駿河国志太郡岡部町
岡部宿から藤枝宿へ
江戸日本橋から岡崎宿まで 188km、 岡部宿〜藤枝宿間 6.7km
                         
この区間は、2002.5.3に丸子宿に引き続き歩き、天候はとてもよかった。
宇津ノ谷峠も下りから始まったが、人通りがない山越えは昔の旅人にとっては、
いつ山賊などに襲われるかもしれない恐怖心などで確かに命がけであったことだと思う。
特に女性はどうやって越えたのかと、
今ころ心配してもしょうがないことであるがやはり気になってしまう。
岡部宿の通りは遺構も少なく、簡単に通過してしまったような気がする。
岡部町宇津ノ谷峠岡部内谷藤枝市へ

部宿:宿は、他の多くの宿より1年遅れた1602(慶長7)年に成立した。小規模な宿で、隣接する内谷村を加えて人馬継ぎ立ての負担を分担して、宿駅の業務を行なわざると得なかった。
旅籠屋も大きなものが少なく、大規模な大名行列があると宿泊にもさしつかえ、夜具も藤枝宿や丸子宿から借りて間に合わせるほどであった、という。
 本陣:2、 脇本陣:2、 旅籠:27、 人口:2,322人

   
宇津ノ谷峠を越えて、急で巾狭い坂道(写真)を下る。ここを人馬の連なる大名行列が通ったなどとは、現代に住む私にはとても信じられないことである。
    
左手の林の中にひげ題目碑(写真左右)がある。多分ひげ文字で刻まれた文字から付けられている名前。
    
 さらに坂道を下って行くと、右旧東海道、左蔦の道道案内(写真)がある。ここは蔦の道の西入口行く入口になる。この道は、駿河国安倍郡と志太郡のさかいにある宇津の山の一番低くなった鞍部にある峠道で、二つの峠越しがあった。一つは源頼朝以降の開発された旧東海道本筋を通っている宇津ノ谷峠で、もう一つはそれ以前の蔦の細道である。鎌倉幕府は部隊の行進ができない旧道を廃止し、新道を開いたのが宇津ノ谷峠道である。上り下り約870m(八丁)の険路であった。1601(慶長6)年徳川家康が五街道を設置して交通の便を図ってからは、この街道は人や物資の往来が頻繁になり、参勤交代の大名行列は、20万石以上の大名は武将が20騎、足軽が120〜300人もあり。1万石の大名でも50〜60人の供揃えでその行列はこの峠を埋め尽くしたという。この道も1876(明治9)年にトンネル開通で閉ざされた。
   
 坂道を下ると、右側に坂ノ下地蔵堂(写真)がある。1700(元禄13)年に、岡部宿の伊東七郎右衛門、平井喜平衛、中野陣右衛門の3人の発願して再建された霊験あらたかと村人や近隣の人たちに信仰されている。伝説として「鼻取地蔵」「稲刈地蔵」が残されている。堂内には地蔵菩薩像が安置されていて、宇津ノ谷峠を越える旅人の安全を守り、堂前の木陰は旅人の疲れを癒した。
   
 地蔵堂から南へ歩いて700mほど行き1号線を歩道橋で渡り、岡部川沿いに西へ1.3km進むと川原町の十石坂観音堂(写真)が右に見える。江戸時代末期の造りといわれ、入母屋造瓦ぶき観音堂で内陣、外陣の境の格子は非常に細かい技巧がほどこされている。この観音堂には2基の厨子が安置されている。厨子の一つは宮殿造りで彩色がほどこされていて、江戸後期の作。もう一つの厨子は宝形で、黒漆塗りの品格の高い江戸中期の作。
   
 さらに400mほど進むと丁字路があり、旧東海道は直進して細い道に入るとすぐ先の道端に、ここから北にある三星寺横の笠懸松・西住墓への道案内板(写真)がある。弟子の西住とともに東へ放浪の旅をしていた西行が、天竜川をわたる際乱暴を受けた。その者を西住が懲らしめたところ、西行は雲水にあるまじき行為として西住を破門し、形見として笠と筆跡を渡した。失意の西住は密かに西行を追うが、岡部で病に倒れ「西へ行く雨夜の月やあみだ笠、影を岡部の松に残して」との辞世を西行から渡された笠に書き残し1137(保延3)年9月23日に死んでしまう。帰途岡部の外れの小さなお堂で休んでいた西行が、堂の戸に掛けられていた西住の笠を見てその死を知り、「笠はありその身はいかになりならん あはれはかなき天の下かな」という歌を残して岡部を去ったという。その笠懸の松も昭和49年頃に枯れてしまい、今は2代目の松の根元に西行の小さな墓がある。
   
 その先の岡部川にかかる岡部橋から左折し岡部宿に入り、進んでいくと先ほどの道に戻る。南に歩いて行くとすぐ左に昔風の旅籠屋の柏屋(写真)がある。奥には、なにやら二人の旅人が桶で足を洗いながら話をしている最中。その表には真新しい「平成13年度 県都市景観賞最優秀賞」の立札がある。旅人は人形であった。
   
 その先の左に岡部本陣跡碑(写真)がある。碑の後にある内野氏は元禄年間から本陣を勤め、現在の建物は明治になって建替えられたもの。14台将軍家茂上洛の折に社号が与えられが将軍稲荷、井戸、庭園が往時の姿を残しているという。
   
現在の岡部宿の町並み(写真)
   
先に進むとすぐ左に旧東海道標識(写真左)が立っていて、そこから本道から別れて平行して走る左のわき道が旧東海道(写真右)である。
   
道の左の正応院(写真左)の境内には、緑に囲まれた五重塔(写真右)がありとても印象的であった。
   
 約700mの脇道を抜けて岡部町役場前に出る。この辺で宿場はずれとなり、旧東海道は先ほど本道と合流し内谷に入る。合流して200mほど行くと右の誓願寺跡に五知如来像(写真)がある。地元産の三輪石で作られて5体揃ったものが2組ある石像仏で、一組は陸奥棚倉から駿河田中城に移封された内藤弌信の家老の脇田次郎左衛門正明が1705(宝永2)年に寄進したもの。向かって右から釈迦如来、阿門如来、大日如来、宝生如来、阿弥陀如来。当時の田中城主だった内藤紀伊守が、岡部宿外れの誓願寺にある五知如来像にひたすら願をかけたところ、口の不自由な姫が治癒したといういわれがある。
   
 五知如来像から途中松並木を見ながら約1km南へ歩き、藤枝バイパス下のガードを潜るとすぐ右に「従是巌村領 横内」と書かれた岩村藩領傍示杭(写真)がある。この杭は江戸時代の1735(享保20)年から明治維新までの155年間、横内村が岩村藩領であったことを標示した杭を復元したもの。岩村藩は美濃国岩村城(岐阜県恵那郡岩村町)を居城とし松平能登守が3万石の領地を持ち、駿河国には154村五千石分の飛地の領地を持ち、横内村に陣屋(地方役所)置いて治政を行っていた。
 ここから岡部町から藤枝市に入り、藤枝宿に向かうことになる。
                       
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