相模国中郡大磯町
大磯宿から小田原宿へ
江戸日本橋から小田原宿まで65.5km、 大磯宿〜小田原宿間15.6km
              
こは他の宿より早く2002.1.6日に歩いた。まだ寒い日であったが天候には恵まれた。
旧東海道は金目川から中村川間で基本的には1号線に合流しているが、
4箇所で延べ計3kmほど1号線から離れている。
大磯町→二宮町小田原市

大磯宿:大磯宿の始まりは元和6年(1620)に尾上本陣が置いた宿で、続いて小島本陣、石井本陣ができて宿場の体裁ができた。また化粧坂(けわいさか)や大磯中学校前などに美しい松並木の名残を残している。
二宮町は戦災で全て焼失して殆ど史蹟が残っていない。また二宮町は日本で初めて落花生を栽培したところとしても知られている。
 本陣:3、脇本陣:0、旅籠:66
、 人口:3,056人
 平塚宿の碑を後にし1号線に合流して大磯町に入ると、すぐ金目川にかかる花水橋がある。この橋を渡ると、右手に高来(たかく)山が見えてくる。その麓に高麗から渡来した人々の祖先を祀る高来神社(写真:)がある
   
 高来神社前を通って200mほど行くと、化粧坂交差点信号で道は分岐し、左側は1号線で右側が旧東海道となる。右側を200mほど行くと左側の民家の庭に、曽我十郎佑成の妾虎御前が化粧に使ったという粧井戸(写真:)がある。
   
 美しい松並木の化粧坂を700mほど行くと三沢橋東交差点で再度1号線に合流し、さらに大磯駅前交差点を横断して少し行くと、左側歩道の小路を入ったところに虎御石が安置されている延台寺(写真:大磯1034)がある。
 虎御石の由緒:安政元年
(1175)大磯の山下長者に娘が生まれたが、虎池弁財天に願をかけて授かった娘であったので、虎と名づけた。そして弁財天のお告げの印として小さな石が枕もとにあり、長者は邸内にお堂を建て虎御石として大切にお祀りしていた。不思議なことに虎女の成長とともにこの石も大きくなっていった。やがて舞の名手に成長した虎御前は曽我十郎と恋仲になった。十郎が虎女の家で刺客に襲われたときこの石のおかげで命が助かったので、身替りの石ともいう。その後曽我兄弟は富士の裾野のあだ討ちで本懐をとげ死ぬことになるが、虎御前はこの地で庵を結び兄弟の菩提を弔ったのがこの寺という。
   
 延台寺から右側歩道を少し歩くと、小島本陣跡(写真左)そして小路を挟んで尾上本陣跡(写真右)がある。
   
 本陣の間の小路に入ると正面に地福寺(写真:大磯1135)がある。この寺の境内の左側には「破戒」や「夜明け前」などの小説や「若菜集」詩で有名は島崎藤村の墓が、ひっそりと梅の木で囲まれていた。この寺はもともと墓地のない寺であったが、当寺の梅の花の下で眠りたいという藤村の生前の願いで唯一つ墓を置いてあるという。
   
 地福寺から旧東海道に戻り200mほど行くと、左手に分岐している道のコーナーに、この先200mが海水浴場発祥の地の碑(写真:)がある。ちなみに日本最初の海水浴場は明治18年に陸軍軍医総監松本順基によって開設された。
    
 さらにすぐ先の一段と高くなった三角コーナーに新島 襄先生終焉の碑(写真:)がある。
 新島襄:天保14年
(1843年)、安中藩士の子として江戸・神田に生まれ、21歳で渡米しキリスト教徒となった。帰国後父母の住む安中でキリスト教を伝道し、その後京都で同志社英学校を設立、静養のために来たこの地で47歳でなくなった。なお新島襄の奥さんは函館五稜郭の戦いで、鉄砲隊として官軍と戦った戦士である。
   
 そこから200mほど行くと鴫立沢交差点左側の道路より一段低くなったところで、小さな流れ(鴫立沢)(写真左)を渡ったところに鴫立(しぎたつ)(大磯1278)がある。西行がここで「こころなき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」という名歌を詠んだという。
 寛文4年
(1664)に小田原の崇雪がこの地に五智如来像を運び、西行寺を作る目的で草庵を結んだのが始まりで、元禄8年(1695)俳人の大淀三千風が入庵して鴫立庵(写真右:中庭から写す)と名づけ、第一世庵主となった。門を入ると法虎堂には有髪僧の虎御前の木像、円位堂には等身大の西行像が安置されている。さらに庭には西行歌碑、芭蕉句碑、戸田茂睡歌碑など多数の歌碑があり俳諧が好きな方には必見の庵である。
 湘南発祥の地大磯の由来:崇雪が草庵を結んだときに、鴫立沢の標石をたて「著盡湘南絶地」と景勝を讃えて刻んだのがはじめである。中国湖南省にある洞庭湖のほとり湘江の南側を湘南といい、大磯がこの地に似ているところから湘南と呼ばれるようになった。
(案内板抜粋)
   
 庵から300m程行くと大磯中学前交差点から右に入り路地を曲がりながら行くと、ここで「東方の門」を執筆しながら2年間すごして没した島崎藤村の家(東小磯183)がある。現在は親類の人が管理していて中に入り見学できるようになっている。
   
 また、この交差点あたりから旧東海道の松並木(写真:横断歩道橋上から)が始まり、ついカメラを向けたくなるような美しい並木である。
   
 400m程の長い松並木が終わると、初代首相の伊東博文の旧邸の滄浪(そうろう)が左手に現れる。なおも歩いてからちょっと横道にそれて海岸に出ると、正に逆光に輝く湘南の海(写真)がそこにあった。
   
 大磯中学校前交差点から約1.8km行くと、城山公園前交差点で1号線と別れて右側に入り少し行くと右手に、県立大磯城山公園(写真:)がある。この公園は小磯城跡を整備したもので茶室城山庵、古墳時代の横穴墳墓、もみじ広場、展望台など多数楽しむところの多い広い公園である。
   
 公園を出て1kmほど行くと、国府新宿交差点で再度1号線と合流する。さらに1km行くと二宮町との境界看板(写真:車の上)がある。
  
 二宮町は太平洋戦争で戦災にあい史跡は殆ど消失してしまったということであった。境界からJR二宮駅前を通り1.7kmの神社入口信号から1号線と分かれて右の旧東海道を300mほど行くと右側に、町の天然記念物に指定されているフジの木(写真右)のある藤巻寺(写真左:)がある。
  
 さらに少し行って再度1号線に合流し、川匂神社入口前でふたたび1号線と別れて左側の旧東海道に入る。その直ぐさきの左側に「江戸より18里」の1里塚跡の碑(写真:)がある。ここから押切坂を下って中村川の押切橋を渡ればいよいよ小田原宿となる。
  
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