三河国岡崎市藤川町
藤川宿から岡崎宿へ
江戸日本橋から藤川宿まで308.5km、藤川宿〜岡崎宿間6.6km
    
この区間は2002.11.9に赤坂宿に続いて歩き、
その日は本宿の旅館に宿泊し、翌日引き続き歩いた。
両日とも天候には恵まれた。
ただこの区間はほとんどゆるい下り坂であったため、歩くスピードが早くなってしまい、
足に負担がかかって足をいためてしまった。
本などではよく坂道ではスピードに注意しろとあるが、
自分がそうなるとは初めての経験で今後の反省材料とした。
岡崎市本宿町藤川町藤川松並木美合新町乙川

藤川宿:藤川宿は東海道以前の鎌倉街道時代から、旅人の休息場としてあった古い宿場である。江戸幕府は53次の宿駅を整備するにあたり集落地を移転させて、約1kmにもわたる長い宿場町を作った。塩の道「吉良街道」に通じる交通の要所でもあった。また1772(安永元)年の疫病で人口の1/3も病死するという大騒動があった宿でもある。
 本陣1、脇本陣1、旅籠36、人口:1,213人
間の宿として本宿がある。ここには知行所支配のための陣屋が置かれ、旅人の休息場として繁盛していた。地場名物の法蔵寺団子、ひさごなどは街道筋でも評判であった。
   
 国道1号線に合流して歩いて音羽町から岡崎市に入るとすぐ左手に、これより西、本宿村を示す本宿記念碑(写真)がある。本宿は中世においては法蔵寺の門前町を中心に町並みが形成され、近世になり東海道赤坂宿と藤川宿の中間に位置する間の宿とての役割を果たしていた。
   
 本宿記念碑を過ぎると道は下り坂となり、500mほど行くと道は分岐し、1号線と分かれて左の道を進む。その分岐点には右国道1号線、左東海道の石柱とともに本宿村歴史説明板(写真)があり、法蔵寺、六角堂、東照宮、七里役所跡、本宿陣屋跡など詳しく説明してある。ここ本宿は町並みを歩いていても歴史保存に熱心な様子がうかがえた。
   
 説明板から、百数十m行くと左奥の一段高いところに法蔵寺の山門(写真左)が見える。701年僧行基の開山と伝えれ、松平初代親氏が1387(至徳4)年に堂宇を建立して寺号を法蔵寺としたといわれている。ここで徳川家康が幼い頃手習いや漢籍を学んだとされ数々の遺品が残されている。そのひとつに家康が手習いの折り草子をかけたと言われる御草子掛松(写真右)が門前にあるが、この松は昭和57年に枯れたので58年に植樹したものである。なお境内には新撰組で有名な近藤勇の首塚が祀られている。近藤勇は1868(慶応4)年4月25日に東京板橋刑場で処刑され、首級は京都三条河原に晒された。同士がその首級を盗み出し、近藤が敬慕していた当寺の住職に頼んで密かに埋葬したものである。
   
 法蔵寺から出て、法蔵寺橋を渡って数分歩くと、右に本宿陣屋跡と代官屋敷の説明板(写真)がある。この辺が江戸時代の間の宿としての本宿の中心であったのであろう。代官職は代々富田家が世襲し、現在の居宅(現富田病院)は1827(文政10)年の建築とのこと。
   
 さらにその先には右に行く道があり、そのコーナーに高くてとても目立つ火の見櫓(写真右)がある。その足元には「為当所火災消除口」「寛政十三辛酉歳二月」(1801)と刻まれた秋葉常夜燈(写真左)がある。
 時間はもう16時を過ぎこの辺りで宿泊の心配をする必要があり、たまたま近くのスーパーで缶ビールを買いながら店主に聞いたところ、近くに1軒だけ旅館があるだけとのこと。この先6kmほどの岡崎市街までないという話であった。日暮れ時間を考えてこの地の唯一の旅館に泊まることにしてたずねたら、なんと昔の料亭風の立派な店構え。ついポケットの札束を数えなおして玄関に入った。昔はいずこという、とても庶民過ぎるほどの内部で一安心したが、どこでもこういう料亭は苦しい経営を余儀なくさせられているんだろうと思う。

