テスト
遠江国浜名郡舞阪
舞坂宿
から新居宿へ
江戸日本橋から舞坂宿まで263.8km、 舞坂宿〜新居宿間5.6km
この区間は2002.3.16に浜松宿に続いて歩いた。天候はよかった。
浜松から舞阪に入ると旧東海道は浜名湖岸壁までの約1.8kmまっすぐの道で、
絶対に道に迷うということはない。
昔はその突き当たりの岸壁から今切の渡しと呼ばれる渡船で対岸の新居宿へ渡っていたが、
現在は船はなく、少し北側に東海道新幹線と平行して走っている
国道1号線で荒居町へ歩くことになる。
浜名湖は昔は淡水の湖であったが、
1498(明応7)年の大地震の津波で太平洋の遠州灘の接する箇所決壊して海と湖水が通じ、
さらに1511(永正7)年の大津波でその間が広まり、今切という地名の名前が生まれた。
ちなみに琵琶湖は淡水で「淡海(あふみ)」であり、
都に近かったので「近江(あふみ)」と書き、浜名湖も「淡海」であったが、
都から遠かったので「遠江(とおたふみ)」と書いた。
舞坂町東海道松並木舞阪宿浜名湖東護岸(国道1号線)弁天島荒居町へ

舞阪宿:舞坂は古くから宿が置かれ、戦国期には今川氏の支配下ですでに伝馬が行われていた。
その後遠州を支配した徳川家康は新居宿を重用し、浜名湖の今切渡船の運営権を舞阪宿には認めず新居宿の独占とした。
そういうことが尾を引いて境界争いなどで両宿の争いがよくあっという。
舞阪の象徴ともいえる浜名湖に浮かぶ弁天島は、1498(明応7)年の大地震で島となったところで、1709(宝永6)年に今切り渡船の安全を祈願して弁天神社が建てられてから、弁天島と呼ばれるようになった。
舞阪宿の産業は江戸j時代は海苔の養殖で、明治32年以降はうなぎ、すっぽんの養殖が盛んになった。
また弁天島も明治20年代から海水浴を中心とした観光地にもなっている。
 本陣:2、脇本陣:1、旅籠:28、人口:2,475人
     
 浜松市から舞坂町へ入るとすぐ右手にJR舞坂駅があり、その先の右側に東海道舞坂標識(写真右)があり、浜松宿境界2里20町 10km、舞坂宿境界八町 0.9km とある。前方には約700mにわたり大小340本の東海道松並木(写真左)が続く。北側(右側)の松の木に間には、十二支の石像が進行方向からそれぞれ子、牛、虎、・・・の順に並んでいる。南側の並木は東海道53次の各宿場の銅板が設置されている。
 松並木の中ごろには、舞阪橋跡標示(写真)がある。ここには江戸時代舞坂宿で唯一の舞坂橋がかかっていて、北にある西長池から松並木を横切って昭和10年頃まできれいな水が流れていた。
 松並木の終わりの3角コーナーに波小僧像(写真)がある。むかし遠州灘で地引網にかかった真っ黒な小僧を漁師たちは気味悪がって殺そうとしたところ、小僧が「私は海の底に住む波小僧です。命だけは助けてください。その代わりご恩返しに海があれたり、風が強くなったりするときは、海の底で太鼓をたたいてお知らせします。」といいました。そこで小僧を海に戻してやって以来、天気の変わる時波の音がするようになったと伝えられている。(遠州七不思議)
 さらに斜めに交差する国道1号線を横断すると両側に、見付跡の石垣(写真左、右)がある。ここは舞阪宿の東側に入口になり、大名が通行のときなどには六尺棒を持った番人が立ち、人馬の出入りを監視するとともに、治安の維持をあったところである。この石垣は1709(宝永6)年には既に地図に存在していたと古いものである。
i 石垣のすぐ先の左の民家に挟まれた小さな空地に、手前に秋葉常夜灯と奥に江戸日本橋より67里の舞阪1里塚跡碑(写真)がある。江戸時代舞阪宿はよく火災に見舞われ特に1809(文化6)年には宿の大半を焼く大火災で、復興も困難をきわめた。それで1815年人々の火防の願いをこめて建立されたのが、この常夜灯である。常夜灯の正面には秋葉大権現、西面に津嶋牛頭天王、南面が両皇大神宮が彫られている。
