相模国小田原市
小田原宿
から箱根宿へ
江戸日本橋から箱根宿まで81.1km、 小田原宿〜箱根宿間16.5km
                     
この区間は、2002.1.22日に小田原市のJR国府津駅〜小田原駅間、
2/5日にJR小田原駅〜箱根登山鉄道箱根湯元駅間を歩いた。
ここの旧東海道は、小田原市の中村川にかかる押切橋から
箱根登山鉄道入生田駅の先の箱根町境界までとした。
経路は小田原市の中心街に入るまでは1号線と合流し、
中心街では1号線を出たり入ったりして、
本格的に箱根山へ入る頃から1号線と分れた経路となる。
またこの区間には大きな酒匂川、威容を誇った小田原城、
そして天下の険といわれた箱根の山の登り口がある。

小田原市箱根町

小田原宿:江戸を出てから初めての城である小田原城の城下町、そして箱根の山越えを控えた東海道屈しの大宿場として栄えた宿であった。名物としは、かまぼこが今でも有名である。
またこの地出身の二宮尊徳に関する史跡も多い。
 本陣:4、脇本陣:4、旅籠:95、人口:5,404人

   
 押切橋を渡って1号線と合流して西へ800m程行くと車坂碑があり、さらに少し行くと右に分岐するコーナーに大きく立派な大山道道標(写真:)がある。大山道は神奈川県伊勢原市にある大山阿夫利神社へ参拝するための道で、関東各地から通じていて、その案内標識が大山道道標である。大山道は東海道と違い大名行列や雲助に遭遇することがない「安全街道」であったため、登山参拝者だけでなく行商人なども盛んに利用し産物の運搬にも多く利用された。
 大山と阿夫利神社:大山は標高1,252mでよく雨雲を呼ぶと伝えられていることから、雨降
(あめふり)山の名でも親しまれている。阿夫利神社は崇神天皇のころの創建の古社で、古くから信仰を集めている神社。なお神社名の「阿夫利」は雨降(あめふり)に由来しているとも言われている。
   
 たんたんと3kmほど歩いて行くと右手にJR国府津駅があり、ちょっと過ぎると左側の建物と建物の間に親鸞上人が常陸の国から京都へ帰る途中ここで7年間住んだ勧堂跡の碑(写真:)がある。
   
 さらに300mほど行った右側に、約800年ほど前の嘉禄年間に創建され、親鸞上人によって開基された真楽寺(写真左:)がある。ここのお堂(写真中)の中には、親鸞上人が石に指先で名字を書かれたという帰命石(写真右)と呼ばれる2mほどの大きい石がある。この石に書かれた文字は達筆過ぎて私にはとても読めるものではなかった。
   
 しばらく行くと小八幡三交差点の左側に江戸から19番目の一里塚跡(写真:)の立札がある。
   
 さらに酒匂川手前の左側に、2000年が立教開宗750年という古刹の法船寺(写真:小田原市酒匂二丁目35)がある。日蓮上人が身延山へ入山するために酒匂川までこられた時、増水で渡ることができないでいると、翁に化身した地蔵尊のお手引きで地蔵堂に1泊して、翌日無事川を渡られたという。その時堂守が上人の化導を受けて日蓮宗に改宗して法船寺となった。また750年を記念して境内にミニチュアの五重塔(写真左:写真では大きく見えるが現物は小さい)を設置した。本堂は改修工事中であったので写真撮影は遠慮した
   
 法船寺から5分程度歩くと酒匂川の酒匂橋にくる。実際の旧東海道は橋の上流側に位置し渡し舟で往復していたが、冬場の10月から2月までは仮橋を作って渡っていたという。酒匂橋の上から、川の下流側にある西湘バイパスの西湘大橋(写真:)が疲れを癒すほどきれいに見えた。ただこの日は風が強くとても寒い日であったので橋の上では体が冷え切ってしまった。
  
