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尾張国名古屋市熱田区
宮宿から桑名宿まで |
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江戸日本橋から宮宿まで347.6km、宮宿〜桑名宿間 海上27.3km(7里) |
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この区間は、2002.12.6池鯉鮒宿、鳴海宿に引き続いて歩いた。
七里の渡しと聞くと、ここまで来れば何故か一つの区切りがついたような気がした。
余談であるが東海道53次を歩くことは、
江戸日本橋〜京都三条大橋までの距離を1日の平均歩行距離30km/日で割れば
500km÷30km/日≒17日程度で完歩できるという計算が成立する。
この30km/日は、私の場合HPの取材のためスピードダウンするためで、
普通の人であれば40km/日くらいで歩けるはずであるから、
12日くらいで一気に歩けると思う。
いつの日か、私はホームページと関係なく
この東海道53次を思う存分に10日くらいで一気に歩き去りたいと思っている。
その日が待ちどうしい。 |
名古屋市天白橋→笠寺一里塚→山崎橋→熱田橋→伝馬町→七里の渡し場→桑名宿へ |
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宮宿:宮とは、熱田宮すなわち熱田神宮の略で熱田宿ともいう。熱田神社の門前町で、公的な文書では「熱田」とある。尾張藩では熱田奉行をおいて支配していた。
桑名宿への七里の渡し場、脇街道である佐野路・美濃路への分岐点、
さらに62万石城下町名古屋への表玄関として街道随一の規模であった。 なお里程は、東海道桑名宿へは海上7里、佐屋路の岩塚宿へは2里、美濃路の名古屋宿へは1里半であった。
熱田神宮は、伊勢神宮につぐ由緒ある大社で、ご神体は日本武尊ゆかりの草薙剣。
神域は19万uと広く、樹齢1000年という楠などの大木が多数あり、大都会の静かなオアシスとなっている。境内には名古屋最古の石橋で25枚の御影石で造られたという「二十五丁橋」、鉄砲の弾も通らないという瓦葺の「信長塀」、高さ8.25mの巨大な佐久間燈籠などがある。
七里の渡しとは、伊勢湾で挟まれている宮宿と桑名間の7里の距離の海上渡船のことである。朝の一番船は午前4時(明け七つ)で、暮れは七つ(午後4時)で停止された。したがって午後4時以降に宮宿へ着いた旅人はどうしても宿泊せざるを得なかったことも、旅籠の数が多い理由になっている。
宮から桑名宿までの海上の所要時間は、2時間とか4時間とか7時間もかかったという記録があり、天候などに結構左右されたと思われる。海路を嫌う人は伝馬町道標で右折して名古屋へ向かい、木曽川左岸の佐屋に出て、それから川舟で3里下って桑名へ行った。
本陣:2、脇本陣:1、旅籠:248、人口:10,342人 |
宿泊施設数 |
宿 場 |
本
陣 |
脇
本
陣 |
旅
籠 |
品川 |
1 |
2 |
93 |
小田原 |
4 |
4 |
95 |
浜松 |
6 |
0 |
94 |
岡崎 |
3 |
3 |
112 |
宮 |
2 |
1 |
248 |
桑名 |
2 |
4 |
120 |
四日市 |
2 |
1 |
98 |
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天白橋を渡り、西へ400mほど行き北西へ方向を変えた道の右側に笠寺一里塚(写真)がある。名古屋市内で現存する唯一つの一里塚で、高さ3m、直径10mの円丘上に、2.6m高さの榎がある。
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住宅街の中を北西へ約400m行くと、右に笠寺観音で知られる笠覆寺(写真)がある。733(天平5)年創建で禅光上人作の十一面観世音菩薩が安置されている。初めは小松寺と称したが円延長年間(923〜)に藤原兼平が堂宇を再興し今の寺号になった。現在の本堂は1763(宝暦13)年の建てられたもの。重要文化財が多くある。境内には暁台塚、翁塚、春雨塚、宮本武蔵の碑などがあるが、ちょうどこの日はお祭りの屋台(写真)が境内を占領していて、見つけることができなかった。
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寺の門前にある笠寺商店街(写真)を通って北西に直進して約400m行って名鉄名古屋本線の踏切を横断した先の交差点から右折して北へ進む。
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右折したあたりから、町名が「呼続」となり何と呼んだらよいか戸惑ったが、素直に「よびつぎ」でよいとのこと。閑静な町並みであるが寺院の多い。400mほど行くと、前面は「東海道」、左に「富部神社 塩付街道」の道標(写真)を左側にある。
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その先の左には、真紅色の清水稲荷神社(写真)のきれいな鳥居。
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さらに進むと、コーナーに東海道と鎌倉街道の道標(写真)がある。
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それから200mほど行くと右に村社 熊野三社の鳥居(写真)があり、その右脇には「東海道宿駅制定四百年記念」「がある。その碑面には「古来呼続一帯は四方を川と海に囲まれ巨松の生い茂る陸の浮島として「松巨嶋」(まつこじま)と呼ばれ、尾張の名所であった。ここには東海道が南北に通り、これに鎌倉街道が交差している。西側の磯浜は「あゆち潟」と呼ばれ、これが「愛知」の地名となったと言われる。芭蕉は「寝覚めの里よぶびつぎ」と書き記しこの地に足跡を残している。また山崎の立て場は、宮の宿より渡し舟の出港を呼びついだことから、「よびつぎ」の名前があると言われている。」
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熊野三社から少し先に行くと山崎川にかかる山崎橋(写真)に出る。