    
 翌日は11月10日、朝7時半に旅館を出発し朝日を背中に浴びて北西に歩くと、前方の西の空はとても暗い雲に覆われていた。前方多難を感じさせた。
 数分歩くと、右に
本宿一里塚跡碑(写真)がある。道は真っ直ぐで、朝のひんやりした空気がとてもすがすがしく肌を刺激するなかを、元気よく歩いた。がちょっと右足がつるような感じがした。旅館から約1.5km歩くと町並みの外れとなり、道は国道1号線と合流してからちょっと行って神明社手前から山中地下道を通って1号線を横断し反対側に出る。
    
 反対側に出たら1号線沿いの道をしばらく歩いて、道なりに行くと名鉄名古屋本線に沿った道になる。名電山中駅前を通り平坦なゆるい下り勾配の道(写真)を、足も軽やかにスピードに乗って歩いていたがどうも右膝に少し痛みを覚えるようになった。
   
 1号線を横断してから約1kmのところで、再度左手を走っている1号線を横断する。横断信号の向こう側には、御開運御身隠山と刻まれた立派な背の高い石碑(写真)が見える。
 実はこの頃から、足に異常をはっきり感じるようになり、これが今日のスケジュールに大きな影響を及ぼすことになってしまう。

   
 横断して1号線と合流して歩くと、左側のガソリンスタンドの脇にまた御開運御身隠山の白杭と山門が見える。この地の由緒ある寺なのであろうか。
   
 さらに行くと1号線(写真)は前方で右に曲がり、旧東海道と分かれる。
   
 旧東海道は1号線と別れて左の道(写真)に入り、藤川宿の入口に進む。
   
 旧東海道は一旦舗装道路を離れ、左のブロックの歩道(写真)を進む。
   
 すると前方にいろいろな案内板や標示(写真左右)が並んでいるのが見える。ここは藤川宿の入口で東棒鼻標示との説明板もある。棒鼻とは宿の出入口のことで、東にあるので東棒鼻という。東棒鼻は安藤広重の版画にも画かれている。また「京へ四十六里二十七丁、岡崎へ一里半、赤坂へ二里九丁、江戸へ七十八里二丁」という道標もある。
   
 歩道を直進して行くと、左に市場改耕碑(写真)があるので、その十字路を右に曲がり、先ほど別れた舗装道路に出て左折して進む。このように道を意識的に曲げてあるのは外敵から宿町を守るためといわれ、曲手(かんねんて)または枡形と呼ばれている。
   
 真っ直ぐなゆるい下り勾配の町並み(写真)を進んで行く。いつの間にか空はきれいな青空となっていた。
   
 先に進むと左の津島神社標示(写真)の両脇に堂々とした常夜燈がどっしり構えている。神社は奥の名鉄名古屋本線を越えたところにある。
   
 また左側には、粟生人形店のひときは目立つ木造3階建の白壁の建物(写真)がある。
外見上は4階建のように見えるが、後日栗生さま(ご当主?)から3階建とのご指摘のメールをいただき、昭和63年に第1回岡崎都市景観環境賞を受賞されたということです。
   
 さらにその先の左には、江戸時代の商家銭屋の建物(写真)が残っている。格子戸で大屋根が前に出て雨水が下の溝へ落ちるようになっている。類焼を防ぐために庇の両側に「軒卯建」がある。
   
 反対側の右の民家の庭には、藤川宿の本陣跡(写真)の看板がある。ここが藤川宿の中心となる。本陣家の建物は、門、玄関、上段の間を設けることができ、当主は名主、宿役人などを兼務し、苗字帯刀を許されていた。ここの本陣は江戸後期は森川久佐衛門が勤めていた。
   
