相模国平塚市
 平塚宿
から大磯宿へ
江戸日本橋から平塚宿まで62.6km、 平塚宿〜大磯宿間2.9km
    
この区間は2002.2.12日に戸塚宿からの延長で歩いた。
旧東海道は相模川にかかる馬入橋を渡って馬入交差点信号で1号線と別れてから、
平塚市街の駅前商店街の真中を抜けて行き、大磯町との境界近くで、
また1号線と合流する経路をたどる。
茅ヶ崎市駅前塚市→大磯町

平塚宿平塚は北条氏の築城で発展した町で、相模川を利用した物資の集散地や、東海道や中原往還、八王子街道の交通の要所として栄えた。
 本陣:1、脇本陣:1、旅籠:54、人口:2,114人
   
 茅ヶ崎駅前信号から国道1号線と合流して西へ1.7kmほど行き、千ノ川にかかる鳥井戸橋を渡ると左隅に南湖の左富士の碑(写真)がある。
  
 南湖の左富士の由来:安藤広重は天保3年
(1832)に東海道を旅し、後続々と東海道53次に風景版画を発表した中の一枚に南湖の松原左富士がある。東海道の鳥井戸橋を渡って下町屋の家並の見える場所の風景を写し、絵の左には富士山を描いている。東海道のうち左手に富士山を見える場所はここと吉原(静岡)の2ヶ所が有名。昔から茅ヶ崎名所の1つとして南湖の左富士が港間に知られている。ただし当日は真っ青な青空であったが、何故かどの方角にも富士山を見ることが出来なかった。
   
 左富士の碑の道路の反対側を見ると、青空に朱色が艶やかに映える鶴峰神社の鳥居(写真)が見えた。鳥居の奥には600mほど長い松並木の参道があり、鳥居から1km地点に鶴峰八幡宮の社殿がある。
 国道1号線に合流して更に西北へ歩くと、小出川にかかる鏡橋に出る。橋の南側には、鎌倉時代ここに旧相模川が流れていた時に架けられた、巾7.2mの大きな旧相模川橋脚が7本あるが、残念ながら道路の反対側であったため近くに横断歩道がなく見ることは出来なかった。

    
 鏡橋からさらに1.1km行くと茅ヶ崎市と平塚市の境界になる。さらに300m行ったところが、相模川にかかる馬入橋(写真左)である。この橋は500mくらいの長い橋で、歩道から左手の川下や右手の山並み写真右)を眺めながら歩いた。ただ残念ながら360度ぐるりと見渡しても、ここでも富士山を見ることができなかった。
   
 馬入橋を渡って少し歩くと馬入信号で道は分岐し、右手は国道1号線、左が旧東街道でそのまま左手を歩いて行くと、丁度信号から1lmの地点に平塚駅前交差点信号に来る。左手にJR平塚駅がみながら直進し駅前商店街の真中を歩いて、三ッ目の信号を左に入ってすぐのところの紅谷町(晴曇寺跡)公園の片隅に、ひっそりお菊の塚(写真)がある。芝居で有名な「番町皿屋敷」のお菊の墓がここにあったということで、昭和27年にその碑が建てられたものである。碑は誰の目にとまらない正にその一角にあり、それに周りは自転車置き場として有効に使われていて、写真を撮るにとれない状態で撮ったため碑が傾いてしまた。
 番町皿屋敷:平塚宿役人真壁源右衛門の娘お菊
(24才)が行儀見習のため江戸の旗本青木膳邸に奉公に上がっていた。運悪く主人愛用の皿を割ってしまい、手打ちとなったという有名な悲しい話。
    
 再び旧道へ出て少し歩くと、右側に平塚宿東側の入口の江戸見附跡の碑(写真)がある。
 見附とは:見附は本来城下に入る門を示す「城門」をいい、城下に入る人々を監視する見張り場の役目を持っていた。従って、宿見附も宿の出入り口を意味すると同時に、宿を守る防御施設として設置された。また見附は必ずしも宿境
(宿境は傍示杭(ぼうじくい)で示す)を意味するものではなくて、見附から正式に宿内であることを示す施設であった。さらに宿と宿の距離はこの見附を基準とした。一般に江戸側出入り口にあるものを江戸見附、京側にあるものを上方見附と呼ぶ。また東海道に直角に位置するように設置され、土台部は石垣で固め、土盛りされ頂部は竹矢来で組まれていた。
 平塚宿の見附は、規模は長さ3.6m、巾1.5m、高さ1.6mの大きさで、江戸見附と上方見附の間は1.5kmあり、その中に本陣、脇本陣、東西の問屋場2箇所、高札場,旅籠などがあり、200軒を越える町並みが続いていた。

   
 見附跡の碑の同じ並びに脇本本陣跡碑(写真)ある。
   
 さらにその先に、幕府の法度や掟などが書かれた札を掲げた場所の高札場跡碑(写真:)がある。
 高札場とは:高札とは、切支丹禁制や徒党の禁止など幕府や領主の法令通達を書き記した木の札で、その高札を掲示した場所を高札場といい、各宿場や村々に設けられた。通常土台部分を石垣で固め、その上を柵で囲んで高札が掲げられる部分に屋根がついていた。
 平塚の高札は場の大きさは長さ5m、横1.8m、高さ3mであった。

   
 高札場跡から次の信号を右に入り150m行った先をさらに右に入ると、日蓮大聖人御一泊 御説法霊場と記された松雲山要法寺(写真)がある。
 松雲山要法寺縁起
(案内板抜粋):鎌倉時代の幕府の執権北条泰時の次男泰知は、この地において地頭をしていた時、「日蓮上人が9月16日に平塚にご来臨される」という七面天女のお告げを受けて、平塚の人々とともに日蓮上人を出迎え、この地に宿泊された。その夜日蓮上人が法華経のご説法したところ、邸内にあった平 真砂子の塚(平塚の塚)にそびえ立つ老松に、紫雲たなびくという端相が現れた。それを見た一座の面々は法華経の信者になったという。また感動した泰知は自らの館を献上して当寺を開山した。時は弘安五年(1282)
   
 要法寺の西隣に平塚の塚(写真)があり、、平塚の地名の由来となった塚といわれている。。
 平塚の塚の由来:江戸時代に編さんされた「新編相模の国に風土記」に、「桓武天皇の3代孫、高見王の娘政子が東国へ向かう旅をしていた折、天安元年(857)2月この地で逝去した。柩はここに埋葬され墓として塚が築かれた。その塚の上が平らなったので里人はそれを「ひらつか」と呼んできた」とある。これが平塚という地名の起こりとなった.。

   
 平塚に西側道路に隣接してお初の墓(写真)がある。
 このお初は加賀見山旧錦絵という歌舞伎で活躍する「鏡山お初」のモデルで、本名「たつ」の墓であると伝えられる。おたつは平塚宿の松田久兵衛の娘で、荻野山中藩大久保長門守の江戸屋敷中揄ェ本みつ女の許に奉公に上がっていた。主人みつ女が年寄沢野から侮辱を受けて自害したため、ただちに沢野を訪れて主の自殺した小脇差で仇を討ったという列女で、後に賞せられて年寄りになっと伝えられている。

   
 再度旧東海道に戻り、西へ300mほど行くと国道1号線にぶつかる。合流して西西北へ100m行くと平塚宿の京方見附の跡碑(写真左)が左の三角地帯にある。
 そこから前方を見ると、
大磯町との境界の看板(写真右)が見え、次は大磯宿となる。
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