駿河国藤枝市
藤枝宿
から島田宿へ
江戸日本橋から藤枝宿まで194.7km、藤枝宿〜島田宿間8.7km
      
この区間は、2002.5.3岡部宿に引き続いてあるいた。
午後からは曇り空で歩くには暑くも無く寒くもないちょうどよい天気であった。
島田宿の印象は、少なくとも道の通りには宿の遺構がほとんど残っていなくて、
少し淋しい感じがした。
藤枝市横内藤枝宿 勝草橋 瀬戸新屋 島田市

藤枝宿藤枝は田中城の城下町でもあったが、宿場町と城下町の関係がうまく機能し、例えば宿内の橋の整備や本陣の改築、畳替えなどは藩の費用で行われていたため、藩主と住人の関係は良好であった。宿の西にある瀬戸川の川越の役務は藤枝宿で行っていたが一年を通じて殆ど水がなく、出水時だけの川越となっていた。交通の面では、田沼意次の所領相良に通じる田沼街道、高根白山神社への参道高根街道、瀬戸谷街道などの要衝であった。現在は静岡市のベッドタウンとなりつつある。
本陣:2、脇本陣:0、旅籠:37、人口:4,425人
    
 藤枝バイパスのガード下から南へ進み、朝比奈川にかかる横内橋を渡り、約1km行くと1号線と81号線との交差点に出る。旧東海道は1号線にかかる仮宿歩道橋(写真)を渡って左に入る。
   
法の橋を渡り、葉梨川沿いに歩いて静岡家具工業団地前で再度1号線に出てからすぐまた左の道に入り、歩道橋から約600mの民家の前に、江戸から49里の鬼島一里塚跡標識(写真)がある。(標示は江戸から48番目の一里塚となっている)
少し行き葉梨川にかかる八幡橋を渡ってから、葉梨川沿いに500mほど行くと右手に水守の須賀神社のご神木のクスノキ(写真)がある。樹齢約500年で根廻り15.2m、樹高23.7m、枝張りが東西21.2m南北が27.9mの圧倒されるような巨木である。(数値は昭和33年に県指定天然記念物に指定された時のもの)
   
さらに200mほど行くと、右上に鐙ヶ淵の観音堂(写真)がある。この広場は元葉梨川の淵でその形が馬具の鐙に似ていたことから鐙ヶ淵と呼ばれた。崖上の観音堂は通称山之堂といわれ地元の人々に親しまれていて、本尊は平安中期の恵心僧都の作と伝えられている。淵の傍らに柳の大木があり、その木に触れたものは浄土往生の志を覚え淵に身を投げたという。人々はこれを「人取り柳」と呼び恐れて近づかなかったが、後に聖僧により切り取られ、一体の観音像として鐙堂のご本尊となった、という言い伝えがある。
   
道なりに300mほど行き1号線を横断すると本町4丁目になり、ここから藤枝宿に入ることになる。さらに進むと道端に「東海道藤枝宿左車町」の標識(写真)が立っている。左車町の地名は,鎌倉幕府の六代将軍宗尊親王(1242-1274)が,京都から鎌倉へ下る際,乗っていた車の左車輪が折れてしまい,ここに埋めたことから名づけられたという。
   
本町4丁目から3丁目と商店街を通って行くと、本町交差点の手前の2丁目角の小川眼科医院入口(写真右)に、白子由来記碑(写真左)がある。1582(天正10)年の本能寺の変で、堺にいた徳川家康は追ってから逃れて伊賀越えで伊勢に入った。そこで野武士の襲撃にあったが伊勢白子の住人小川孫三に助けられて無事脱出して駿府に戻る。1586(天正14)年8月14日に、孫三はその賞として家康から白子の土地と諸役免除のご朱印をもらい、この地を白子町と称してここに居住した。小川眼科医院は孫三の子孫が経営している。
    
本町1丁目に入ると右側の、道路際の東海道案内板の後ろに、大きなヒバの木(写真)があり、左に常夜燈、右に連生寺の門碑を構えたような形がとても格好よく見えた。
   
さらに進み藤枝4丁目で左の小道を入ったところに、久遠の松で有名な大慶寺(写真)がある。久遠の松は鎌倉時代の1253(建長5)年京都比叡山に遊学された日蓮がこの地に立ち寄り、記念にお手植えしたという黒松で、樹齢約750年、高さ約25m、根元の周囲約7mという全国でも珍しい大木で、県指定天然記念物となっている。なお庫裡は、1788(天明8)年の田沼意次の相良城の御殿を移築したのものである。
   
続いて藤枝2丁目に入ると道の右側の、上伝馬交番脇の小道(写真左)を入ったところに、本願の松で有名な正定寺(写真中)がある。本願の松(写真右)は、1730(享保15)年正定寺の弁財天に信仰が篤かった田中城主土肥丹後守頼稔が、大阪城代に登用された報恩として寄進したとされ、傘型に枝張りした美しい姿が印象的である。
   
元へ戻るとすぐ目の前には、瀬戸川にかかる勝草橋が見え、ここで宿は終わりとなる。勝草橋から眺めた瀬戸川(写真)
   
勝草橋を渡ると志太3丁目となり道なりに南西へ進むと、約1km行ったところで1号線を斜めに横断する。そこから216号線を横断してさらに1kmほど行くと瀬戸新屋となり、十字路の左側に六地蔵堂(写真)がある。鏡ヶ池に棲んで旅人を悩ませていた龍を、鬼岩寺二世静照上人が修法で退治し、その際鏡池堂が建てられた。六地蔵尊は智証大師の作とされ、高さ30cmほどで金色に彩色された木仏であるという。また鏡池堂の額は渡辺崋山が書いたものと伝えられている。現在の堂は昭和33年に昔の形を残して建替えられたもの。
なお六地蔵は、「六道地蔵」と言って六道四生をさまよう人々を救出する役目を担ってくれる菩薩のこと  
 六道とは 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天  (仏になれない生命)
 四生とは 胎生・卵生・濕生・化生       (発生形態の生物)
である。

  
その先100mほど行くと、左に東海道追分標識(写真)が立っている。瀬戸新屋や水上は池・湿地が多く、中世の古東海道はこれを避けるためこの碑から南(左)に大きく迂回していた。湿地の開拓が進んで瀬戸新屋を通るようようになってからの旧東海道と古東海道の分岐点を、追分と呼んだ。
   
さらに600mほど行くと道の左に染飯茶屋蹟碑(写真左)がある。瀬戸の染飯は東海道が瀬戸山の尾根伝いに通っていた頃から尾根の茶店で売り始めたといわれ、1582(天正10)年の「信長公記」にその名が記されている。そして江戸時代終わりまで現在の茶店蹟で売られていた。染飯とは強飯(こわめし)をくちなしで染めて薄く小判型にしたもので、くちなしは足腰が強くなるということで旅人に好評であった。道の反対側には瀬戸の染飯版木の碑(写真右)がある。染飯を売る時の包み紙に押した版木は市の指定文化財となって石野家に残っている。
   
染飯茶屋あたりから、道は左に見えるJR東海道本線沿いに走り、約1.5km行くと左の道端に江戸から51里の上青島一里塚跡碑(写真)がある。
   
その先1.8km行くと1号線に合流し、西へ進むと島田市の標識(写真)がある。
ここから藤枝市から島田市へ入り島田宿へ向かうことになる。

   
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