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遠江国掛川市日坂
日坂宿
から掛川宿へ
江戸日本橋から日坂宿まで213.8km、 日坂〜掛川宿間7.1km
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この区間は、2002.2.30日金谷宿に続いて歩いた。
小夜の中山峠のゆるい下り坂は天気もよく快適であった。
さよの中山は、小夜または佐夜と書かれ、南と北に山が連なりその間が「狭谷」になっているので
「さや」のちに転じて「さよ」の中山というようになった。
4kmほどの峠には、さまざまな史跡や伝説が残されている楽しみな区間であった。
なお峠の道の両側には、100から200mごとに古人の歌碑が立っていたが、
写真は全て割愛した。
市小夜の中山峠(下り坂)沓掛集落日坂宿の町並み伊達方掛川宿へ

日坂宿:日坂(にっさか)の地名は、小夜の中山の「西坂」からきている。
日坂宿は幕府直轄の交通・宿泊機能を中心とした宿場であった。宿はとても小いさく、由比、鈴鹿の坂下に続く3番目に小さい宿で、集落が普通もつ年貢米収納の郷蔵ももてなく、また幕府の定める人馬継立規定の100人100疋をそろえることもできないほどの山峡の小宿であった。
日坂の町は下り勾配で、ゆるいカーブを画いて700mほど続く町並みの形態はいまでも変わらず、その西端に旅籠の川坂屋が復元され当時の面影を伝えている。

 本陣:1、脇本陣:1、旅籠:33、 人口:750人
   
 小夜の中山峠の頂上に来ると、右側に久遠寺(写真)がある。久遠寺は掛川城主の山内一豊が境内に茶室を設けて、関ヶ原戦に向かう家康を接待した場所として、また小夜中山の夜泣石伝説の寺として有名である。
 山内一豊は秀吉の武将で6万石の掛川城主であったが秀吉没後家康に組し、関ヶ原戦いでは家康軍に加わり功績を挙げた恩賞で、土佐24万石の大名になった人である。

   
 境内には、家康が立ち寄った1600(慶長5)年に植えたという五葉松の大木(写真左)と、夜泣石(写真右)(注:地元の方のご指摘があり、現在は、本ものと思われる石は、国道一号線小夜の中山トンネル金谷側に置かれているとのこと)がある。
 夜泣石伝説:江戸時代の滝沢馬琴の小説「石言遺響」や安藤広重の「佐夜の中山」にも画かれいる有名な石で、伝説は多数ありその中の1つは次の通り。妊娠していたお石が菊川宿からの戻り、腹痛を起こして小夜の中山の急坂の途中にある丸石のところで休んでいた。そこへ通りかかった男が介抱しているうちに、お石がお金をもっていることに気づいてお石を殺害してその金を持って逃げ去った。そのときのショックで子供が生まれたが、お石の魂が丸石に乗り移り夜毎に泣いた。里人はおそれ、その石を「夜泣石」と名づけたという。子供は音八と名づけられて久遠寺の和尚にで育てられ、立派な若者になった。その後その若者が見事母の仇討ちを果たすことになる。また弘法大師が訪れたとき、話を聞いてお石に同情し石に仏号を刻んで立ち去ったという。
なお境内にある石は広重の絵に画かれている石ではなく、大正時代に誰かによっと持ち込まれた石だということである。以前の石はどこへいったのであろうか。

   
 久遠寺から少し行くと右側に子育飴で有名な扇屋の茶店(写真)(注:地元の方からのご指摘で、現在は廃業で店はなくなっているとのこと。)がある。ここでは今でも子育て飴を売っている。
 子育飴の由来:夜泣石伝説の一つで、小夜中山の怪鳥・蛇身鳥を退治にきた藤原良政がこの地で月小夜姫と出合い、二人の間に小石姫が生まれた。成人した小石姫は中山寺の住職空叟上人
(足利尊氏の伯父)の子供を宿していたため親の進める結婚を果たせず、中山千人斬の松の許で自害する。自害する前に生まれた遺児月輪童子は、中国伝来の飴の製法を受け継いだ末広荘(扇屋)の飴で育てられてという。
   
 扇屋の前の道路の反対側には「年たけてまた越ゆべしとおもいきや命なりけり小夜の中山」の西行の歌碑(左写真の左端)があり、その奥は小夜の中山公園(写真右)で今が盛りの桜が咲いていた。
 このあたりから道はゆるい下り坂になる。
   
 250mほど行くと丁字路の左側に、江戸から56里目の小夜鹿一里塚石碑(写真)がある。
   
 さらに少し行くと同じ左側でちょっと奥まった小高い盛り土のところに、鎧塚石柱(写真)がある。1335(建武2)年北条時行が鎌倉幕府の再興で兵をあげた「中先代の乱」で、時行の一族の名越太郎邦時が京へのぼる途中、この地で足利一族の今川頼国と戦い壮絶な討死をした。頼国は名越邦時の武勇をたたえてここに塚をつくり供養したという。後世地元の人が掘ってみたところ、鎧は出てこなかったが鎧塚云々と書かれた丸石が発見されている。
   

 鎧塚からしばらく行くと右側のシイの木の脇に小さなお堂の白山神社(写真)がある。神社の前には東海道の道標があり、小夜の中山白山神社から日坂まで十四町1.4km、金谷宿宿境まで一里六町4.6kmとある。
 なお白山神社
総本社は石川県にある白山比め神社で霊峰白山の山岳信仰として栄えている。白山信仰の神社は全国に3000社近くあり縁結び、商売繁盛、家内安全、水の神などとして崇められているが、江戸時代からは何故か歯痛止めの神様としても信仰されてきている。
   

