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伊豆国三島市 |
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江戸日本橋から三島宿まで112.4km、 三島宿〜沼津間5.9km |
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この区間は2002.3.2に箱根宿から引き続いて歩いた。 三島市は静岡県になるのでここで神奈川県と別れることになる。 ちなみに53次宿のうち静岡県には三島宿から白須賀宿までの22宿と多い。 箱根峠を越えると、箱根西坂はほぼ三島大社まで一直線の坂道で 歩く足取りは軽快であったが、逆に京都から江戸へ旅する人には さぞかし辛い坂道であったであろうと思う。 さて唄で有名な三島女郎衆の町に来て興味深々であったが、 どうもこの町には女郎は存在しなかったようで・・? もう日暮れが近く沼津へ急いだが、道中カメラのフラッシュが十分でなく 見にくい写真になってしまいお詫びをします。 |
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三島市境界→山中新田→三島市街→清水町→沼津市境界 |
三島宿:日本橋から11番目の宿。三島宿は箱根八里を控える宿場として重要な役割を果たすとともに、伊豆半島の文化、産物の流通の中心という役割も果たしていた。町には富士山の雪解け湧水が豊富な水量で幾筋も流れている、まさに水の町といってよい。 本陣:2、脇本陣:3、旅籠:64、人口:4,048人 | |
箱根峠を越えて西坂道の大枯木坂、小枯木坂を駆け下ってくると、国道1号線に出る手前の曲がり角の右側に雲助徳利の墓(写真)があり、多分酒の入っている徳利が脇においてある。墓の上にその謂れが記載されていて要約すると次の通り。「大酒飲みで事件を起こして西国大名の剣道指南役を追放された松谷久四郎が、箱根で雲助の仲間になった。彼は雲助をいじめる武士をこらしめたり、文字書きのできない雲助達に手紙を読んだり書いてあげたりしているうちに、雲助達の親分以上に慕われるようになったが、大酒で命を縮めてしまった。雲助仲間は立派な墓をたてて生前飲み続けた酒を、盃と徳利で刻んで供養した」 この墓は最初は山中の一里塚にあったという。 なお「箱根の雲助」は流しのタクシーのようなもので、箱根の坂を登れない弱い女性や病人の重い荷物などを運んでやっていた人足達で、決して後世言われているような悪人ではなかった。雲助の由来は、フンドシに尻尾をつけて(箱根山の)雲の上にいる人間でないもの、からきているという。 | |
雲助徳利の墓を見て道なりに左に曲がると国道1号線に出るので、山中新田歩道橋を渡って反対側へ横断し左へ歩くとすぐ山中城本丸跡への登り口になる大鳥居(写真)が右上にあるがその前を素通りする。 | |
数分歩いて右手の細い道に入ると突き当たりに宗閑寺(写真)がある。当寺は静岡市の華陽院の末寺で現在は無住職である。正面左側の境内には山中城落城で死亡した城主松田康長は始めとする北条軍、豊臣軍の敵、味方の武将の石碑が恨みを忘れたようにひっそ並んで佇んでいた。また隠れキリシタンの墓があるといわれているがわからなかった。 | |
1号線に戻りまた5分ほど歩いて、山中城跡入口の案内板に従い右手の細い道に入ると、突き当たりたの山中城入口にたどりつく。入口には城の本丸の守護神として祀られて諏訪駒形神社があり、境内には推定樹齢500年、樹高31.5mという雄大な矢立の杉がある。なお矢立の杉の由来は出陣の際、杉に矢を射立て勝敗を占ったことから来ている。 山中城(写真左)は本丸と岱崎出丸とでなりたち、小田原城の北条氏が1558年から1570年の長年かけて築城したと言われる中世最末期の山城である。箱根山西麓580mの高さに位置する自然の要害に囲まれた城で、北条氏にとっては西方防備に拠点として重要な城であった。しかし豊臣秀吉の圧倒的大軍で1590年(天正18年)3月29日早朝から始まった激戦も、秀吉の朝食が終わらない昼過ぎのわずか半日で落城したという。十数年かけて作った城がたった半日で消滅するとはなんとむなしいことであろう。 以降小田原城落城とつながり、北条一族は滅びることになる。 三島市では昭和48年から発掘調査を行い、山城の全容を明にして史跡公園化をはかった。発見された障子掘や畝掘は水のない空堀の底に畝を残し敵兵の行動を阻害するという、北条流の築城術を示すものとして注目されている。田尻池(写真右)は山城の重要な水瓶の存在であったが、写真に見るように今でもきれいな水をたたえて目を楽しませてくれている。 | |
山中城跡から1号線に戻り数分あるくと右上に芝切地蔵堂(写真)が見える。このお堂の境内に切り芝を積んで念ずると病気が治るという言い伝えがあり、昔は参拝の人たちが遠く三島町まで続いたという。さらに少し歩いくと道路の反対側に岱崎出丸跡がある。横断して出丸跡の左側にある石畳の細い道の旧東海道をただひたすら下って行くが、余りにも長い下り坂で膝を傷めてしまう恐れがあり用心しなければならなかった。 | |
