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相模国足柄下郡箱根町
箱根宿から三島宿へ |
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江戸日本橋から箱根宿まで97.6km、 箱根宿〜三島宿間14.8km |
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この区間は2002.2.19と3.2の両日にわたって歩いた。
この箱根は箱根八里越えといわれる東海道屈指の難所で有名なところであるが、
現在もその面影を残している険しい道と人影のない山道はとても怖くて
いわんや江戸時代は如何にかあっただろうかと、思わせるに十分であった。 |
箱根湯元→畑宿→箱根関所跡→箱根峠→三島市境界 |
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箱根宿:日本橋から10番目の宿場で間宿として畑宿がある。江戸幕府が1618年に旧湯坂道を廃止し、小田原宿と三島宿の中間点の箱根山中の芦ノ湖畔に箱根宿を置き関所を設けた。この地はやせたひどい土地であったため、租税などの優遇措置をとり小田原、三島の両宿から各50軒ずつ強制的に移住させて作った宿場。
本陣:6、脇本陣:1、旅籠:36、人口:844人
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箱根登山鉄道沿いに登ってくると、箱根湯元駅の500mほど手前の左に、早川にかかる三枚橋(写真)が現れる。箱根越えは時代によってコースが違い古い順から、・碓氷道(上古道) ・足柄道(中古道) ・湯坂道(近古道)・旧東海道(近世道)・新道(国道1号線)・箱根新道 とあり、三枚橋は旧東海道の橋で1号線と別れこの橋を渡る。
幕末の山崎の戦いでは、官軍の小田原軍と幕府の遊撃隊がこの橋付近で激戦をしたところで、早川が血に染まったという。なお三枚橋の由来は、3枚の板で橋が出来ていたことかから名づけられているとのこと。ここから箱根峠の上り坂までを箱根東坂、箱根峠から三島宿に至る下り坂を箱根西坂と呼ばれている。
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三枚橋を渡るといよいよ険しい山道かと思っていたら、舗装された狭い交通量の激しい県道の坂を上っていくことになった。約700mほど上っていくと右側に戦国大名北条早雲の菩提寺の早雲寺(写真左)がある。1521年(大永元年)に2代目氏綱が建立したもので、境内には北条幻庵作庭という枯山水の名庭園(写真右)がある。
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早雲寺を出て400m程歩くと左側の階段を上がると曽我五郎、十郎兄弟の供養塔(写真)や曽我堂で有名な正眼寺がある。五郎が弟で十郎は兄であり、五郎は箱根で育ったため箱根五郎とも呼ばれ親しまれている。
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しばらく上っていくと、県道から分かれて下る歩道(写真左)が右側に現れる。この入口には「国指定史跡 箱根旧街道入口で、この先255mがその面影を残している」との立看板がある。入口の民家の壁際には江戸時代の馬の水飲み場(写真右)が置かれている。当時は人間より馬が大事であり、宿も馬のために用意されたもので人間はあくまでもついでであったという。民家からちょっと歩くと石畳の道になり、ようやく旧東海道の箱根越えをしているという実感が沸いてくる。小さな橋を渡ると登りの石畳となり、歩くうちに先ほどの県道に合流する。
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さらに県道を歩いていくと、右側の山の中腹に眼を凝らして見ると滝がチラリと見える。この滝は初花の滝(写真左)といい、夫唱婦随で見事仇討ちを遂げた歌舞伎「箱根霊験記」で有名な勝五郎の妻、初花に因んでつけられた。なお夫婦の墓はこれより400m程行った右側にある鎖雲寺(写真右)にある。ちょっと不思議に思ったのは、この滝は年中水が流れっているとのことであるが、こんな高い位置で水源はどうなっているのだろうか、ということである。
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鎖雲寺から100mほど道なりに歩いて行くと、こんもりとした小高い山に突き当る。旧東海道はこのまままっすぐの急坂を登るのであるが、現在は工事中で周り道をした。この急坂は「女転(ころが)し坂」という、なんとも悩ましい名前がついている。その謂れは立看板によると「急な長い坂のため、この付近で馬に乗った婦人が落馬して死んだ」ことからきているとのこと。坂上から撮った女転し坂(写真)は、あまりにも急(45度?)で、男でも転ぶはずと思ったが、それではあまりにも情緒がないということなんであろうか。
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少し行くと、東京電力畑宿発電所前で右に割石坂(写真)の立看板の立った階段の山道が現れ、これが旧東海道となる。この割石坂の謂れは、曽我五郎が富士の裾野へ仇討ちへ行く途中、ここで路傍の巨石を真っ二つに割って刀の切れ味を試したことからきているという。この道は須雲川自然探勝歩道になっているが、結構厳しい上りの坂道である。