 舞坂の町並(写真)。町並みは一直線で短く700mほどで、浜名湖に到達する。
 さらに進んで行くと、浜名湖護岸近くで道が丁字路になる手前の右手に舞坂宿本陣跡石碑(写真)がある。
 その斜め前方の左側に、舞阪宿脇本陣(写真)がある。脇本陣は、通常は旅籠で営業して大名行列などが重なったりして場合などに本陣を代行して宿泊させていた。各宿に1軒は置かれていて、本陣にはみることができない2階建てのものが多い。舞坂の脇本陣は1838(天保9)年に建築で屋号は茗荷屋であった。平成3年に舞坂町所有となり、建築時の姿をとどめる書院棟を解体修理するとともに、主屋、繋ぎ棟なども復元して平成9年に完成し、公開している。旧東海道宿駅の中で唯一の脇本陣の遺構として貴重な建物となっている。その建物内の一部(写真)を入り口から見た。
 そして前方には、浜名湖の穏やかな水面(写真)が見えた。
 道は丁字路になっていて突き当たりの右端に中雁木跡(写真左)、そこから浜名湖を見ると遠くに湖中の鳥居(写真右)が見える。丁字路を左へ約200mの地点に南雁木(荷役場)がある。
右へ約200m行くと道の左の空き地に北雁木跡(写真左、右)がある。
雁木とは:浜名湖に面した舞坂宿と新井宿を連絡する、「今切の渡し」の船の渡船場を雁木と呼ばれ、水際に面して石垣が階段状に積まれていた。舞浜宿には1657
(明暦3)年から1661(寛文元)年にかけて、北雁木、本雁木、南雁木の3箇所が建造されたが、現在は北雁木に石垣が残るのみとなっている。北雁木は身分の高い武士、公家用、本雁木は武家用、南雁木は庶民、荷役用という使い道であった。
 さらに道の反対側には、那須田又七顕彰碑とその説明板(写真)がある。那須田又七は江戸時代の舞阪宿の名主で海苔の養殖の基盤を作った人で、その業績を称えて1858(安政5)年に顕彰碑が建立された。ただその後東海道線が開通した明治32年以降は海苔に代わり、うなぎ、すっぽんの養殖がはじまり大発展をとげることになる。
 江戸時代は舞浜宿から次の新居宿へは今切の渡し船で浜名湖を渡ったが、今は渡船がないので旧東海道はここで途切れることになる。
 現在は、新居町とは陸続きになっていて、東海道新幹線と平行して国道1号線も走っているので、その道を歩いた。
 舞阪宿を後にして、前方に見える弁天橋(写真)へ向かった。
弁天橋(写真)
 弁天橋を渡り、左の浜名湖に面した弁天島から見た鳥居(写真)
 弁天島から見た、浜名湖の対岸の遠州灘との境界にかかる浜名バイパスの浜名大橋(写真)
弁天島から振り返って見る、とてもカラフルな弁天橋(写真)
 弁天島の一角に弁天神社(写真)がある。この神社には次のような伝説がある。昔弁天島のこの辺りは砂洲が新居の橋本まで続き、白州青松「天の橋立」のような風景が広がっていた。その美しさに誘われて天女が舞い降りてきたきたが、村人の願いにもかかわらず、天女はその後駿河の三保の松原に立ち去った。それから長い年月を経て、この辺り一帯は大きな災害に見舞われ、州崎の一部であった弁天は海に取り残されて島となった。そのため舞阪と新居の間は渡航で行き来するようになったので、江戸時代の1709(宝永6)年に、渡海の安全を祈ってこの島に天神神社が建てられた。
神社を過ぎると右手にJR東海道本線弁天島駅(写真)が見えるので、もうすぐ舞阪町から新居町に入ることになる。
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