武蔵国横浜市保土ヶ谷区
保土ヶ谷宿
から戸塚宿へ
江戸日本橋から戸塚宿まで32.3km、保土ヶ谷宿〜戸塚宿間:8.8km
     
この区間は2002.2.11のよい天気の中を歩いた。
神奈川宿との境界は保土ヶ谷区の境界に近い西区の追分あたりということであるので、
ここではそのような範囲とした。
横浜市西区→保土ヶ谷区→戸塚区へ

保土ヶ谷宿 日本橋から4番目宿で,江戸を出てからの最初の難所と言われる急坂「権太坂」の手前の宿場でもあった。当時の権太坂は半端なきつさでなく、途中生き倒れる人を葬るための投込塚まであった。そのため多くの旅人は保土ヶ谷宿で休息してから坂越えに挑んだという。
 本陣:1、脇本陣3、旅籠:67、人口:2,928人

        
 追分標識を過ぎるとすぐ目の前が、テレビなどでも紹介された安売りで有名な洪福寺松原商店街(写真)である。
   
 すごい人混の商店街の中をかき分けて洪福寺前交差点信号に出て横断し直進していくと、右手に橘樹神社(写真)がある。この神社は昔から地域の人たちに「お天王さま」といって崇められていて、境内には保土ヶ谷で一番古い庚申石塔がある。
   
 そこから100m程行く帷子川にかかる帷子橋をわたり、相鉄線天王町駅にかかるプラットホームの下をくぐると天王町駅前公園にでる。ここには安藤広重の浮世絵で有名な旧帷子橋跡の記念碑(写真)がある。旧帷子橋は安藤広重の東海道53次版画で広く知られているが、近年帷子橋改修や相鉄線の立体化でその姿が消滅してしまった。
   
 公園から300mほど行くと大門交差点信号機があり、そこを右に200mほど入ったところに神明社(写真)がある。この神社は伊勢神宮の御領として寄進された「棒谷御厨(はんがやみくりや)」の鎮守であり、この「はんがや」が「ほどがやの地名の由来ともされている。
   
 旧東海道に戻り西へ500m行くと道は二つに別れ、左の大きい道はJR保土ヶ谷駅方面へ、旧東海道は1車線幅の狭い道の保土ヶ谷駅西口商店街を真っ直ぐ行くことになる。商店街に入って少々行くと右手の商店の角に昔の札の絵を掲げた高札場跡(写真)の立て看板がある。
   
 そこからちょっと行ったところの左手に保土ヶ谷税務署があり、その先の交差点信号のコーナーに俳諧道標(写真)がある。ここから大田・大岡を経て鎌倉に至る鎌倉街道と、さらに分かれて杉田・金沢に至る枝道を示す道しるべで、左から2番目の碑(文化11年建(1814))には江戸時代の俳人其爪(きそう)の「程ヶ谷の枝道まがれば梅の花」句が記されている。俳諧を刻んだ道標は珍しいとのこと。
   
 さらに20mほど行って東海道線の踏切を渡るとすぐ前が国道1号線である。横断すると保土ヶ谷本陣跡(写真左)で、それから右に行くとマンション塀に、当時の保土ヶ谷宿の本陣、脇本陣、商店の配列を記した埋込銅板(写真)が張られている。これは元治元年(1864)の幕府が調査した絵図を元にして作成していると記されている。ちなみに当該マンションは村田金子屋敷跡に建てられている。
   
 そのまま1号線を北西に進み、左に水のきれいな小川が、右側には東海道本線の電車を見ながら交通量の激しい国道を800mほど行くと、保土ヶ谷二交差点信号で分岐する。左手の1号線と分かれて右手の交通量の少ない道を700mほど直進すると丁字路にぶつかる。左折してゆるい勾配を150m行くと、右に勾配のある道の一部が見える。ここが日本橋を出発して初めての難所権太坂の上り口(写真)である。 
   
 旧東海道権太坂は、国道1号線ができたあと昭和30年に改修工事が行われたりして、現在は難所と言うほどでもない。権太坂の由来は、「この坂はなんと言う名前か?」と訊ねられた耳の遠い老人が、自分の名前を聞かれたものと思い「へい、権太といいます」と答えたことからきているという。坂を登って100mほど行くと左側に権太坂改修記念碑(写真)がある。
   
 高速道路の架橋を横断して坂をさらに登っていくと、右側の県立光陵高の校庭の角に権太坂の標札(写真左)があり、左側の権太坂小学校手前の空き地からは遠く桜木町MM21地区地区のランドマークタワー(写真右)を展望できる。
   
 さらに延々と登り坂が続く。改修されて道路がよくなった今でも私はばて加減であり、昔の旅人の難儀が思い知らされる。ちなみに途中投込塚があったが、これは道中行倒れた旅人を葬ったところで、いわゆる共同墓地である。昔は旅をするということは現在でいえば治安のひどい外国へ旅行するようなもので、それこそ命懸けであったという。それで旅に出るときは住所、氏名はもちろん身体の特徴などもしるし、行き倒れになったらその土地にやりかたでいかようにも処置してくれとしたためた書類をきちんと身に着けていったということである。従って道中行き倒れた死体は道端にごろごろ転がっていたということからすると、塚に投げ込んでもらったということは、大変感謝しなければならないこととなる。登り口から約1.5kmほど登ってようやく頂上についたようで、この権太坂でもっとも高いところにあるのは美容室(写真:)かもしれない。
   
 ここからゆるい下り坂になるが、何しろ旧東海道の標識がなく道に迷ったのではないかと不安な気持ちで歩き続けて、ようやく境木(さかいぎ)地蔵(写真)にたどりついた。堂前に武蔵と相模の国境を示す巨木があったところから「境木」という名前がつけれらたという。この地蔵には次の伝承がある。「ある時一体の地蔵が鎌倉腰越の浜に漂着した。この地蔵が土地に漁師の夢枕にたち、江戸の方へ行きたい。運んでくれたらこの浦を守ろう、と告げた。さっそく漁師たちはこの地蔵をは運んだ。ところがどうしたことかこの地まで来たところで動かなくなった。気の毒に思った村人たちはこの地蔵を引き取り堂を建てて安置した。以来この村は繁盛した、ということである。
この境木地蔵の前は歩道なしの2車線幅の狭い道の上、交通量の激しいところで歩く者には危なく感じる道路であった。地蔵前の道路にからすぐ左折して、道を真っ直ぐ行くと戸塚の宿に入る。
... 
ホームページ
トップへ
東海道53次
トップへ
次の宿へ
ホーム
   ..