遠江国磐田市見付
見付宿から浜松へ
        江戸日本橋から見付宿まで236.3km、 見付宿〜浜松宿間16.4km
   
この区間は、2002.3.31袋井宿からの続きで歩いた。
天候は引き続きよかったので歩きやすかった。
太田川にかかる三ヵ野橋を渡ると1号線と別れて、
人通りの全くない山道のようなところを歩くことになったが、
やはり怖くなって一部道順を変えてしまった。
何が怖いかと言われても、説明がつかないけれど。
具体的に怖かったところは天竜川にかかる天竜川橋をわたるときで、
ダンプなどがビュンビュン走る交通量の激しいところであるが歩道がない。
ここは身の危険を感じて、タクシーを呼んで渡った。

江戸からこのあたりまで来ると、史蹟などの標識は、
西から来る人に見やすいように掲示されているように思われた。
磐田市三ヵ野橋→見付宿→Jr磐田駅前→豊田町天竜川渡船場跡浜松市へ

見付宿:西から東へ旅する人が初めて富士山を見るのがこの見付の宿であったということから、見付という名前も富士を「見つける」からきたと言われている。見付宿は大火や地震などで昔の面影を残しているものは少ない
 本陣:2、脇本陣:1、旅籠:56、人口:3,935人

   
 旧東海道は国道1号線と合流して進むと磐田市の境界看板(写真)が現れ、ここから見付宿へ向かう。
   
 磐田市に入り約1km歩き太田川にかかる三ヵ野橋を渡ると、1号線と別れ左折して裏道に入る。ちょっと歩いて右折してガソリンスタンドの裏に出ると十字路となるが、この交通量の激しい道には信号がないので左右を用心深くみながら一気に走り横断した。そのまま1号線と平行したひっそりした松並木の道(写真)を西南へ歩く
    
 すると左に、鎌倉の道の標識(写真)が現れる。鎌倉の古道への道標であるので目的は江戸時代の道であるので、さらにまっすぐ歩く。
    
 だんだん登り坂になり山道へ入るが、全く人通りがなく、心が怪しい雰囲気になる。とそのとき左足元に江戸古道の道標の石(写真)が現れたが、その先を見るととても薄暗い道で自分は古い道でなくてもよいと言い聞かせてまっすぐな明治の道を進む。そのうち道なりに左に曲がり江戸古道と合流する。従ってこの間100m程は旧東海道を歩いていないことになるが、臆病な私に免じて許してもらいたい。
    
 合流する角の民家の空地には、明治の道標の石、鎌田山薬師堂への道標の石柱、車井戸の跡(写真)が一緒になってある。ここで道なりに右へ曲がり、進む。
   
 国道1号を右下に見て磐田原台地の道を歩くとやがて下りになり、そして再び上り坂となり松並木が現れる。1kmほど歩くと国道1号線と合流し、歩道橋を渡って1号線の右側歩道を歩く。200mほど歩いたところで1号線と別れて右の道に入り、三本松の急坂を下って行くと秋葉山常夜灯(写真)が左にある。なんとなく久しく出会わなかったような気がして、懐かしく思った。
   
 1号線から別れて約500m歩いて坂を下り切った左に、江戸から62里の阿多古山一里塚跡の案内板(写真)がある。跡石碑は階段を上ったところにあるが、訪れることは割愛した。
   
 道を挟んだ反対側には、見付宿木戸跡(逆光で読み難い)の標識(写真)がありここから宿に入ることになる。
   
 木戸跡から右に曲がって市街を歩くと、右側のJA看板の脇に高札場(写真)が復元されている。
   
 さらに中川橋を渡って歩いて行くと、右に大見寺の看板の脇に大きな東海道見付宿石標(写真)がある。
   
 さらにその先の右側に問屋跡標識(写真)がある。
   
 さらにちょっと行くと右側に本陣跡の標識(写真左)、道路の反対側には脇本陣跡の標識(写真右)がある。
   
 見付宿の町並み(写真)で、歩道にはこのような行灯が並べられている。
   
 本陣跡の次の交差点を右に入るとすぐのところに、淡海国玉神社に接して左に旧見付小学校の白い建物(写真)がある。この建物は明治8年に建てられ、2階建の屋上に2層の楼がおかれていた、その後明治16年に3階部分が増設された。、現存する日本最古の木造小学校校舎として国の史蹟に指定されている。現在は教育資料館として利用されている。
   
