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遠江国榛原郡金谷町
金谷宿から日阪宿へ
江戸日本橋から金谷宿まで207.3km、金谷宿〜日阪宿間6.5km
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この区間は2002.3.30に歩いた。
天候はとてもよく中山峠を急坂を登っているときなどは汗をかいて、
木陰が欲しいほどであった。
難所で鈴鹿峠と並び称された小夜の中山峠は、現在は全て舗装され歩きやすい道となっていた。
道中は金谷峠の石畳の道以外は、全て舗装された極く交通量の少ない道が続き歩きやすく、
時折見せる一面の茶畑の美しい景観は疲れをとても癒してくれた。
金谷町金谷河原本町金谷坂菊川坂菊川宿青木坂掛川市小夜の中山峠

金谷宿:金谷河原は単なる大井川の河原に過ぎなかったが、1590(天正18)年の豊臣秀吉の配置した中村一氏の「天正の瀬直し」で大井川の流路を東側に変えてから人の住む土地となった。本格的に宿場として利用されるようになったのは、東に大井川、西に小夜の中山峠という難所をひかえて、江戸時代東海道53次の主要な宿駅のひとつとなってからである。そして大井川の金谷側の川越施設は金谷河原に造られ、金谷本町には他の宿場と同じように伝馬役を務める施設を造って役割分担をしていた。
金谷周辺の丘陵には茶畑が多く、特に南側の牧之原台地は大規模である。この牧之原台地は明治初期勝海舟らが、窮乏生活をしている旧幕臣らのために地元町民と一緒になって開拓した茶畑で、静岡県が全国一の茶生産地となる基礎を築いた。1万5千ヘクタールの大茶園は東洋一の規模となっている。
間の宿菊川:間の宿は本宿との中間にあって、人足の休憩所や旅人の休憩の便宜をはかるために作られた。通常は本宿間の距離が12kmから16kmに及ぶときに作られたが、菊川のように大井川、金谷峠、中山峠など急所難所が続く場合には特例として間の宿がおかれた。ただ間の宿には旅人の宿泊厳禁とか料理の制限などいろいろ制約がかけられていた。ちなみに菊川宿では金谷宿の許可がないと、いかなる場合も旅人を宿泊させることはできなかった。
  
本陣:3、脇本陣:1、旅籠:51、人口:4,271人
     
大井川にかかる大井橋を渡って左に堤防を100mほど行ったところの道を左に入ったところが、旧東海道となる。100mほど行くと金谷宿の入口になる八軒屋橋(現東橋)(写真)がある。ここを渡ると江戸時代は島田宿と同様に、川合所や川越人足の番宿、渡し料金の精算をする「札場」などの川越し施設が立ち並んでいたが、現在はそういう名残はない。
   
八軒屋橋から道なりで西へ、SLで有名な大井川鉄道新金谷駅の右手の踏切を渡り、約400m行くと大代川にかかる大代橋があり、それから少し行って南西に曲がると金谷宿の本町の町並み(写真)に出る。
   
町並みは左右に山を見る谷道で800mほど続くき、中ごろ右側に佐塚書店前に佐塚本陣跡立札(写真)がある。この書店の経営者は15代目にあたる人である。
    
さらに100m行った地域交流センター前に、柏屋本陣跡の立札(写真)がある。
    
 町並みを抜けるとJR金谷駅手前に丁字路があり、旧東海道はJR東海道線のガードをくぐる左へ進む。そのガードの入口に金谷一里塚の立札(写真)がある。
   
ガード下をくぐるとすぐ長光寺にあがる階段(写真)があり登る。
   
長光寺は金谷宿では唯一の日蓮宗寺院で、当日は本堂は工事中(写真左)で、本堂をジャッキアップで持ち上げている姿(写真右)を見せてもらった。
   
本堂の東側の一角には芭蕉の「道のべの 木槿は馬に 食われけり句碑(写真)がある。
    
旧東海道に戻り200mほど行くと不動橋(写真)がかかっていて、ここは金谷宿の西の入口にあたるところである。現在の橋は昭和27年に架け替えられた鉄筋コンクリート製である。
   
不動橋を渡ると、急勾配の金谷坂(写真)が延々と続く。
   
金谷の一里塚から約300mのところで国道473号線に出て横断したところに、旧東海道石畳(登り)入口(写真)がある。この石畳は江戸幕府が金谷宿と日坂宿の間にある金谷峠の坂道を旅人が歩き易いように山石を敷きつめたといわれている。現在の石畳は近年これが殆どコンクリートで舗装されてしまったのを、平成3年に地元町民が延長430m区間を石畳に復元したものである。ただし両脇にある側溝は江戸時代にはなかったという。
   