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600m程上って行くと、県道に出、横切った向こう側に国指定史跡 箱根旧街道の立杭(写真左)があり、ここが箱根旧街道石畳の入口となる。特に大沢坂は当時の石畳が一番よく残っているとのこと。
江戸幕府は1618年(元和4年)に旧来の湯坂道(湯元から湯坂山ー浅間山ー鷹巣山ー芦ノ湖ー元箱根)を廃止し、湯元から三枚橋を渡って須雲川に沿い、畑宿を通り二子山の南側を経て元箱根に至る古い山路を広げた世にいう箱根の八里越えと伝えられる街道を作った。1680年(延宝8年)幕府の手でこの道に初めて石が敷かれたが、この石敷きは現在でも所々に残っていて国の史跡に指定されている。
現在残っている石畳の多くは、1863年(文久3年)に和宮内親王が14代将軍徳川家茂のもとへ降嫁されるにあたり、幕府が代官に命じて改修させたものといわれている。
平均3.6m道幅の中央に約1.8m幅に石が敷き詰められていたという。(案内版より抜粋)
石畳の構造を示した立看板(写真)がある。
箱根旧街道は江戸防衛のため、意識的にどろどろで膝までぬかって歩きにくく設計されているところもある
街道はたびたび改良が行われ初めは箱根笹を横に敷いたりしたが、後に石畳として完成とした。ただこの場合でも石を不規則に敷いて歩き難くするなど防衛上の配慮をしている。
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しばらく歩くと前面に二子山(写真)が青空にくっきり見えた。この峰に見える高い突起物は、富士山気象観測所が廃止になった時に移設してきたレーダーとのこと。
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石畳が切れてしばらく歩くと、右側に畑宿本陣茗荷屋跡碑(写真)がある。後ろに見える庭は畑宿の名主茗荷屋畑右衛門の旧庭で、山間からの水を利用して滝を落とし、池には沢山の鯉を遊ばせた当時評判にの立派な庭園で、ハリスやヒュースケンも見たという。
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本陣からすぐ上り道になり、そこには平成10年に復元された江戸日本橋から23番目の箱根一里塚(写真)がある。この一里塚は石畳の両側に残る塚で旧東海道中で唯一その形態を留めるものとなっている。山の斜面にあるこの塚は、周囲を盛土、切土と石貼で平坦面をつくり直径9m円形に石積を築き、礫を積み上げ、表層に土を盛って頂上に植樹したものと発掘調査で判明している。
思いがけなくここでデジカメの電源が無くなってしまった。原因は箱根旧街道は薄暗い林の中であったので殆どが自動フラッシュが作動し電源の消耗が激しかったためで、これを反省して次回からはデジカメを2台携帯することにした。とりあえずは幸運にも畑宿の土産屋に使い捨てカメラがあったのでそれを購入した。
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畑宿一里塚からは、西海子坂、樫木坂、猿滑坂、追込坂を経て天ケ石坂まで登り坂の連続で、時には200段近い階段(写真左)を上ったり、急勾配の石畳だったりの険しさは、やはり昔は最大の難所であったろうと実感させられた。樫木坂は「東海道名所日記」に、けわしきこと道中一番なり「樫の木の、坂をこゆれば、くるしくて、どんぐりほどの 涙こぼる」と書いてあるとのこと。(案内板抄訳) 猿滑坂は「新選相模国風土記稿」で「殊に危険、猿猴といえども、たやすく登り得ず、よりて名とす」と坂の名の由来が書かれある。(案内板抄訳)
猿滑坂を過ぎると県道を横断するが、ここにかかる歩道橋の上に立った時は、青空をバックにした遠くに見える山々はこれまでの難儀を忘れさせてくれるほどのすばらしい眺望であった。追込坂(写真右)の階段は10年前に発掘されて復旧されたもので、甘酒茶屋までゆるい坂道となる。
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甘酒茶屋(写真)には、赤穂浪士神埼与五郎が討ち入りに急ぐ途中、ここの馬子にいいがかりをつけられたが、大事の前ということで馬子に詫び証文を書いたという逸話が残されている。(事実は同じ浪士の大高源吾とのこと)
また茶屋を当時小田原へ入る諸大名が、ここで一服する場所として利用したので大変繁盛したという。
今でも江戸時代の趣を残し甘酒(400円。全くアルコール分なし)なども売っている。さらに不思議なことにここの自動販売機のドリンクは、100円と町中より安いのでした。
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追込坂を過ぎると、天ケ石坂の急な上り坂となり、上りきると平坦なデコボコの石畳で、それから芦ノ湖へ向かう下り坂となる。ただこの下り坂は日当たりの悪いせいか、この時期まだ残雪(写真)があり足元が危なかった。
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そのまま下っていくと権現坂となる。権現坂で眼の前の木々の間から素晴らしい芦ノ湖(写真)が開けたときは、なぜかほっとした気分に襲われた。 |
