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三河国岡崎市
岡崎宿から池鯉鮒宿まで |
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江戸日本橋から岡崎宿まで315.1km、岡崎宿から池鯉鮒宿まで14.9km |
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この区間は2002.11.十藤川宿に引き続き歩いた。
今朝出発したときから、右足に違和感があり右をかばって歩いているうち、
左も悪くなりついに両方ともおかしくなったいた。
岡崎の城下町の二十七曲がりは、宿へ入る東入口は当然わかったが、
曲りの道標をたどっているうちどこが27番目の道標なのか、わからなくなってしまった。
さてどこだったんだろう? |
岡崎市太平橋→筋違橋→岡崎二十七曲り(岡崎宿)→矢作橋→安城市 |
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岡崎宿:岡崎は矢作(矧)川と支流の乙川の合流する、物資の輸送路の要とて位置した。
岡崎城は1455(康正元)年西郷稠頼により築城されその後徳川家康が居城し、その後秀吉の家臣田中吉政によって城下町として整備され、矢作川に初めて橋をかけられ、さらに二十七曲りの防衛をして東海道を城下町に通した。そして府中、宮宿と並ぶ繁華な宿へと発展して行った。
岡崎宿の中心は伝馬町でここに本陣、問屋場などが立並らび、東の籠田惣門の前には往来する高位高官者に岡崎藩が接待をした御殿、御馳走屋敷があった。また市内には300余の多くの寺院があり都市景観をなしている。
本陣:3、脇本陣:3、旅籠:112、人口:6,494人
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乙川にかかる大平橋を渡り国道1号線に沿ってちょっと歩いて行くと、小川があり、そこから左折して旧東海道へ戻る。
日本高分子の敷地の前を通り、北の方へ約200m行くと1号線に出る。そこを横断して大平町に入り道なりに左折して坂を上ると右に薬師寺(写真)がある。
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道は1号線に平行に進み200mほど行くと右の道端に「東海道 つくで道 分岐点」刻まれた道標(写真)がある。
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その少し先に丁字路があり旧東海道は直進であるが、右折して50mほど行くと右に、大岡家陣屋敷跡(写真左)がある。八代将軍徳川吉宗時代、江戸の名町奉行と評判だった大岡越前守忠相は旗本であったが、1736(元文元)年72歳で1万石の大名となり西大平藩主として、ここに陣屋を置いた。その後も大岡家はここを陣屋として使い明治まで続いた。大岡家は江戸常駐のて定府大名であったので多くの家臣は江戸邸に住んでいて、陣屋には多くても郡代以下手代を含めても10名程度しか詰めていなかった。跡地は最近再建された様子で新しく、門(写真右)の中には遺構らしいものは何もなかった。
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旧東海道に戻り200mほど北西に歩くと、交差点を渡った左側のバス停のところに、昭和12年国指定史蹟大平一里塚(写真)がある。原型をよくとどめている南塚で、高さ2.4m、底部は縦7.3m横8.5mの菱形で、塚の中央にある榎は昭和28年に植替えかえられたもの。
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道を挟んで反対側には、秋葉常夜燈(写真)があるがびっくりするほどの高さである。ここには北塚があったが昭和3年に壊されてしまった。
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一里塚から200mほど歩くと1号線に出るので、合流して一部高架下トンネルを通りながら約1km行き、筋違橋の標識から右へ斜めに入り坂道を登っていく。400mほど行くと道は十字路になり、その手前の左の三角地帯に岡崎二十七曲りの碑(写真左右)がある。ただ碑は鏡面過ぎて写りこみが激しくてとても見にくい写真となってしまった。徳川家康が江戸へ移った後、田中吉政が岡崎城に入り城下町の整備をした。そのとき乙川の南にあった東海道を城下町に通すにあたり、城の防衛のため二十七の屈曲を設けた。近年曲がり角の道標が整備され、旧東海道を容易にたどることができるようになっている。
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碑の前の十字路を右折して約100m行き十字路を左折すると、市立岡崎病院(写真左)前に「欠町より役町角 岡崎宿東入口」と刻まれた最初の曲の道標(写真右)がある。
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病院前の通りはとても閑静な住宅街で10分弱歩くと「両町より伝馬町」と刻まれた次の道標(写真左)、右折して3分ほどで「両町より伝馬町」と刻まれた3番目の道標(写真中)、左折して伝馬通りを西へ6分ほど歩くと伝馬交差点の左側に創業天明2年と書かれたいかにも由緒ありそうな備前屋(あわ雪)の白い建物(写真右)がある。
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伝馬通りのこの辺は、戦災を受けなかったので古い家並みが残り「永田屋」や「糸惣」などの店構えや看板(写真)が往時をしのばせてくれる。
