尾張国名古屋市緑区鳴海町
鳴海宿から宮宿へ
江戸日本橋から鳴海宿まで 341.1km、鳴海宿〜宮宿間 6.5km
                                          
この区間は、2002.12.6池鯉鮒宿から引き続いて歩いた。
道中は有松の町並み以外あまり見るべきところもなく、淡々とて歩いた。
ただ豊明市の「前後」という町の名前はどういういわれで付けられたのであろうかと、
今でも気になっている。
豊明市の鏡橋前後町名古屋市有明町鳴海宿天白橋宮宿へ

鳴海宿鳴海は古くは成海とも書き海に面していたが、今は土砂の堆積で海は遠く離れてしまった。
鎌倉時代は鎌倉街道が通り、戦国時代は織田・今川両勢力の接触地点で、鳴海城が設けられた。
江戸時代から始まった木綿の鳴海絞は東海街道の名産品として人気をはくし、現在も伝統産業として続いている。
 本陣:1、脇本陣2:、旅籠68:、人口:3,643人

   
 境川にかかる境橋で刈谷市から豊明市に入り、橋の途中から境川(写真)の上流を見るとこの季節どこでも同じように一面茶褐色であった。
   
 境橋を渡って下って少し行くと、左手の国道1号線と合流し西北へ約2.3km歩くと道は分岐し、1号線は直進し、旧東海道は左の方へと進む。分岐点から300mほど行くと道の南側と北側に阿野一里塚(写真)が現存している。南塚(写真左)は132.2u、北塚(写真右)は165.3uと規模は大きくないが、昭和11年に国指定史跡となった。
   
 一里塚から坂道を登っていくと右にシャレた感じの建物が見えたが、ここは何かおわかりでしょうか。なんと坂部善光寺(写真)という立派な寺院です。東海道を歩いていていると、外観がとてもユニークな寺院がところどころに見受けられたが、やはり宗教も時代とともに歩んでいる証拠なんでしょう。ここは前後町という珍しい地名で、さらに少し行くと坂道の頂上と思われるところの左手に名鉄名古屋本線前後駅が見える。
   
 坂道を下り阿野一里塚から約2kmのところで1号線と再度合流し、名鉄のガード下をくぐるとすぐ右手に名鉄名古屋本線中京競馬所前駅(写真)が見える。
   
 200mほど歩くと高徳院の大きな看板が立っていて、そこから左の道を登ったところに桶狭間古戦場跡公園がある。看板の前を直進して10m行って斜め左に分岐するのが旧東海道で、1号線と別れて狭い舗装された道を歩く。実は1号線と合流したところから、豊中市と名古屋市の境を歩いていて、道は豊中市で道の右端からは名古屋市になっている。そして再度1号線と別れて入ったすぐのところで、豊中市から名古屋市に入ることになる。名古屋市の緑区有松町の町並み(写真)を約300m行くと、再度1号線に合流し少し行った先から横断してガソリンスタンド脇から右の道に斜め入る。
   
 ここからは有町の町並となるが、江戸時代の有松は池鯉鮒宿と鳴海宿の間に位置し、茶屋集落として有松絞りとともに発展した村である。有松絞りは1608(慶長13)年竹田庄九郎が豊後の絞染からヒントを得て考案されたものである。今でも表通りには連子格子の家並みが続いている。
町並みにはいり目にするのが、道の右側にある町屋建築の遺構で、有松における絞問屋のして代表的な
服部家の建物(写真右)である。服部家の屋号は井桁屋(写真左)である。
   
 その先の左側には、江戸時代の主屋を中心に明治、大正にかけて整備され、絞り問屋の伝統的形態を踏襲している竹田家の建物(写真)がある。特に主屋は塗籠造、書院、茶室とも建築的に優れているといわれ、屋号は笹加という。
    
古い家並み(写真)が続いている。
   
 町並みの外れにくると、一段高い民家に庭に、東海道開通当時からあった樹齢300年の名残の松の大木から育てたという2代目松(写真左)とその説明碑(写真右)がある。
   
 町並みを出て、名鉄線の踏切を渡って平坦な道を北西へ約1km歩くと、平部北交差点(写真左)が見えるので秋葉常夜燈(写真右)がある道が旧東海道となる。この常夜燈は鳴海宿の東入口の平部に建てられたもので、表には「秋葉大権現」、右に「宿中為安全」、左に「永代常夜燈」、裏に「文化三丙寅正月」の文字が刻まれている。1806(文化3)年に設置されたもので、大きく華麗な常夜燈は道中でも有数のものであったといわれている。
   
 交差点から500mほど町並みを歩くと扇川にかかる中島橋(写真右)に出る。橋の手前の左側民家の前に大きく目立つ飛脚と網笠の女性の石碑(写真左)があったが、謂れは不明。
   
 橋を渡るとすぐ右手の階段上に中島橋上から目立つ瑞泉寺(写真)がある。1404(応永11)年鳴海城主安原宗範の創建による。山門は1756(宝暦6)年に建てられた四脚門で、宇治の万福寺総門を模したもの。
   
どこか昔のたたずまいを感じさせるような鳴海の町並み(写真)を歩くと本町交差点に出る。
   
 旧東海道は直進であるが、交差点を右折して坂道を50mほど上るとUFJ銀行の隣に、天神社の石碑(写真があり、階段がある。
   
 階段を上ると正面に、「史蹟 鳴海城跡の碑(写真右)とその後ろには芭蕉の句碑が3基あり、左手奥には天神社(写真左)がある。鳴海城は根古屋城ともいい、1394〜1428(応永年間)に安原宗範が築城した。1560(永禄3)年の桶狭間の戦いでは今川義元軍の武将岡部元信が、この城で織田軍と戦った。その後織田信長の手に渡り1590(天正18)年に廃城となった。
   
 交差点に戻る下り坂の反対側には、約400年前の天正年間に仁甫和尚によって開創された庚申山圓道寺(写真)がある。尼寺院とわかりどうしてもカメラにおさめたかった。女性には弱い。
   
 交差点にもどり東海道マップを頼りに本陣跡碑(写真)を探したがどうしても見つからない。あちこちの商店の人たちに聞いてようやく、信号からすぐ近くの阪野家電店の車庫の前にあったが現在は無いという。しかたなく車庫前をカメラに撮った。どこでもそうであったが、史蹟などを地元の人たちに聞いてもよほど有名なものでない限り、わからないと言う返事が殆どであったが、我が身を振り返ってみるとやはりしょうがないことだと思う。
   
 信号から直進すると丁字路になり、右折してから北へ700m程行って町並みを外れたところの三叉路角に丹下町常夜燈(写真)がある。鳴海宿の西入口の丹下に設置されたもの。表に「秋葉山大権現」、右に「寛政四年」、左に「新馬中」、裏に「願主重因」と刻まれている。平部とともに宿の東端と西端の双方の常夜燈が残っている貴重のものである。
   
 さらに北へ400mほど行くと、千句塚公園前の山王山交差点になるが、その手前の右側傾斜面に鉾ノ木貝塚跡(写真)がある。縄文時代前期の貝塚で貝層はハイカイが主で、土器類も多数出土している。
   
交差点を左折して西へ500mほど行くと、天白川にかかる天白橋(写真)に出る。
この橋を渡り宮宿へ向かうことになる。
                                        
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