石畳の坂道を50mほど登ると右手に江戸j時代茶屋風に建てられて石畳茶屋(写真)がある。ここには心を癒す庭園があり、お茶をいただきながら一休みするにはとてもよいところだという。ただし先を急ぐ私には無縁のところであった。
   
石畳茶屋を過ぎるとすぐ右に小さな広場がある。そこに入るとすぐ左に、鶏頭塚(写真)がある。蕉風を広めた俳人六々庵巴静の句「曙も夕ぐれもなしけ鶏頭華」が刻まれた自然石碑があることから「鶏頭塚」と呼ばれている。
   
広場の奥には庚申塔(写真左)と珍しい庚申塔三猿(見ざる、言わざる、聞かざる) (写真右)が建てられている。江戸時代の大泥棒の日本左衛門は、この庚申塔で夜盗姿に着替えしたと伝えられている。
   
公園の前からふと今来た石畳の道を振り返る(写真)と、とても急な坂であることが改めてわかった。
   
金山坂登り口から約460mで金谷坂の石畳は終わり、薄暗い杉木立の道から舗装された町道諏訪原城線の丁字路に出る。旧東海道はここから右折するが、左折して20mほどの右手に「馬に寝て 残夢月とおし茶のけぶり」の芭蕉の句碑がある。馬上でうとうと寝てしまったという句であるが、芭蕉の旅というと歩いている姿を思い浮かべるが、実際は地方に住む弟子たちのもてなしで結構馬に乗っていることも多かったという。
 旧東海道に戻り440mほど行くと白い立柱の案内標識のところから右折して細い道を歩くと
諏訪原城跡(写真左・右)に出る。この城は1573(天正元))年武田勝頼が家臣の馬場美濃守氏勝に命じて築いた城で、武田家の守護神の諏訪明神を奉って諏訪原城と名付けられた。自然の地勢を巧みに生かした山城であるが、現在は建築物が残っていないので、単なる森のように見えるだけである。戦国期の城郭跡として、昭和50年に国の史跡として指定されている。
   
さらに旧東海道を100mほど行くと菊川坂の下り入口(写真)に出る。この石畳の道は牧之原から菊川の里までの急斜面が続く坂道で約700mある。道中一部発掘された江戸時代の石畳もあるが、写真の石畳は観光用に復元したもので、江戸時代には石畳の道ではなかったという。
   
時には茶畑(写真)を周りに見て目をやすめながら、蛇行して続く急斜面の菊川坂を下りる。
   
石畳の坂を下り終わると舗装された道にでて間もなく菊川にかかる高麗橋(写真)を渡ると、菊川の町並みに入る。。
   
橋を渡って道なりに右に曲がるとすぐ右側に、木製お堂(写真)の中に錆びた鉄製の秋葉常夜塔がある。通常常夜灯は石造であり、鉄製は珍しいのではないかと思う。
   
さらに200m歩くと、右に広場があり奥には立派な地域活性化施設菊川の里会館(写真)がある。
菊川は間の宿で旅人の宿泊は厳禁で、いかなる場合でも宿泊には金谷宿の許可を必要としていた。また尾頭つきの本格的な料理を出すことも禁じられていたことから、生まれたのが菊川名物となった「粟飯田楽」であった。旅人にはひなびた里の味としてとても喜ばれたが、特に下菊川おもだか屋・宇兵衛の茶屋の田楽が格別においしかったと言われている。

   
広場の入口右側の、菊川周辺案内板脇に藤原宗行卿詩碑日野俊基歌碑(写真:左が宗行卿)が並んでたっている。前者は1221年の承久3年の変で、討幕計画に参画した藤原宗行卿が鎌倉へ護送される途中、宿泊した菊川宿で「昔南陽県の菊水下流を汲みて齢を延ぶ 今は東海道の菊水西岸に宿りて命を失う」と詠んだ詩歌で、後者は1324年の正中元年の変で同じく罪で鎌倉へ護送されたとき菊川で先人宗行卿を思って「古もかかるためしを菊河の おなじ流れに身をやしづめん」と詠んだ句である。
   
菊川ののんびりとした町並み(写真)には、人影をみることができなかった。町並みを抜けて菊川の支流に架かる四郡橋を渡って左に曲がって町道菊川神谷城線を横断し、石段にはじまる青木坂入口へと歩く。
   
青木坂の入口は、旧東海道の難所として有名な「小夜の中山峠」の入口であり急な登り坂となる。この急な坂は峠の頂上にある久延寺まで延々と約1km続く。尾根づたいの坂から眺がめる茶葉畑(写真)や山々の景色はとてもすばらしく、疲れを癒してくれた。そしていつの間にか金谷町から掛川市に入っていた。
   
坂道を登って約20分してようやく峠の頂上(写真)に到達した。難所と言われた小夜の中山峠もここから以降は下り坂となり日坂宿へ向かうことになる。
  
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