駿河国島田市
島田宿
から金谷宿へ
          江戸日本橋から島田宿へ203.4km、 島田宿〜金谷宿間3.9km
                            
この区間は、2002.5.3に藤枝宿に引き続きJR島田駅まで歩き、
翌日200.5.4に大井川まで歩いた。
天気は両日とも良好であった。
この区間はやはり大井川の川越遺跡が関心ごとであり、
また大井川堤防近くにある島田市博物館には、
江戸時代の大井川、島田宿、川越しの様子をとてもわかりやすく展示されていて、
また新しい知識を多数得ることができ、うれしい限りであった。

島田宿:多くの他の宿と同じ1601(慶長6)年に、宿の指定を受けた。1604(慶長9)年に大井川の大氾濫により宿が流出し北の方へ移ったが、1616(元和元)年から元の地に復帰し、護岸工事も進められた。宿は川越で賑わい、1696(元禄9)年に川越制度が確率してからは旅人も安心して川越ができるようになった。大井川の蓮台越は今でも伝統行事として行われている。
また大井神社の3年に一度の行事である、帯祭りは全国の3奇祭の一つに数えられている。
 本陣:3、脇本陣:0、旅籠:48、人口:6727
島田市に入り、JR東海道本線沿に国道1号線をほぼ西へ歩き、JR六合駅前で北へ一部迂回してさらに進み大井川へ流れる大津谷川にかかる栃山橋を渡る。お仮屋町に入ると1号線と分れて左手の道を直進して島田市境界から約3.5kmのところで繁華街となる。その本通り商店街の入口の左側歩道に東海道の道標(写真)がある。この辺から島田宿となるのだろうか。
   
商店街を進んで行くと、右側歩道に江戸から52里の島田宿一里塚跡碑(写真)がある。
   
さらにその先の左歩道には、刀のマークが入った刀匠島田顕彰碑(写真)がある。室町時代初期、島田に「助宗」「義助」という刀鍛冶がいて、この一門は代々同名を踏襲して明治に至るまで高い評価を得ていた。昭和61年に義助屋敷跡付近に顕彰碑を建立した。
   
進んで本通り2丁目交差点角の、島田信用金庫の前に芭蕉句碑(写真)がある。
   
本通り2丁目交差点を左に行くとJR島田駅で、旧東海道は直進し3つ目の交差点で右折して大井神社に立ち寄った。曲がるとすぐ左手に背の高い大井神社立柱(写真左)がある。そこの鳥居から入ると奥まったところに本殿(写真中)が見える。本殿への途中に、この地に遷座した年を示す元禄2年と刻まれた大井神社元禄の社号標(写真右)がある。
大井神社:度重なる大井川氾濫による災害で悩まされた里人が、大井川の水神を祀って創建した神社で、幾たびかの遷座を繰り返したあと島田宿が東海道53次の宿と固まった元禄2年に、当地に遷座した。島田宿の氏神としてだけではなく、公家、大名、旅人からも大井川川越えの安全を祈願して深く信仰された。

    
境内には、約280年前の江戸時代正徳3年に神輿が渡るために造られた石の太鼓橋(写真左)、使用した帯を供養して納める帯塚(写真中)、またきれいな庭園(写真右)にもなっている。
帯祭り
(島田大祭):元禄8年から始まった大井神社の神事で、3年に一度10月中旬の3日間行われる。島田へ嫁いだ女性が氏子になった報告と安産祈願で大井神社に詣でるときに、晴れ着で町内を披露して歩いたのが始まりで、やがて男たちが代理で嫁入り道具の帯を飾って練り歩くものになった。
   
この日はもう夕方になり、宿泊情報を集めにJR島田駅へ行ったら島田駅交番前に宗長庵趾碑(写真)があった。ここは元禄年間(1688〜1704)に島田宿の俳人塚本如舟が、宗長の昔を慕い宗長庵を営み、雅人たちと諷詠を楽しんでいたところ。元禄7年に松尾芭蕉も訪れている。
石碑は3基建立されていて、右から順に次の通り。
宗長句碑:遠江国、国の山ちかき所の千句にこゑやけふはつ蔵山のほととぎす
芭蕉翁を慕う漢文碑
芭蕉さみだれ古碑
(断碑):(さみ)たれの (空)吹きおとせ 大井川
連歌師宗長:1448(
文安5)年島田に生まれ、宗祇(全国に連歌を広めた室町時代の後期の人)に師事し連歌を学び、宗祇没後は連歌界の第一人者として活躍した人。
   