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山崎橋を渡るとすぐ左折して西へ進み、松田橋交差点では高速道路の通ると約300m先に内浜交差点(写真)がある。左側の側道を通ってJR東海道本線を渡ると道が分岐するので左手に入る。
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左の道の少し先に熱田橋(写真)がありこの辺から宮宿に入る。
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熱田橋を渡り名鉄のガード下を潜ると右側に姥堂(写真左)がある。その前の左階段脇には裁断橋址碑が、右階段脇の奥には都都逸発祥之地碑がある。姥堂は1358(延文3)年に法順上人が創建し、本尊姥像は熱田神宮から移したと伝えられている。昭和20年の戦災で堂宇、本尊とも消失したが、、姥像は高さ8尺もある坐像で、その大きさから奈良の大仏を婿にすると里謡に歌われたほどであった。昔から「おばんこさん」と親したわれていて、現在の本尊は平成5年に写真をもとに四尺の大きさに復元した像である。
裁断橋は、宮の宿の東はずれを流れる精進川に架かっていた。1590(天正18)年に18歳になる我が子を小田原の陣で亡くし、その菩提を弔うために母親は橋の架替えを行った。その後母親が亡くなったため養子が1622(元和8)年に建替えているが、この橋を有名にしているのはその宝擬珠に彫られた銘文(名古屋市博物館に保管)で、母が子を思う名文としてこの橋を渡る人に多くの感銘を与えた。銘文は次のとおり。「てんしやう十八ねん二月十八日にをだわらへ御じん、ほりをきん助と申す十八になりたる子とたゝせてより、又ふためとも見ざる悲しさのあまりに、いもこのはしをかける成。母の身にはらくるいともなり、そくしんじょうぶつし給へ。いつがんせいしゅんと後の世のまたのちまで、此かきつけを見る人は念仏申給へや。卅三のくやう也。」
都都逸発祥之碑は、1800(寛政12)年ころ、この地にしじみ汁を売る鶏飯屋という茶店があり、茶店の女中お仲とお亀が面白い歌を唄って客をもてなした。そのはやし言葉から「どどいつ」と呼ばれるようになったという。
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ここは伝馬町2丁目(写真左)の通りで、直進し熱田神宮通じる大通りを越えると伝馬町1丁目(写真右)となる。なお国道1号線は一本右の北側を走っていて、熱田神宮も1号線よりさらに北に位置した、ここから600mほど離れたところにある。
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1丁目を約200m行くと丁字路となり、その東南の角に如何にも古いとわかる道標(写真)がある。熱田神宮の西端は、江戸時代東海道と美濃路(または佐屋路)の分岐点で、重要な地点であった。この道標の位置は建立当時(1790年)そのままである。四面には次のように刻まれている。
東 北 さやつしま
同 みのち 道
南 寛政二庚戌年
西 東 江戸かいとう
北 なこやきそ 道
北 南 京いせ七里の渡し
是より北あつたご本社貮丁道
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丁字路の突き当たりには、小さなほうろく地蔵(写真)が安置されている。この地蔵はもとは三河国重原村(現知立市)の野原に中に倒れていたのを、焙烙売りが荷物の片方の重石としてこの石仏を運んできて、帰りに海辺のあし原に捨てて行った。地元の人が石仏を発見して安置しようとしたが動かないので、下を掘ってみたら仏の台座の角石が深く埋まっていたので、掘起して石仏を置いたのがこの地蔵である。
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丁字路を左折して行くと国道247号線に出るので、歩道橋で反対側に渡り直進し200mも行かないところに堀川沿いにきれいな宮の渡し公園に出る。ちょっと右手にあるのが七里の渡し場である。そこから堀川を見るといま正に太陽が沈む(写真左右)その時であった。何はさておきデジカメでその瞬間をとりまくったが、あいも変わらず腕の悪さで多少ともいれそうな写真を2枚計上した。時は16時16分であった。太平洋側で水の向うに夕陽が沈む光景を見ることができるとは思いもよらなかった。
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さて心落ち着き時の鐘と常夜燈(写真左)と七里の渡し場(写真右)を撮った。
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時の鐘(写真左)は1676(延宝4)年尾張藩主光友の命により、蔵福寺の時の鐘が設置された。正確な時刻を知らせるこの鐘は、熱田の住民や東海道を旅する人々にとって重要な役割を果たしていた。昭和20年戦災で鐘楼は消失したが、昭和58年に宮の渡し公園内に復元された。鐘自体は損傷を受けず今も蔵福寺に残っている。熱田湊常夜燈(写真右)は、1625(寛永2)年に熱田須賀浦太子堂に建立されたが、風害で破損したためこの地に移されて再建された。現在常夜燈はその後荒廃していたものを昭和30年の復元したのもである。
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公園の道を挟んで反対側に、丹羽家の建物(写真)がある。幕末の頃、脇本陣格の旅籠屋で正面破風付玄関は格式の高さを示している。建築年は不明であるが、1841(天保12)年の森高雅画の「尾張名所図会 七里渡船着」には当家のものと思われる旅籠が画かれている。
ここで、ちょど16持30分。桑名へは七里の渡し舟でなく、電車で桑名市へ行って宿泊することにした。桑名市であればホテルもそれなりにあるだろうから、宿泊場所を心配することもなく安心して近くの地下鉄駅を探して歩いた。
明日はいよいよ桑名宿を歩く。 |
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