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遠江国袋井市
袋井宿から見付宿へ |
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江戸日本橋から袋井宿まで230.4km、袋宿〜見付宿間5.9km |
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この区間は、2002.3.31掛川宿に続いてあるいた。
天気はよく少しは熱く感じたほどであった。
袋井宿は、ほぼ1年間前に歩いたときはとても整備されていて、
訪問客を喜ばせてくれる宿と言う実感があった。
この宿の売り物の一つは多分、ど真ん中袋井であろが、
これは東海道53次で日本橋から数えても、
京都から数えても27番目に宿と言うことを意味している。
前の掛川宿では、中道寺が測量でちょうど中間ということであったが、
いぜれにしても東海道の真ん中はこの辺なんであろう。 |
掛川市同心寺→久津部一里塚→市役所→宿場→御幸橋→木原→磐田市へ |
袋井宿:袋井宿は徳川幕府が宿駅制度を定めてから15年遅い1616(元和2)年にできた宿である。その理由は通常宿間の距離は平均2里あまりであったのが、掛川と見付宿間は4里に近かったため、間に袋井が設けられた。袋井宿の町並みは約570mしかなく、東海道宿でもっとも短かった。
袋井宿はまた遠州三山が有名で、法多山尊永寺は遠州高野山と言われる古い寺院で厄除けで知られている。万松山可睡斎は日本唯一の火坊霊場であり、医王山油山寺は眼病治療で有名であった。
本陣:3、 脇本陣:0、 旅籠:50 人口:843人 |
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原野谷川にかかる同心橋を渡ると、道路上に袋井市の標識(写真)が掲げられている。
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橋を渡るとてすぐ1号線と別れて左に折れると、ここは「名栗 花茣蓙公園」と書かれて小さな公園(写真)がある。江戸時代には、旅人が休息する場所として知られ特に花茣蓙(はなござ)で有名であった。「東海道中膝栗毛」には、旅籠もあり名物花ござを売る店が軒を連ねるほど繁盛していた、とある。
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公園から数百m行くとフェンスの脇の歩道は、松並木と桜の木に囲まれて延々と続く快適な道(写真)であった。なお道路を挟んで右側には工場の建物が平行してあり工場地帯でもある。
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そのうち突然右側に真っ赤な鳥居が現れてびっくりする。これは富士浅間宮赤鳥居(写真)で、本殿は鳥居の左側の道を北へ800mほど行ったところにあり、桃山時代の建築物で国の重要文化財となっている。
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赤鳥居から1kmほど歩いた右側の奥まったところに、妙日寺(写真)がある。ここは日蓮上人の曽祖父の政直から重忠まで4代の屋敷跡で、重忠夫婦の墓が祀られている寺である。また境内には遠州七不思議のひとつである「片葉の葦」があるはずであるが、当日は境内では大仰な行事が整然と執り行われている真っ最中で、私のような服装ではとても山門を入ることがはばかれたので遠慮した。
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さらにちょっと行くと左側の袋井東小学校(写真左)の校庭に久津部一里塚(写真右)がある。この塚は昭和48年に袋井東小学校創立百周年記念で復元したものとのこと。
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妙日寺から800mほど行く十字路があり、その左側に法多山へ5kmの道標石碑(写真)がある。何故かこの通りにはいろいろな道標が多い。
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十字路から約300m行くと右に七つ森神社(写真)がある。桜の花で彩られたこの神社には次のような伝説が伝えられている。桓武天皇のころ日坂宿に出没する怪鳥を退治するため朝廷から派遣された7人の武士は,退治できず返り討ちにあい命を落としてしまう。哀れに思った村人が墓を作り彼らを葬ったといい、その墓が7つ森だという。
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7つ森神社から道なりに西は1.5kmほど歩くと、袋井市役所(写真)前に出る。
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市役所前をまっすぐ道なりに行き、広岡排水路にかかる新屋橋手前から右に曲がるのが旧東海道となる。その先の左側に袋井案内板「ここより袋井宿」の石柱(写真)が並ぶ。