 橋を渡って1号線を離れて上流側に少しさかのぼり旧東海道の位置までくると、土手に城主大久保忠真が二宮金次郎(尊徳)を表彰した地の大きな石碑(写真:)がある。
   
 尊徳の碑から真っ直ぐ西へ200mほど行き、突き当たってちょっと西南へ歩き、城東高校前交差点で1号線を横断して200mほどで西へ曲がると、左側のこじんまりとした場所に新田義貞公首塚(写真:)がある。
 義貞が京都へ進軍途中現在の福井市で戦死するが、家臣の宇都宮泰勝らが首を義貞の生国上州
(群馬県)新田へ持ち帰る途中、この地で病死した。あわれに思った里人によって主従二人をここに葬ったという。
 さらに少し歩いて1号線に合流し山王橋を渡ると、右側に山王神社がある。この神社には、昼間でも井戸の底に空の星が写る「星月夜」とい名井があるということであるが、首を突っ込んで良くみたが底は水が枯れて、木の葉がたまっているだけでがっかりしてしまった。またここには林羅山詩碑がある。

   
 さらに少し行くと右側に江戸見附一里塚(江戸から20番目)がある。
   
 江戸見付跡から200mほど行った新宿交差点を、左に曲がり1号線と別れる。100mほど行って右に曲がると昔の風情が多少残っている町並みが続く。その中で創業明治11年の看板のかまぼこ店(写真:)があった。さすが蒲鉾の名産の町である。さらに行くと清水本陣跡(本町3-5)があり、ここは明治天皇宮ノ前行在所跡になっている。 左側の道の奥に松原神社がある。この神社は北条氏、稲葉氏、大久保氏と代々庇護をうけた小田原宿の総鎮守であったが、明治2年(1869)に松原神社と改称した。祭神は日本武尊など。創祀は久安年間(1145〜1150)とも言われている。
   
 数十m行くと本町交差点で1号線と合流しすぐ左側の方に徳常院があり、この寺には総身5mもある青銅製地蔵尊(写真:)がある。この地蔵尊には、江戸駒込八百屋お七の恋人、吉祥寺の小姓吉三郎が、火あぶりの刑となったお七の菩提をとむらうために作ったという伝説がある。もとは元箱根の賽の河原に安置されていたもので、明治2年の廃仏毀釈で東京の古物商に売り渡され運搬途中、この地の有志がその商人から買取り当寺に安置したもの。
   
 旧東海道はJR小田原駅の南1kmの位置に離れて走っていて、この間には小田原城報徳二宮神社、近代文学の先駆者北村透谷の碑(城址公園の南端)などがある。
 箱根口交差点を右に入ると、本町小学校に面して小田原城の箱根口があったところを示す
箱根口門跡(写真:)がある。この土塁は国の指定史蹟になっている。なお本町小学校は、名君と言われる大久保忠真が文政5年(1822)に創設した旧藩校集成館の跡にできている。
   
 小田原城(写真左:)明応4年(1495)、北条早雲がここの城主となり、次第に勢力を拡大して戦国大名の一人となった。その後天正8年(1580)に豊臣秀吉の攻撃を受けて落城し北条氏は亡びた。江戸時代は大久保、安部、稲葉氏が城主となり、明治維新で取り壊されるまでの290年間その威容を誇っていた。昭和35年に再建され、平成8年に二の丸御殿や本丸、天守へと進む(あかがね)(門が銅で出来ている)(写真右)も再建された。なお小田原城は平野に作った城つくりとして大変優れた城郭で大坂城、その後江戸城を作るときの基本になったという。
   
 報徳神社(写真:)明治27年農政、思想家として名高い二宮尊徳(金次郎)を祀った神社である。
二宮尊徳:相州柏村
(現小田原市柏山)に生まれ、酒匂川の氾濫で全て失うなどのどん底の悲哀を味わいながら努力をかさねて、小田原藩主大久保忠真に抜擢されて身を起こし、富国安民の方法を説き、乱れた諸藩の財政を立て直し、荒地を開拓し、勤倹の美風で産業を振興させた。なお後半世は栃木県の今市市で過ごし、いろろな事業をなしとげた。墓は今市にある。
   
