家康の第10子で、家康が亡くなって3年後に追われて紀州に国替えになったので、幕府の行動を警戒する諜報機関としてお七里役所を置いた。
    
さらに200mほど行くと左側に山芋をすったとろろ飯で有名な丁子屋(写真)があり創業は1596(慶長元)年で、この敷地には十返舎一九東海道中膝栗毛碑(写真)と「梅わかな丸子の宿のとろろ汁」の芭蕉句碑(写真)(1814年、文化11年建)がある。この辺りまでが丸子宿となる。
    
丁子屋前の横断歩道を渡り、丸子川にかかる丸子橋(写真)を渡る。
   
橋を渡った右側に、丸子宿御高札場(写真)の文字とともに、3本の高札がありいろいろ文言が書かれている。それにしてもいかにも新しい木の香りがしそうな高札であった。
    
道は西へ直進し約400m行くと道なりに左に曲がり、丸子川を右に見て南西に向かい500mほど行って1号線(写真)と合流して進む。
   
 1号線を200mほど行き赤目谷信号から左の道に入り、約400先で再度1号線と合流して1kmほど行くと宇津ノ谷トンネル前に、道の駅「宇津ノ谷峠」がある。ここから1号線の上下線を横断する歩道橋(写真)が見え、その奥に宇津ノ谷トンネルがある。
    
 道の駅から歩道橋に向かう途中に、左折する蔦の細道の東入口に、つたの細道標識(写真)がある。蔦の細道は宇津ノ谷越えの最も古い道で、1590(天正18)年に秀吉が小田原征伐のため旧東海道を開くまでの重要な道であった。宇津の山は「伊勢物語」で広く知られるようになり、「宇津の山越へ」として、平安時代から鎌倉・室町時代の歌や物語のよく登場する名前である。
      
国道1号線は宇津ノ谷入口で、下り線トンネル(平成トンネル)(写真左)上り線トンネル(昭和トンネル)(写真右)に別れる。
     
歩道橋を渡り人家の少ない道を道なりに300mほど行くと分岐し、三角地に宇津ノ谷の案内板(写真)がある。旧東海道は左手の石積の道の方で宇津ノ谷集落の中を通る。
    
石積道には「旧東海道 お羽織屋 明治のトンネル」の案内標識(写真)が立っている。
   
 丸子川にかかる橋を渡り石積の道を歩いて行くと、ゆるい登りの坂道と両側に古いのどかな宇津ノ谷の家並み(写真)が前面に開ける。宇津ノ谷集落は、丸子宿と岡部宿の間に位置し、往来する旅人が休息した間の宿で、軒先には昔の屋号をかかげ歴史的な町並みが保存されている。
   
 町並の中頃の左に石川家のお羽織屋(写真)があり建物は江戸時代ものである。1590(天正18)年豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻めたとき、宇津ノ谷で休息をした。そのとき当家の祖先石川忠左衛門が馬の沓三足を献上したりしてもてなしたので、秀吉は喜び着用の陣羽織を与えた。この羽織が今でも当家に保存され有料で公開している。また徳川家康や徳川慶喜から贈られた茶碗も展示されている。
    
 お羽織屋の手前を右折して道を少し下り丸子川の橋を渡ったところに、宇津ノ谷峠から移された延命地蔵のある慶龍寺(写真左)がある。この境内には、「十団子も小粒になりぬ秋の風」の許六の句碑(写真右)がある。室町時代から伝わる数珠型の魔除けの十団子で、現在でも毎年8月23,24日に慶龍寺の縁日に配られている。昔宇津ノ谷峠に鬼が現れるて困ると聞いた在平業平が、下野の素麺谷に祈願したところ、宇津ノ谷に僧となって地蔵の化身が現れ、小さな団子の化けた鬼を杖で打ち10個の粒にして呑み込んでしまった。以降峠は安全になり、峠に延命地蔵が祀られたという。
元の道に戻り町並みを歩いて行くと200mもないくらいの短い町並は終わり、突き当たりの階段を登りきると左右に走る細い道に出る。右折するとすぐ左に階段があり、旧東海道入口の標識(写真)がある。
    
結構険しい山道を右、左と曲がりながら登って、ふと下を見ると通って来た宇津ノ谷集落と道(写真)がはっきり見えた。多分昔と変わらないそのままの景観かもしれない。
 峠の頂上を越すと下り坂になるが、とても狭く急な険しい坂道(写真)が続く。江戸j時代の東海道の公道として大名行列で馬や人がこの険しい坂道を通ったとはとても信じられない。やはり昔の旅は何ごとも命がけであったということが、実感としてわいた。旧東海道入口の標識のある階段を登って、それなりに整備された道を約15分かけて歩いてきたが、昔の人はこの十倍もかかって峠を越したのではないだろうか。
 さらに坂道を下って行くと、静岡市から志太郡岡部町に入り岡部宿へ向かうことになる。

      
                  
                             
                                    
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