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これまでの上り道から快適な下り道になり、足取りも早くなったのであるが、ここで馬鹿チョンカメラもコマ切れになり、映像的な記録は断念した。
芦ノ湖畔まで下りるとそこは大鳥居のある元箱根である。
江戸幕府は、1618年(元和4年)に小田原と三島の中間点に宿場を計画したとき、すでに現在の元箱根には宿があったが、箱根権現の門前町であったため遠慮して少し離れた地点に宿場を新設した。こうして新しい宿ができたのでそれまでの門前町を元箱根と呼ばれるようになった。新しい宿場には全く人が住んでいない貧しい土地であったため、税金はとらない、時々込米を無償で配給するなどの優遇措置をとり、小田原からと三島からの両宿から各50戸(約600人)を強制的に移住させた。
この日は絶好の日和で冠雪をいただいた富士山が見事に芦ノ湖に映し出されていたが、記録できないことが残念。また約420本の大木の並ぶ旧街道杉並木の中を関所跡まで歩いた。後日02.3.28付け朝日新聞に、「このままでは10年で枯れてしまうといわれた国指定史跡の箱根旧街道杉並木が、16年間にわたって続けられてきた土壌改良で元気になり、葉が目に見えて茂るようになった(箱根町教育委員会事業)」、という記事があった。樹齢350年以上、高さ38m、直径5.5mに及ぶものもあるとのことで、これまで生きてきた樹木を、また後世に生きて残せるということは素晴らしいことだと、関係者の地道な努力に感謝したい。 |
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日を改めて3/2にデジカメを2台持って、関所跡から歩いた。
箱根の関所は1616年(元和2年)に、大阪夏の陣の浪人が江戸へ潜入することを防止するために箱根権現の一の鳥居あたりに設置された。その後箱根宿開設とともにこの地に移された。昭和40年に復元した番所の建物(写真左)には、当時をしのばせる人形や資料が揃っている。なお現在は平成19年春完成を目指して「箱根関所復元」工事(写真右)が行われている。
箱根関所の厳しさは有名で「入り鉄砲に出女」、すなわち銃火器の江戸への持込みと、西国大名子女の江戸からの脱出を徹底的に取り締まった。ただ新居関所の機能強化や幕府の体制強化などがあって1633年(寛永10年)には鉄砲改めは省略され、女改めが主体となったという。通行時間は午前6時から午後6時まで、管理は小田原藩が担当。関所を通らず他の場所から抜け出た場合(関所破り)は死罪となったが、この規則は明治2年関所が廃止されるまで存続した。
ただ実際に関所破りで処刑されたのはせいぜい5人程度で、他の多くは管理責任を問われるのを恐れて「道に迷った者」として刑を軽くしていたという。
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箱根関所跡から国道1号線と合流し300mほど行ったところの、右手に入った道の数十mの所に、箱根駅伝記念碑(写真)がある。
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さらに国道1号線を約300m行った先の信号から右に分かれて、箱根旧街道に進む。石畳や杉並木の坂道を1号線を横断したり合流したりして、右の道を上って行くと、箱根峠(写真)の標高846mのもっとも高いところの位置に到達する。
この道をまっすぐ行くと三島へ、左へ行くとくらかげゴルフ場(私有地)へ行くが、標高としてはゴルフ場へ行く道の方がさらに高くなる。
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箱根峠からは三島までは殆どただ下るのみで、一号線と100mほど合流した後右手の舗装道路に入り少し行くと、左側に是より江戸25里の碑(写真左)がある。この碑から左に入ると篠竹に囲まれた兜石坂(写真右)で、一目散に下る。
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約500m下って1号線に合流してカーブを曲がると、すぐ右手に旧箱根街道入口がある。この入口の右手には接待茶屋跡(写真左)がある。江戸時代箱根を往来する馬や人足、困窮者に飼葉、粥、焚き火などを無料で施したところで、鈴木利喜三郎とその子孫により1970年(昭和45年)まで続けられた。
その少し先の左側には兜を伏せたような形の兜石(写真右)がある。豊臣秀吉が小田原城を攻める時、休憩してこの石に上に兜を置いたとも言われている。もともとは兜坂にあったものが国道1号線の拡幅で現在地に移された。
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石原坂をさらに200mほど下ると、右側に念仏石(写真)と言われる大きな岩と約1mほどの自然石に「南無阿弥陀仏・宗閑寺」と刻まれた碑がある。旅人の行倒れを宗閑寺で供養して建てたものと言われている。
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さらに大枯木坂を300mほど下ると1号線に出ると、歩道上に三島市との境界看板(写真)が現れる。 |
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