 白山神社から200mほど下ると左手に、「往来歩行人馬 為御祈祷建之」と刻まれた馬頭観音(写真)ある。この馬頭観音は、前述の子育て扇屋で出てきた藤原良政が、京から下向してきた折に乗ってきた愛馬を葬った所と伝えられている。
   
 さらに50mほど下ると、左に面して涼み松広場(写真)があり、昔峠を歩く旅人たちに木陰を提供していた大きな松があったところである。広場の奥には、「命なりわづかの笠の下涼み」と刻まれた芭蕉の句碑(写真)があり、この句にちなんで涼み松と呼ぶようになり、また周辺の地名も「涼み松」のと称されるようになったという。
   
 涼み松広場の前の道の反対側の茶畑の中に妊婦の墓(写真)がある。この墓は前述の藤原良政と月小夜姫との間に生まれた娘の小石姫が自害した時に、亡骸を葬ったところと伝えられている。
墓石には「往古懐妊女夜泣松三界万霊・・・旧跡」と刻まれている。

   

 さらに500mほど下ると右側に、峠の道の真ん中に鎮座する夜泣き石と旅人を描いた有名な「日坂・小夜の中山」の広重の絵碑がある。江戸時代は小夜の中山といえば夜泣き石というように有名であたということの証という。
   

 広重の絵碑を見て、ふと今来た道を振り返ると、どこまでも続く長い下り坂(写真)があり、その中を青空のもと絶好の旅をしている自分に満足した。
   

 茶畑が広がるゆるやかな坂道を過ぎて峠も終わりになるころ、沓掛の集落を過ぎると急カーブの下り坂(写真)となる。ここは二の曲りと呼び、その急勾配は東の青木坂とならんで小夜の中山峠を越える旅人を悩ませたところであった。
 なお沓掛の地名は、峠の急な坂道にさしかかった所で沓
(くつ)を履き替え、古い沓を水に掛けて旅の安全を祈願するという慣習に因るといわれている。
   

 二の曲りから200mほど下った所は日坂宿の入口に近く,日坂バイパス手前から日坂の町(写真)を眺めた。
   
 峠を下り切り国道1号線を横断すると日坂宿の町並みの入口となり、そこには宿の案内板(写真)がある。
   

 国道1号線から100mほど歩くと右手に秋葉常夜燈(写真)がある。日坂宿はしばしば火災にあっているため秋葉信仰が盛んで ここ本陣入口の常夜燈は1856(安政3)年に建立されたものである。
   

 さらに少し行くと右側に、扇屋本陣跡(写真)がある。 日坂宿本陣の屋号は「扇屋」で、代々片岡家が世襲で営んでいて、敷地は約350坪、建坪220坪、門構・玄関付の建物であった。しかし1852(嘉永5)年の日坂宿の大火で全焼し再建後、明治3年に店を閉じている。その後明治12年より跡地を日坂小学校の敷地とし、建物は校舎として利用したが現存していない。
   
 金谷、掛川と大きな宿場にはさまれた日坂宿は700mほどのゆるいカーブの宿で、坂下(三重県鈴鹿)、由比に次いで三番目に小さな宿場であった。現在でもその町並み(写真)はよく保全されている。
   

本陣から50mほど行くと問屋場跡の立札(写真)がある。記録によると日坂宿問屋場では、問屋1人、年寄4人、帳付5人、馬指3人、人足割3人、同下役6人が仕事をしていたとある。
   

 宿の町並みのはずれに来ると左側に、旅籠川坂屋の建物(写真)がある。たびたびの大火にあった日坂宿で数少ない江戸時代の面影を残す建物で、建築年は日坂宿大火1852(嘉永5)年か、または安政の大地震1854(安政元)年といわれている。精巧な木組と細かな技法を用いた格子や欄間が特徴で、平成12年修復された。上段の間があることから身分の高い武士などが宿泊した宿であるといわれている。
 一般公開をしていて、ボランテァーの地元の人が説明をしてくれる。
 開館日:原則として土日祝日
 ・開館時間:午前10時〜午後4時(入館は午後3時半まで)
 ・入館料:無料
 ・駐車場:有

   

 川坂屋を出るとすぐ右に高札場(写真)が復元されている。高札場とは、幕府や藩の定めた法令や禁令を板札に書いて掲げた場所のことで、下木戸の高札場と呼ばれていた。当時の記録によると、高さ二間、長二間、横七尺とあったが、明治6年撤去された。
   

 さらに約400m行くと1号線と合流して右折したT字路の正面に、事任八幡(ことのままはちまん)(写真左)の本殿と拝殿がある。この境内には樹齢千年といわれる杉の巨木(写真右)がある。
 由緒案内によると、807
(大同2)年に坂上田村麻呂が東征の際再興したと伝えられ、武家社会となって八幡宮信仰が栄えると、1062(康平5)年に源頼義が石清水八幡宮を当社に勧請して事任神社が八幡宮を併称するようになったという。
古代から、必ず願いごとのままに叶うありがたき社、として朝廷をはじめ全国より崇敬されていたと、平安時代の「枕草子」にも記されている神社である。
  
 事任八幡宮を出ると、国道1号線をほぼまっすぐ南西方向へ1.3km歩き、1号線と分かれて約200m行くと、江戸より57番目の伊達方一里塚跡石碑(写真)が立っている。
 ここから掛川の宿を目指すことになる。

    
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