駿河国沼津市
沼津宿
から原宿へ
江戸日本橋から沼津宿まで118.3km、 沼津宿〜原宿間5.9km。
            
この区間は、2002.3.2日の箱根越えの延長上で歩き、沼津市街で宿泊して3.3日引き続き歩いた。
三島から沼津へ入る頃はもう日が暮れてしまい、暗くてもう見えないほどであったが、
何しろ距離を稼がないといけないということで無理をしてしまった。
  
三島境界沼津市街地沼津市今沢

沼津宿:日本橋から12番目の宿。江戸時代の沼津宿は、伊豆地方の物産を江戸などへ輸送する港として重要な役割を果たしていた。また漁業も盛んで、鯛や平目などの漁船を30艘ほども操業をしていたという。
狩野川には架橋されていないため、渡船で往来していた。沼津市は大震災、大火や空襲などで市街地には宿の面影をあまり残っていない。
 本陣:3、脇本陣:1、旅籠:55
人口:5,364人
   
 富士山や愛宕山から流れ出た水が合流した黄瀬川を渡って500m程行った右側の潮音寺境内には亀鶴姫の碑(写真)がある。亀鶴姫は以前亀鶴観音寺の本尊として曽我兄弟の仇討ちに登場する黄瀬川宿の遊女で、同寺が廃寺になった明治12年にこの潮音寺に移された。
      
 潮音寺から少し行くと県道と合流し、そこから600m行くと分かれ道になるので左手が旧東海道となる。さらに狩野川を左にして500m行くと黒瀬橋を渡る道をクロスした直後の左側に小さな平作地蔵(写真)ある。案内板によると樹瑠璃「伊賀越道中双六」に登場する沼津の平作のゆかりの地である。「ここで茶店をしていた亭主の平作が、通りかかった旅人の重兵衛から娘お米の夫の仇河合又五郎の行方を聞き出すが、なかなか口が堅かったため、腹を切って頼んだ。重兵衛は平作の心にうたれ独り言の形でお米に又五郎の行く先を教えた。お米からこの情報を聞いた渡辺数馬は義兄の荒木又右衛門の助太刀を得て、首尾よく本懐を遂げた。」という日本三大仇討ちの一つとのこと。(写真が真っ暗で何が何だか判からないことお詫びします。)
 そして平作爺さんの義挙は人々の心をうち、茶店のあったところに地蔵堂が建てられた。

    
 地蔵から約300m行くと県道と合流し沼津市街(写真)に入る。腕時計を見たら午後5時40分で辺りは暗く既に赤い灯がまばゆく目に写った。今日はこの辺で宿泊場所を探すことにした。
 昔は旅人は一人では泊めてもらえなかった。それは万が一何かがあったり、また死んだりしたら旅籠や葬式の費用を立て替えてくれる人がいないからである。 しかしこの現代においても最近まで女性一人の宿泊はダメなどというわけのわからないことが通っていたようであるが、さすがに今はないのではないだろうか。
 それはともかくひとまず沼津駅前まで行き、宿泊情報を集めた。そして電話帳に半ページの広告を出しているビジネスホテルが安くて、かつ翌日の歩き始めに都合がよかったので電話で予約した。駅前商店街の一番はずれにあるホテルであったが、とても私の気に召すようなホテルではなく、わずか2千円をケチったことを後悔しながら、翌朝を迎えた。

   
 3/3ホテルを朝8時に出発したが、この日は曇りで風がありとても寒い日であった。ホテルの近くのコンビニで買ったおにぎり三個と缶ビールを震えながら食べて飲んで歩き時間を稼いだ。
 ホテルから狩野川沿に歩くと、御成橋手前の
沼津東急ホテル(写真)のショーウインドーに三枚橋城外掘石垣(写真)が展示されている。沼津城の前身は戦国時代末期に武田氏の武将・香坂源五郎が、狩野川河口のこの地に築いた三枚橋城である。多分東急ホテル辺りが外堀であったのであろうが、現在は城を想像させるものはまったくない。
   
 御成橋を過ぎ永代橋の袂から右に曲がって100mほど行った左角に乗運寺(写真左)がある。
この寺の門前と
境内(写真右)を見てとてもきれいで本当にびっくりしてしまった。それもそのはずで門前の石碑(写真左の右下)に刻まれた案内によると「都市景観賞」を受賞している寺とのこと。
これほど整備されいるとやはり人の目を十分楽しませてくれる。なおこの寺は明治・大正の歌人若山牧水の菩提寺となっている。牧水は宮崎県出身であるがこの沼津を愛し1920年
(大正9年)から1928年(昭和3年)に没するまで創作活動を行うとともに、千本松原の伐採計画反対住民運動に精力的に取組んで地元の人々に愛された人でもある。
   
 乗運寺からは、ほぼ一直線の道をに原宿に向かう。道路左側を500m程離れたところには駿河湾があり、静かな松原が延々と続いている有名な景勝地であるが時間の関係で一目も見ることが出来なく心残りとなっている。
 乗運寺から1.3kmほど行くと
富士清水線と斜に交差するところ(写真)に出るので、歩道橋を渡って右の道路を進む。なお写真正面の三角地帯に旧東海道・千本街道道標がある。
   
 交差点から400m行った右側の村社八幡神社の境内に面した高台に沼津藩領榜示杭(写真)がある。この杭は1777年(安永6年)に水野出羽守忠友が沼津城を築いた時に、領地の西境を榜示する杭を設置したもので、「従是東 沼津領」と刻まれている。なお東境の杭は黄瀬川を渡ったて来た潮音寺近辺にあり、高さ2.12mの石杭でこちらは当時のままの姿で残っている。
   
 さらに約500m行った小諏訪バス停を少し過ぎた左側にユニーク姿のな正覚寺(写真)見える。
このままほぼ直線の道路を約2.5km行くとJR東海道本線を横切り原宿へ入る
..   
ホームページ
トップへ
ホーム
 東海道53次
トップへ
 
次の宿へ

  
   
   
   
..