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三河国知立市
池鯉鮒宿から鳴海宿へ |
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江戸日本橋から池鯉鮒宿まで330km、 池鯉鮒宿〜鳴海宿間11.1km |
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この区間は、2002.11.10の歩きで足を痛めたため知立市来迎寺町までで引き上げ横浜に戻り、
あらためて2002.12.6に歩いた。
12.6の旅は東海道53次で残っていた池鯉鮒宿から庄野宿間を歩くこともであり、3日間の予定で歩いた。
ただ前回の11.10に血豆で傷め全面剥離した両足の親指の爪の経過がよくなくて、
実は大げさであるがドクターストップを押し切っての歩きであったので、
不安を抱きながらの旅でもあった。
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池鯉鮒の地名の由来:ちりふと読む。古くは知立(ちりゅう)という地名であったが、江戸時代に式内の古社である知立神社の池に鯉と鮒が沢山いたので池鯉鮒というようになった。ただ明治以降は再び知立が使われるようになった。 |
安城市宇頭町→知立市来迎寺町→池鯉鮒宿→逢妻橋→刈谷市今岡町→境橋→豊明市へ |
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池鯉鮒宿:1.37kmと細長い宿で本陣などあった中心部は現在マンション、商店街となっていて、全く昔の面影を残していない。また知立神社の神官の氷見氏が築いた城があり、城下町的な村落であった。
池鯉鮒宿では馬市が盛大に開かれ、三河木綿市も盛況であった。
本陣:1、脇本陣:1、旅籠:35、人口:1,620人
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岡崎市から安城市宇頭町に入り1号線と合流し西北へ約1km行くと道は分岐し、旧東海道は1号線と別れて右手の道になる。そこから松並木を通りながら1kmほど歩くと尾崎町となり、右に熊野神社の鳥居(写真中)が奥まったところにあり、門前の右に予科練之墓(写真右)、左に鎌倉街道の標識と一里塚跡碑(写真左)がある。1192(建久3)年鎌倉に幕府が開かれると京都と鎌倉の間に鎌倉街道が定められ、宿駅63箇所が設置された。ちょうどこの地が街道の屈折点となっていたという。
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さらに1.1kmほど西北へ歩くと右側に大浜茶屋の庄屋柴田助太夫の霊を祀った永安寺(写真左)がある。助太夫は1677(延宝5)年貧しい村人のために助郷役の免除を願い出て刑死したと伝えられている。山門の右には雲竜の松(写真左)と呼ばれるクロ松がある。中心の幹が上には伸びず、分かれた幹が地をはうように伸びてその形が雲を得てまさに天に昇ろうとする竜を思わせるので「雲竜の松」と呼ばれている。樹齢約300年、樹高4.5m、幹周り3.7m枝張り東西17m、南北24m
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その先の交差点を渡ったところには、大きな明治用水開渠の記念石碑と通水百周年記念碑(写真)がある。明治用水は、西三河一帯に灌漑する用水路で、矢作川から水を引き幹線だけでも50kmにもおよぶもので、明治12年から着工して翌13年に通水した。現在は暗渠となっている。
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平坦な道を歩いていくと松並があり、市街地に入り東栄町交差点から左手奥に名鉄名古屋本線新安城駅を見ながら西北へ直進して行くと、明治用水記念碑から約2.8kmのところに猿渡川にかかる猿渡川橋(写真左)に出る。もうこのころになると、今朝岡崎市の本宿を出たときからいためていた足は、両足ともダメになり特に右は全く動かない状態になっていて、橋の上でほんのちょっと足を休めて猿渡川(写真右)を眺めた。
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橋を渡ると来迎寺町となり、約800m行くと丁字路になっていて八橋町へ行く右の道の両脇に「八橋無量寿寺」「従是四丁半北 八幡 業平作観音有 元禄九丙子年六月吉朔日施主敬白」と刻まれた道標(写真)がある。1696(元禄9)年に、在原業平ゆかりの八幡無量寿寺への道標としてたてられたものであることがわかる。
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さらにその先の両側に、来迎寺一里塚(写真)がある。大きさは直径約11m、高さ約3mに土を盛ったもので、両塚とも完全に残っているのは珍しいとのこと。ただし写真は南塚で北塚は民家の裏になっていて道路からは見ることができない。
猿渡橋からは全く右足が動かず、多少動く左足だけで引きずりながら歩いていたが、ここで潔くあきらめて横浜へ戻ることにした。全く人通りのない町並みであったが、偶然家の外に出てきた中年の奥さんに、近くの名鉄牛田駅への道順を聞くことができた。約1kmくらいの距離だった思うが、1時間くらいかかってようやく駅にたどりついた記憶が残っている。
