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遠江国浜松市
浜松宿
から舞阪宿へ
江戸日本橋から浜松宿まで252.7km、 浜松宿〜舞坂宿間11.1km、
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この区間は、2002.3.16にJR浜松駅前から舞阪へ歩き、その後2002.3.31に天竜川橋からJR浜松駅まで歩いた。
天候はいずれも寒かったが、晴れていた。
天竜川は諏訪湖に源をもつ「あばれ川」と言われ、洪水でしばしば大きな被害を及ぼしていたが、
現在の水量は他の川と同じように通常は少なく、とてもそういイメージではなかった。
浜松市天竜川橋→浜松アリーナ→浜松駅前→若林一里塚→篠原交差点→舞阪宿へ

浜松宿:浜松宿は城下町であり東海道最大規模の宿として栄えたが、太平洋戦争による空襲や艦砲射撃で町の殆どが焼けてしまった。浜松城は徳川家康が築城し、地名もそれに合わせてそれまでの引間から浜松に変えた。また浜松城は徳川家康が三方原の戦いで武田信玄に敗れて、命からがら逃げ帰った城としても有名である。
浜松城には天守はもともと無かったが、現在ある天守は昭和33年に模擬天守として作られたものである。
 本陣:6 脇本陣:0 旅籠:94 人口:5,964人

   
 天竜川にかかる天竜橋をタクシーで渡ると、そこは浜松市であった。
橋の袂で降りて、左折して天竜川の堤防上を下流へ歩いて行くと右手に
船橋之記碑と天竜川木橋跡碑(写真)が並んでいる。これは対岸の碑と対をなしているもので、明治7年明治天皇が東幸の際架けられた船橋と、明治9年に架けられた本格的な木橋を記念した跡碑である。
    
 さらに行き左の護岸に張り出している、天竜川水位観測所(錆止色鉄橋の先端)(写真)のあるところから天竜川を見ると、全面に河川敷が広がっていた。
   
 橋から150mほど行くと旧東海道は右折して堤防を下り、さらにすぐ左折して六社神社(写真)前を通る。この六社神社は1276(建治2)年の尾張国中野郷より勧請したものという。
    
 神社から西へ直進して約1kmの右に黒板塀に囲まれた金原明善の生家(写真)がある。金原明善は、「暴れ天竜」称された天竜川のたび重なる氾濫で犠牲者が出るのを見て、反対する時の明治政府を説得し私財をなげうって20数年の歳月をかけ、明治33年に天竜川堤防工事を完成させた人である。
東海道を歩いていると、こういう私財をなげうって人のために役立たせたという話をよく目にしる。 
 少なくとも江戸時代までは、恵まれない人々のためにお金を惜しみなく施したことから、金持ちはとても尊敬されていたという。今を見ると、金持ちはますます金亡者になりきって、金集めだけを生きがいのようにしているように見えてしまうのは、金のない私のひがみなのかもしれない。
道を挟んで反対側には明善記念館がある。

    
 明善生家から、国道152号線を南西へ浜松バイパスのガードをくぐり、浜松アリーナの前を通って約3km行くと十字路の左コーナーに子安神社(写真)がある。この神社は土地の庄屋の伊藤家の祖先が、1635(寛永12)年に浅間神社から分霊して祭ったのが始まりであるが、源範頼が娘の無事出産を願って創建したという伝説もある。
    
 十字路をまっすぐ行き芳川にかかる琵琶橋を渡ると右手に、参道入口に蒲神明宮の大鳥居(写真がある。
    
 さらに500mほど行くと右に、1730(享保15)年12月浜松城主であった松平信祝の娘が、東海道の旅中て急病で亡くなり葬られた龍梅禅寺の石柱と山門(写真)が見える。
   