2002.5.4朝8時にホテルを出発した。天候は晴れで正に五月晴れであった。
道なりに西へ進み、本通り1丁目から向島町に入り東海パルプ工場の前で道が分岐するので左手へ行き、神社から約1kmのところで国指定史蹟の
島田宿大井川川越遺跡の町並み(写真)に入る。川越遺跡は昭和45年に現在地に復元されたもので、建物は普通の民家と混在しているが昔の雰囲気がとてもよくあらわしている。
大井川川越制度:「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と称された東海道最大の難所は、実際は川幅が広く深みも少なく宿駅制度制定以前は各人が浅瀬を選んで渡っていた。また川越賃も定まっていなかったので、人足はわざと深みに入り転んだりして法外な渡し賃を取ったりしていた。こういう状態を解消するために、1696
(元禄9)年に川越制度を確率し、川庄屋が置かれた。川越の方法は、川会所で川札を買い、川越人足にこれを渡して、肩車、連台などで川を越すものであった。
川札の値段は、毎朝水の深さと川幅を計って定めた
大井川の常水は帯通約76cm
(2尺5寸)であった。
値段
(寛政年間:1文を30円換算)
股通   :1440円(48文)
帯下通  :1560円(52文)
帯上通  :2040円(68文)
乳通   :2340円(78文)
脇通   :2820円(94文)
川の水深が約136cm
(4尺5寸)を越えると、川庄屋の権限で川札発行が停止され、川留となった。この川留は年間約50日もあり、最長で28日も記録したこともあり、余分はな出費をさせ旅人を困らせた。川越人足は当初島田と対岸の金谷に各350名と定められていたが、その後650名まで膨らんだ。
大井川川越遺跡には、川越業務を管理運営する川会所、人足がたむろする番宿、人足頭が会合に使った立会い宿、人足が川札を賃金に替えた札場などの建物が復元されている。

    
町並みの中ほどの右に、関川庵 八百屋お七の恋人吉三郎の墓と書かれた標識(写真左)があり、小路に入って行くと確かに吉三郎墓(写真右)がある。何故こんなところに、八百屋お七が関係しているのかと、正直不思議であった。吉三はお七が処刑されたあと、僧となり遍歴するうちに島田で没し、ここに葬られたという。
   
町並みのはずれの右側に復元された川会所建物(写真左)と、境内には「馬方はしらじ時雨の大井川」の芭蕉句碑(写真右)がある。
   
その先の左に八重枠稲荷神社(写真)の鳥居がある。1760(宝暦10)年に川越しの事故で亡くなった人々を供養するため建立され、社殿は1812(文化9)年と明治34年に修繕されたが、礎石は建立当時のままで、大井川の川石を亀甲形に加工して積み上げたものである。八重枠の名の由来は、昔ここに大井川の出し堤防があり、増水時には蛇籠に石を詰めて杭で固定して幾重にも並べ激流から堤防を守ったことから来ている。
   
その先の両側には、増水した川の水をせき止めた「せぎ跡の石垣(写真)が一部残っている。
   
左手の方は朝顔の松公園で、朝顔の松(写真)がある。盲目の娘、朝顔が川留めのため恋人に会えず、身を投げたが助けられる。その時奇跡的に目が見えるようになり、最初に見たのがこの松と伝えられている。現在の松は4代目になるという。
   
元へ戻り、大井川に向かって歩くと右に島田市博物館(写真)がある。江戸j時代後期の大井川、島田宿、川越しの様子をとてもわかりやすく展示している。東海道を歩く者にとっては、一見の価値は十分にある。入場料大人300円、開館時間 9:00〜17:00、休館日月曜日、祝日の翌日、年末年始。
   
直進して堤防に上ると、大井川(写真)が見えるが現在は水量も極少なく江戸時代を思い起こすことのできる状態ではなかった。対岸の金谷宿へは右手の遠くに見える大井川橋を渡って迂回して行くことになる。
                           
蓬莱橋(写真):東海道とは直接関係ないが、大井川橋から下流に約4kmにある、ギネスブックに載っている蓬莱橋(ほうらいばし)という木造の橋を紹介したい。
JR島田駅から南東へ約1.5km行くと、大井川にかかる長い木造の橋がある。
1869
(明治2)年7月、最後の将軍徳川慶喜を護衛してきた幕臣たちが大井川の対岸の牧之原を開拓してお茶作りは始めた。筆舌に表せない苦労の末茶栽培での生活もできるようになり、島田方面へ生活用品を買いに来るようになった。島田の住人も対岸に山林、原野の開墾のため出かけるようになったが、大井川を小舟でしか渡れず非常に危険なことであった。そこで開墾人の願いにより、1879(明治12)年1月13日に蓬莱橋が完成した。しかし木造のため大井川の増水でたびたび被害を受けたことから、1965(昭和40)年に橋脚をコンクリートに変え、今日に至っている。
全長897m、通行巾2.4mで平成9年12月「世界一長い木造歩道橋」としてギネスに認定された。
実際に歩いてみると吊り橋のように揺れがあり、またところどころの板の隙間から川水が見えて、私のような高所恐怖症人間にはきつい橋であったが、何故か往復した気分は爽快であった。
               
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