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2002.12.6 東海道53次の最後の池鯉鮒宿から庄野宿間を、名鉄牛田駅から9時ころ出発した。天候は晴れで風がありちょっと寒さを感じた。今回の大きな不安は前回の11.10に足の両親指の爪が完全に剥離し、そのあとの皮が固まっていないので、医者からは絶対に再度血豆を作ってはいけないと言われていることである。指や足にぐるぐる真綿や包帯、それにバンソーコなどを張り、靴の中の足に遊びがないようにして歩いたが、とても歩きにくかった。それで牛田駅から池鯉鮒宿まで約kmを足慣らしだけに専念して歩くことにして足調を整えた。
名鉄池鯉鮒駅前の市街に入り中町交差点の六差路を直進すると、右に池鯉鮒宿問屋場跡碑(写真)がある。
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その先の信号を旧東海道は直進するが、左折して初めの十字路を右折して50mほど行った右に池鯉鮒宿本陣跡碑(写真)がある。この辺が宿の中心だろうと思われるが、そういう面影は全く見ることができない。
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信号に戻り直進して行き突き当たった丁字路を右に曲がったところの左側に知立城跡(写真)がある。公園になっていて遺構は何もなく、ただ石碑と案内板があるだけのものである。知立城は知立神社の神主の氷見氏の居館であった。戦国時代、29代の貞英は隣国の水野忠政の娘と結婚して子供ができ、それがのちの徳川家康の側室お万の方となる。お万の方は結城秀康を生む。お万の方の墓はこの先にある総持寺にある。今川義元側であった知立城は、1560(永禄3)年の桶狭間の戦いで落城し、織田信長の手に渡ってしまう。
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さらに直進すると突き当たりに了運寺(写真右)があり、山門の左に「大国渡来 釈迦如来像安置」の石柱(写真中)、その左には「知立三弘法第二番札所」の石碑(写真左)が並んでいる。、
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左折して155号線を地下道でくぐって北へゆるい勾配の道を300mほど行くと、民家の庭に延喜式内知立神社の石碑(写真)があり、知立神社への案内となっている。
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知立神社へ立ち寄るため右折して80mほど進むと、左側に花菖蒲で有名な知立公園(写真)がり、
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突き当たりには、東海道3大社の一つに数えられている知立神社(写真左)がある。日本武尊が東征のおり、当地の皇祖神を祀ったのが始まりという。境内の多宝塔(写真右)は、室町時代に再建されたもので国指定重要文化財となっている。高さは約10mある。
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元に戻り先にすすむと左に唐風外観の総持寺(写真)があり、境内のトイレを借用しようと思ったら、なんとトイレの入口前には鉄柱と錠付チェーンでガードされていて、施しを受けることができなかった。最近の寺院はここまで世知辛くなってしまったのだろうか?
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さらに進むと道なりに左にカーブし広い自動車道に合流し、逢妻川にかかる逢妻橋(写真)を渡る。
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橋を渡り逢妻町交差点から左折して国道1号線と合流して北西へ歩くと、交差点から約500mのガソリンスタンド手前に一里山歩道橋(写真)がある。この辺が知立市と刈谷市の境界となる。
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さらに直進し900mほど行き本田工業の敷地のはずれのところで、斜め左に入る道が旧東海道となる。1号線と別れて左折し約500m行くと左に洞隣寺(写真)がある。1580(天正8)年の開山で、開基は刈谷城主水野忠重とされる。ここの墓所には何度直しても反対側に傾くという豊前(大分県)中津川藩士の墓があるという。私にはとても苦手な話である。
ここの境内はきれいな玉砂利が敷かれいて気持ちがよかったので、石に腰をかけて靴を脱ぎ真綿、包帯など親指などを保護していたものを全部取り替えてた。缶ビールを1本慌てて飲んで次へ出発した。歩きにはビールはかかせないので、常に缶ビールは携帯している。
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歩くとすぐ右の道端に、「旧「芋川」の地 ひもかわうどん発祥地」書かれた標識(写真)が立っている。江戸時代に東海道名物として、いも川うどんがあったが、この名物うどんは「平うどん」でひもかわうどんとして現在に残っている。H2.2.8TBS「いいたび日本」の番組で、ひもかわとおり、として紹介されたという。
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今岡、今川と続くのどかな町並みを歩いて今川町交差点で1号線を斜めに横断して、しばらく行くと境川にかかる境橋(写真)に出る。
この橋が三河国刈谷市と尾張国豊明市の境界となり、豊明市を経て名古屋市の鳴海宿へ向かうことになる。 |
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