 さらにその先の左には現在藤川宿資料館となっている、藤川宿脇本陣跡の建物(写真左)がある。この建物は関が原の戦いの後に藤川に居住した大西喜太夫(橘屋)のもので、藤川宿は度重なる大火で殆ど消失してしまった中で昔の面影を残すもっとも古い遺構となっている。庭には本陣跡碑(写真右)がある。
   
 そのすぐのところには、宿案内板とともに「江戸まで78里、京まで48里」の新しい道標(写真)が立っている。
   
 どこまでも続くゆるい下り坂を約300m歩いて行くと右側の藤川小学校校庭前の西端に、宿場の西入口にあたる背の高い西棒鼻跡標示(写真)がある。
   
 その先に並んで、「藤川のしゅくのぼうはなみわたせば 杉のしるしとうでたこのあし」と刻まれた歌川豊廣(1774〜1829。江戸時代後期の浮世絵師で門人として安藤広重がいる。)の句碑(写真)がある。
   
 校庭のはずれの十字路を横断すると、左角に十王堂と芭蕉の句碑(写真)がある。十王堂は冥土で亡者の罪を裁く、泰江王、初江王、宗帝王、五官王、閻魔王、変成王、平等王、太山王、都市王、五道転輪王の十王を祀る堂で、この藤川の堂は1710(宝永7)年に創建されたと言われている。私にはせいぜい閻魔王しかわからなかった。堂の前には芭蕉の「爰も三河 むらさき麦の かきつばた はせを」と刻まれた句碑がある。寛政5年に建碑されたもので高さ1.65m、巾1.6m、厚さ0.2mで、この近辺では最大の大きさの芭蕉句碑である。
   
 そこから20m行くと道の両側に藤川一里塚跡の案内板(写真)がある。この藤川宿の案内板は殆どが紙に印刷したのもで標示してあるが、紙の貼り付けではどうも情緒のなさを感じてしまう。
   
 下り坂を歩いてふと右後ろを振り返ると、花畑の住宅の後方の森から見える高いビルが7、8軒突き出ている景色(写真)は、青空にとても映えて思わずデジカメにとってしまった。しかしこうして出来上がった写真をみると何の変哲のないもので全然感動が沸いてこない。腕が悪いせいであろうか。
   
 歩きながら前方を見ると、道は左右(写真)に別れている。
   
 この分岐は旧東海道と吉良道の分岐点(写真)で、分岐点の真ん中に1814(文化11)年に建てられた吉良道道標がある。左の道が西三河湾岸へ通じて利用度の高かった吉良道である。旧東海道は右の道ですぐ名鉄名古屋本線の踏切を渡る。
   
 分岐点の、吉良道のゆるいカーブにあたるところに、「吉良道」「南無阿弥陀仏」と刻まれた石造の観音さま(写真)が祀られている。
   
 旧東海道はゆるい下り勾配で名鉄線の踏切りを渡ると、藤川松並木(写真)となる。快晴ということもあって気分爽快で松並木を歩いたが、国道1号線に合流するまでの約1kmの間に90本の黒松が植えられている。樹高30mクラスの松もあり岡崎市指定天然記念物となっている規模の大きい並木で、この感動をなんとか写真に残そうと再びデジカメでメッタやたらに撮りまくったが、せいぜいこの程度の写真で終わった。
   
 松並木が終わると1号線と合流し、西北へ約1.2km行って1号線と別れ左の細い舗装された道に入り竜泉寺川にかかる坂下橋を渡る。そこから1号線と平行して美合新町の閑静な町並み、畑の中を通って1.2kmほど行くと、道は大きな川に遮られてしまう。(写真)
 現在は土手道を右折して乙川にかかる太平橋を渡って迂回し、旧東海道へ戻ることになる。橋の上から見る乙川(写真)もまた心をやすめてくれる。 足の状態も膝の痛みがとれてふくらはぎのツッパリだけになっていた。
 太平橋を渡ると、そこからは岡崎の城下へ向かうことになる。
                          
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