 再度旧東海道へ戻ると、歌舞伎の「外郎売り」で有名なういろうを販売しているういらう(注:会社の名前)(写真:)の八棟造の堂々とした建物が右側に見える。建物は大永3年(1523)に創建されたが地震による倒壊などにあい、現在の建物は平成10年に復元されたもの。
ういらう店:ここでは京都からの直伝の外郎(ういろう)をむかしながらの方法で製造し、販売している。もともとは外郎は医薬品であったので、今でもここでは外郎を薬品として売っているといい、なかなか手に入らないとのこと。。この入手困難と言われるういろうと同じものかどうかわからないが、店頭で買って食べてみたら、甘いものが嫌いな私でも食べられるほどの上品な甘味で、おいしいものであった。
   
 1号線に合流して500mほど行くと、JR東海道と箱根登山鉄道の踏切を渡り少し行った左手に、小田原市指定史蹟大久保一族の墓所の大久寺(城山4-24-7)がある。ここには秀吉の小田原城攻めで戦功をたてて小田原城主となり、その後徳川家臣十将に数えられた大久保忠世とその一族の墓が祀られている。
   
 さらにちょっと行き、板橋見附交差点から1号線と別れ右側の道に入り真っ直ぐ行くと、突き当たりに板橋地蔵堂(写真:宗福院(板橋595))がある。この地蔵堂は「板橋の地蔵尊」として地元で親しまれている。本堂にある高さ3.3mの坐像の胎内には弘法大師が刻んだ延命子育地蔵が安置されているという。また本堂前には写真のような人目を引く大イチョウの木がある。
   
 地蔵堂を過ぎると、上板橋交差点に出てまた1号線に合流し道路を横断すると、早川に出る。ここには北条時代に、小田原城下での飲料水として使用した古水道の早川の取水口(写真:)がある。この古水道は日本の水道施設の中で最も古い施設の中に入ると言われていて、日本の土木史1頁を飾る大きな事跡として残っているという。
   
 上板橋交差点から800mほど行ったところで国道271号線を横断し、この地点から1号線を離れて右の道に入る。箱根登山鉄道沿いに歩き風祭駅前をちょっと過ぎた右手に、道祖神がありその後ろに日本橋から21番目の風祭の一里塚跡碑(写真:)がある。
一里塚とは:慶長9年
(1604)徳川家康は息子の秀忠に命じて東海道、東山道、北陸道に江戸日本橋を起点として1里(約4km)毎に塚を作らせた。塚は男塚と女塚と街道の左右に対で置かれて、広さは通常5間(約9m)四方であった。塚には榎を植え旅人の一里ごとの目印とするとともに、夏季における木陰の休憩場所とした。
   
 さらに約800mほど行くと、右側に招太寺へ登っていく参道入口がある。なだらかな坂を登って行くと左に招太寺(写真左:)の入口がある。
招太寺
は江戸時代の初期の小田原の2代目城主稲葉正則が、父正勝と祖母で徳川3代将軍家光の乳母春日の局の菩提を供養するために、寛永12年
(1635)に創建した寺であり、7堂伽藍を備えた関東一の大寺院であったが江戸末期に火事にあい一堂を残すのみとなっている。なお春日の局の本墓は麟祥院(東京都文京区千駄木5-38)にある。
 そのままさらに行って、急な長い石段を400m息を切らして登ると突き当りの相模灘を望む山上に
稲葉氏一族と春日の局の墓所(写真中:)がある。ちょっと戻って左手のミカン畑の中を通って約700mほど歩いて行くと、寺の裏山の長興山の裾野の広場に関東第一といわれる樹齢320年の天然記念物しだれ桜(写真右)がある。この桜は「春を忘れぬ形見に」と稲葉正則が植えたものとのこと。この日は桜の季節でないため、さびしい木だけの写真となった。なお通ってきた大きなミカン畑で、たまたま地主さんからもぎたてのミカンをいただいて歩きながら食べたら、大変甘味があっておいしいもであった。是非この地を訪ねる方に推奨したいと思っています。タダでもらったということで、お世辞を言っているわけではありません、絶対に!)
  
 この辺は右手にレンガ造の箱根登山鉄道トンネル(写真左:)を見ながら、いかにも旧東海道というの風情を残している町並(写真右)で、歩いているとそのまま箱根宿に入っていく。
..   
ホームページ
トップへ
東海道53次
トップへ
次の宿へ
ホーム