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備前屋から直進して3分歩き「西本陣前」の道標(写真左)を左折して、1分行って右折した道の右側に「東京みち 京みち きらみち」と刻まれた道標(写真中)がある。さらに4分ほど進むと宿場の通りであった籠田惣門通りに出ると道の中央に小さな広場があり籠田惣門跡碑(写真右)が建っている。
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碑の前を通り過ぎて右折し先ほどの伝馬通りを横断し籠田公園(写真左)の脇を通り4分歩いて左折すると「籠田町より連尺街角」の道標(写真中)がある。そのままブロック歩道を歩きUFJ銀行前の岡崎東海道二十七曲り案内(写真右)を通り過ぎると広い通に出る。
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通りを横断し直進し籠田道標から7分歩くと道はジャスコの前で丁字路になるので細い道の方へ右折するとブティックの前に「岡崎城対面所角」の道標(写真左)がある。細い道は1分も行かないうちに丁字路になり道の反対側に「材木口木戸前」の道標があるので、そこから左折してすぐ右折し1分歩いて人形店前から左折すると自動車通りに出る。そこを右折して左側歩道を歩いて数分行くと木まち通りに出るがその角に「材木町角」の道標がある。
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木まち通りに出て西へ6分歩くと伊賀川にかかる柿田橋があるので手前の堤防を左折すると木の根元に「材木町より下肴町角」の道標(写真左)がある。
岡崎市民病院の岡崎宿東入口道標からここまでは、乙川の北側に位置する岡崎市街の中心部を歩いてきたが、この辺からいかにも中心から外れた感じのする風景となる。
堤防を2分行くと伊賀川にかかる三清橋へ右折するコーナーにガードレールに保護されて「下肴町より田町角」の道標(写真中)がある。橋を渡り鍼灸療院前から左折して行くと国道1号線に出るので歩道橋で反対側に渡り、200mほど南へ歩いて行くと丁字路があり「板屋町角」の道標(写真右)がある。
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旧東海道はそこから右折して行くのであるが左手見えている岡崎城址へちょっと寄り道することにして、逆に左折し伊賀川を渡り堀の外から木々の間から頭を出している城の天守閣(写真)をデジカメに納めた。
岡崎城は1455(康正元)年西郷稠頼により築城された。1542(天文11)年の徳川家康はここで生まれて、今川氏での人質時代を挟んで1570(元亀元)年浜松城に移るまで居城としていた。
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元の道に戻り、右折して西へ進み中岡崎町交差点を横断し、松葉通りに出て愛知環状鉄道のガードをくぐると右側に黒塀(写真)が延々と続く。
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塀の終点から右手を見ると、奥行きの深い建物(写真)であることがわかる。ここは岡崎名物八兆味噌蔵で、600年前から始まり、吉野杉で作られた高さ2mの仕込み桶に原料を入れ、その上に重石を円錐状に積み上げ3年かけてじっくりと熟成させてつくられる。
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松葉通りをまっすく行くと丁字路に突き当たり、そこには「左江戸 右西京」の道標(写真)がある。ここで右折して矢作川の堤防沿いに歩くと国道1号線に出る。
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1号線に出たら左折して矢作(矧)川にかかる矢作橋(写真左)を渡る。橋の上から眺めた矢作川(写真右)。江戸時代の旧矢作橋は現在より20m下流にあり、長さ374mと現在より100mも長い東海道一の長さであった。
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矢作端を渡ると右の橋のたもとに、出会之像(写真)がある。日吉丸(豊臣秀吉)と蜂須賀小六が出会ったという矢作橋にちなんで作られたものであるが、何故かその時代には矢作橋はなかったという。
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出会之像から右へ10mほど行き、1号線と平行な道へ左折して600mほど行くと右に誓願寺十王堂(写真左)がある。1174年東北の藤原秀衡を頼って旅をしていた源義経は、矢作の里を訪れ兼高長者の家に宿をとった。長者の娘浄瑠璃姫と琴と笛が縁で二人の間に愛が芽生えてたが、義経は東北へ旅たたねばならず名笛「薄墨」を姫に授けて里を後にした。姫は義経への恋情を抑えきれず後を追ったが追いつけず、ついには17才の儚い身を菅生川に投じた。長者は姫の遺体を誓願寺に埋葬し、十王堂を建て姫と義経の木造を作り、名笛「薄墨」と姫の鏡を安置して供養したという。浄瑠璃姫は美人で才女で、琴の名手であったというと、どうしても力が入ってしまう。何故いつも女性だけが悲しまなければならないんだろうか。なおこの悲話は小野お通が音曲に仕立て織田信長の前で演奏したのが、浄瑠璃の始まりといわれている。
左に隣接した保育園の片隅に、浄瑠璃姫と兼高長者の墓(写真右)が並んで建っている。
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十王寺から約600m行き1号線と合流して西北へ約1.2km行くと、安城市看板(写真)が見える。
ここから安城市を経由して知立市の池鯉鮒宿へ向かうことになる。 |
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