 そこから152号線を進み左側の浜松東警察署の建物から20mのところに、江戸日本橋から65里の馬込一里塚跡標示(写真)がある。
    
 さらに300mほど進むと馬込川にかかる馬込橋(写真)にくる。この橋は浜松宿の東番所があったところで、ここから浜松宿ということになる。
    
 橋から100mも行かないところに松江交差点信号があり、渡って左コーナーに東海道浜松宿入口の標識(写真)がある。空き地の向うに見える高いビルは、JR浜松駅前に建つアクトタワーでどこからも目立っていた。さらにまっすぐ西進して行くと浜松の商店街に入るが、商店街から以降は2002.3.16に既に歩いていたので、この日(2002.3.16)はその地点で終了としてJRで横浜に引き返した。
   
 2002.3.16JP浜松駅に12時過ぎに到着して、数百m北へ進んで旧東海道にたどり着き、そこから左折して商店街の中を西へ行った。
 約500m歩くと連尺町交差点の左こーナーに
東海道道標(写真)があり、浜松から豊田境界まで28町、舞阪まで2町8里、とある。
   
 旧東海道はこの交差点から左折であるが、ちょっと寄り道して右折して北へ向かい浜松城(写真左)を訪れた。浜松城は家康によって築かれ、それに合わせて地名も引間から浜松と改められた。またこの城から家康をはじめ水野忠邦など老中に出世するの者が多数輩出したので、出世城とも言われていた。天守はもともと無かったものを、昭和33年に模造として作ったものである。城址公園には徳川家康の銅像(写真右)がある。
   
 もとの交差点に戻り左折すると、旧東海道で現在は国道257号線となる。
この通りには本陣跡が多く、交差点から200mほどの右に
杉浦本陣跡の標示(写真)がある。
   
 国道257号線を道なりに西南へ進みJR旧東海道線を越えて森田町交差点を直進して、杉浦本陣から約2.5kmのところに小さな川にかかる小さな鎧橋(写真)がある。平安時代(800〜900年前)戒壇設置のことで、比叡山の僧兵が鴨江寺を攻めたとき、鴨江寺側の軍兵はこの辺一帯の水田に水を張り、鎧を着てこの橋の守りを固めて戦ったので、その後鎧橋と称したという。
   
 少し行くと、左側のガソリンスタンド脇に江戸から66里の若林一里塚(写真)がある。
   
 さらに進んで行くと三叉路になり、そこには二つお堂(写真)がある。京都に滞在していた奥州平泉の藤原秀衡が大病ということで、京都へ上る途中ここで秀衡死亡との誤報を聞いた愛妾が、その菩提を弔うために北のお堂を建てて没した。一方京都の秀衡は病が回復し帰国の途中ここでその話を聞いて、愛妾へ感謝をこめて南のお堂を建てたという。
   
 三叉路の右手の道を西へ2.5kmほど行くと、右歩道脇に堀江領境界石の標示(写真)がある。1705(宝永2)年に、高松村は堀江領となったが、増楽村以東は浜松領であったため、領地の境界を示すために両村の境に境界石をおいた。西が堀江領で東が浜松領であった。
   
 さらに歩くと、右に麦飯長者跡の標識(写真)がある。昔旅人に麦飯を喜捨し、麦飯長者と呼ばれていた小野田五郎兵衛という長者がいた。若くして亡くなった五郎兵衛の息子夫婦の幼い4人の孫娘に、悲しさを紛れさせるため五郎兵衛は法華経の筆写を教えた。3年もかけてひらがなで書かれた幼い娘たちの写経を、たまたま見た当時の最高の名僧白隠がこれに感動して「八重葎(やえむぐら)」を著した。そして小野田五郎兵衛が、1759(宝暦9)年に出版した。
   
 境界石から単調な道を約1km歩くと、篠原の三叉路になる。コーナーにある旧東海道の標識(写真)に従い、右の狭い2車線の道を行く。
   
 三叉路から100mほど行くと、左側に立場本陣跡碑(写真)がある。
   
 この道は秋葉山常夜燈、秋葉灯籠(写真左、右)が数多く次々と設置されている。ただ不思議なことに全て道の進行方向の右にある。
 立場本陣から約4.2km歩くと、そこは浜松市と浜名郡舞阪町の境界となり、舞阪宿へ向かう。
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