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そこから20mほど行くと丁字路になり、排水路にかかる左の天橋(写真)を渡ると右には小さな公園(写真)があり、宿の案内板、標識、赤い幟とともに昔風に模した茶屋も準備されている。公園を過ぎるとすぐ道は二つに分岐するが、左の細い道が旧東海道である。
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分岐してから300mほど歩くと、右側の整備された空き地に大石内蔵助・他赤穂浪士宿泊地と書かれた立看板と駕籠が置いてある。駕籠の右にある案内によるとここは東本陣跡(写真)ということで、正面に見える柱は復元された門ということである。一見すると駕籠ばかりが目立つ史跡である。
平成3年の発掘調査で建物の一部が発見された本陣で、火災の跡もあったので何度も立て直されていると考えられている。
袋井宿には、西、中、東の3つの本陣があり、東本陣は代々八郎左衛門を名乗る田代家が営んでいた。敷地は1,068坪、建坪288坪、間口13間半、奥行き31間という大規模なものであった。本陣に許されていた門構えと玄関が復元されている。
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東本陣跡から50m行くと十字路に出る。その左コーナーの小さな袋井宿場公園には、「どまん中袋井宿」の町作りに関連するものが備えられている。東海道53次で、袋井宿は日本橋からも京都からも数えるとちょうど27宿目になるので、どまん中という表現が使われている。訪ねたときは袋井宿のあちこちにこの表現が見ることができた。
十字路を右へ行くと、日本唯一の火防守護で秋葉信仰の総本山である、可睡斎がある。ここだけは是非訪れたかったが、片道3kmの道のりで往復2時間はかかると思われたので、この世知辛い旅にはとても許してもらえる時間がなく、やむなく次の機会に譲ってしまった。でも何時いけるのだろうか。なお可睡斎とは、11代住職が徳川家康に招かれたとき席上で居眠りを始めたが、家康は笑って「和尚眠る可し」と言ったところから、寺の名がついたという。
十字路を横断するとすぐ左に問屋場(人馬会所)跡石碑(写真)がある。
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横断して200mちょっとで仲之川にかかる御幸橋へたどりつく。その手前の左のコーナーに秋葉山常夜灯のある本町宿公園(写真)がある。
秋葉山常夜灯は火伏の神様、秋葉山三尺坊大権現に対する庶民信仰で江戸時代に入る盛んになる。特に東海から関東地方にかけて数多くの秋葉講が生まれ、各地に分社や常夜灯が建てられた。
ここのある常夜灯は、もと東海道の北側にあり、南側約50mの円信寺跡には1800(寛政12)年に建立された常夜灯が今でも残っている。
この公園には、「従是 袋井宿」の木製標識があるので、ここが西の入口なのであろう。
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後ろを振り返ると今来た宿の町並み(写真)が見えた。今(2003.3.8)から1年前歩いた記憶では、とても整備されていて、いたるところに訪問客をもてなす気配りのしたすばらしい宿であった。ただ手元の写真をベースで改めて考えると、史跡など少なくあっという間に過ぎてしまう宿であるような気がする。そういうハンディーを感じさせないほど、地元のエンターテイメントに対する取り組みが熱心なんだと思う。
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御幸橋を渡り道なりに西方へ約500m行き川井バス停脇のすぐ左側に、白っぽい建物(写真)がある。これは袋井市の指定文化財で旧澤野医院の建物である。この医院は、澤野家が幕末から昭和初期までに建築した4棟の建物群で、居宅は純和風で幕末から明治初期、病棟、渡り廊下、洋館は洋風で昭和初期に建築されたもの。東海道に面した医療建築施設として類例が少なく貴重な存在ということである。
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そこから200mほど行くと国道1号線と合流し、さらに約500m行くと用水路にかかる木原松橋渡って、1号線と別れ右の細い道に入り1号線と平行して歩く。しばらくすると右に最近原寸大に復元された江戸から61番目の木原一里塚(写真)がある。
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そこから少し行くと、右手に1572(元亀3)年に武田信玄と徳川家康が戦った古戦場木原畷へ行く細い道があるが、片道400mであったので行くのはとりあえず断念した。
さらにちょっと行くと右に郷社許禰神社(写真)がある。この入りぐちのすぐ左に、徳川家康が関ヶ原の戦いに訪れた時に腰をかけたという石(写真)がある。
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旧東海道は約400mバイパスして再び1号線と合流し、ちょっと歩くと目の前に磐田市の境界看板(写真)が出現する。ここからは見付宿へ向かうことになる。 |
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