 元の道に戻り400mほど歩くと十字路になるので、左折して南へ歩く。なお直進して西へ行く細い道は浜名湖の北を迂回する姫街道の起点となる。
 左折するとすぐの所に
木戸跡の標示(写真)があり、ここが宿の西の入口となる。なお本陣跡などいろいろ標示があるがこれらの中で現在遺構が残っているものはない。
   
 さらに進むと加茂川バス停からちょっと先で、左の細い道に入るがすぐまた元の道に戻り左折した、十字路から約600mの左側に府八幡宮(写真)がある。奈良時代に遠江国司の桜井王が国府の守護神として勧請した神社といわれ、大鳥居をくぐると桜門、中門、拝殿、本殿と続く。建立年は桜門は1635(寛永12)年で県指定文化財、中門は同じく1635年で市指定文化財、拝殿は1635年、本殿は1617(元和3)年に再建されてそれぞれ市指定文化財となっている。
   
 道を挟んで反対側には、遠江国分寺址(写真)がある。741(奈良時代)年に聖武天皇の詔によって建立されたもので、寺域は180m四方ある。七重の塔の礎石などが残り国の特別史蹟に指定されている。
   
 そこから約1km直進するとJR磐田駅前(写真正面)に出る。そこから旧東海道標識のある食事処の角から右折する。
   
 そのまま道なりに市街地を通り抜けて、磐田市から豊田町へ入り、さらに寺谷用水路にかかる万能橋をわたり、約2km行ったところの経済連バス停前に江戸から63番目の宮之一色一里塚(写真)がある。この塚は昭和46年に復元されたもの。
   
 さらに1km行くと右に若宮神社(写真)がある。ここでは毎年10月の例祭に大相撲の力士を招いて奉納相撲が行われることで知られている。
   
 神社から約400m行くと天竜川土手の手前で十字路になり、そのコーナーの東海道道標の脇に長森かうやくの立札(写真)がある。
長森かうやくとは、江戸時代の1658〜1660年に山田与左作衛門家で作り始められた家伝薬で、あかぎれや切り傷などに抜群の効能があり、参勤交代の一行や東海道の旅人に大変人気があった。この製法は当主与左作衛門が夢枕にたった神様からのお告げで始めたと伝えられ、代々当主が受け継いできた。現在は作られていない。

   
 十字路を右に曲がり天竜川沿いに北へ行くと天竜川渡船場がある。
その前に右折して150m行った1本目の十字路を左に曲がると、右側の民家の一角に
天竜橋跡の標示板(写真)がある。天竜川は長い間渡船で通行していたが、明治7年に明治天皇の東幸の際に船橋が作られた。その後明治9年に全長1,163m、幅3.6mの本格的な木橋が開通した。昭和8年に国道に現在の天竜川橋ができたためこの木橋は撤去されたが、昭和48年に木橋の位置を末長くとどめるため跡碑がたてられた。
   
 元の道に戻り国道1号線、磐田バイパスを横断して約1.1km行って、左に入った天竜川土手の中ごろに天竜川渡船場跡石碑(写真)が堂々とあった。江戸時代よりはるかに古い927(延長5)年ころから、この地が渡船場であった。
 対岸の浜松へ渡るため、来た道を戻ったが天竜川に並んでかかっている天竜橋と新天竜川橋とも、交通量が激しくかつ歩道がないため、とても身の危険を感じてしまった。東海道マップには、歩行は危険だからバスを利用するようにと、記載されているが、そのバスは1、2時間に1本と言う具合で待ち切れない。仕方なく電話でタクシーを呼んで、安全に渡った。
 橋の途中で、豊田町から浜松市へ入り浜松宿へ向かうことになる。
                                        
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