700m程下って1号線を横断する場所にくると「霧しぐれ 富士を見ぬ日ぞ 面白き」と刻んだ芭蕉の句碑(写真。昭和53年建)の立つ富士見平に出る。ここからの富士山は大変美しかったはずであるが、半年たった今残念ながらが思い出すことは出来ない。 | |
1号線を横断してさらに上長坂を1kmほど下って行くと再度一号線に出るが、ちょっと手前の左側に笹原新田一里塚碑(写真)がある。ここは江戸日本橋より27里の一里塚となる。 | |
1号線に出て横断するとこわめし坂と呼ばれている下長坂(写真)になる。こわめしの由来は、あまりにも長い急坂のため背負った米が汗と熱で「強飯(こわめし)」が出来たといことから来ている。写真ではどうもうまく表せないが、実際には約30度程度と思われる急勾配であるが、現場では直角ではないかと錯覚を覚えるほどのきつい角度である。これが数百mも長々と続いていく。昔の旅人は箱根を越す時は草履を10足用意したというが、何しろ険しい坂道ばかりで損傷が激しいということもそうさせたのであろう。 | |
下長坂を1km弱下って行くに従いだんだん坂が緩やにかなり、いかにも里へ出て来たという感じがし始めると右側に松雲寺(写真)が現れる。当寺は江戸時代東海道を往還する西国緒大小名の休憩所となったり、幕末は徳川一門の寺本陣ともなったところで有名である。 | |
松雲寺から約3kmほど歩くと1号線に出る。その左のコーナーに箱根路と刻まれて大きな石碑(写真)が置いてあるが、これは昭和43年に三島出身の倉島延三氏が旧東海道が忘れ去られるのを惜しんで建てたものである。 | |
ここから1号線に合流して松並木が続く石畳の側道のゆるい下り坂を500m程歩くと、日本橋から28番目の錦田の一里塚(写真)がある。この一里塚は復元したものでなく国道を挟んで両側に残っている珍しいものである。さらに愛宕坂を経て1.5kmほど歩くと大場川にかかる新町橋にたどり着く。ここで箱根の下り坂は終わりということになる。江戸時代はこの橋の手前に目付があって、川を渡って三島宿へ入った。 | |
新町橋を渡って三島宿に入って5分ほど歩くと、右側に立派な大鳥居があり参道の奥には三嶋大社本殿(写真左)がある。三嶋大社は伊豆一ノ宮で道中の安全の守り神として旅人の尊敬を受けていた。現在の本殿は明治2年に再建されたもの。またこの社で源頼朝が源氏の再興を祈願し成就したことでも有名で、将軍、執権の参拝がたびたび行われ、そして東海道に面していたため多くの参拝者も集めた。本殿右には樹齢1200年の国指定天然記念物のキンモクセイ(写真右:但し後日撮影したもの)がある。この樹木は根周り約3mで、高さ約1mのところで2大枝幹に分かれ、枝は円形に展開しその先は地面に届くほど垂れている雄大な姿をしている。 | |
三島大社を出て市街地を少し歩くと、右側の歩道のいかにも由緒ありそうなそば処の前に世古本陣跡碑(写真)があったが、写真は夕方でちょっと見にくいかもしれない。 | |
そのまま市街地を数分歩いて行くと、左手のちょっと奥まったところの三石神社境内に時の鐘(写真)がある。江戸時代の寛永年間から時を告げる鐘として親しまれていたもので、鐘は第二次大戦で供出されて消失したので、現在の鐘は昭和25年に再興され、鐘楼もコンクリート製になった。 | |
さらに数十m行った右側の奥まったところにある連馨寺境内に1778年(安永7年)建の芭蕉老翁墓(写真)があるが正確には供養碑である。 | |
連馨寺を出るとすぐ右側に伊豆箱根鉄道の三島広小路駅があり、そこで道は分かれる。左手の方へ進んで住宅街を700m程行って千貫樋バス停をちょっと過ぎた右側歩道に均整のとれた美しい姿の常夜灯(写真)がある。この灯の両側に秋葉大権現と富士浅間宮の火を鎮める神様が刻まれていて、1846年(弘化3年)に建立されたもの。この常夜灯あたりから三島市から清水町へ入ることになる。 | |
さらに700m程交通量の激しい道を歩いて行くと、左側の宝池寺門前に江戸から29番目の伏見一里塚(写真)がある。この塚は近年復元されたものであるが、道路の反対側にある玉井寺境内にある塚は原型を留めているという。 | |
さらに800mほど歩くと右に八幡神社がある。境内は広く奥まったところの社殿の左側に対面石の案内板と二つの石(写真)がある。この対面石は案内版によると、1180年(治承4年)10月、平家の軍勢が富士川まで押し寄せて来たとき、源頼朝が鎌倉からこの地に出陣してきて、奥州からかけつけて来た義経とここで対面し、源氏再興の苦心を語り合い、懐旧の涙にくれたという。この対面のとき兄弟が腰をかけた二つの石を対面石という、とある。この時点ではまだ4時を過ぎたばかりであったが日暮れも早く辺りは暗く、この夜景写真のようになり鬼気迫るものを感じてしまいそうである。 | |
八幡神社をでるとすぐ黄瀬川(写真)に出る。この川を渡ると沼津市に入る。 | |
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