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伊勢国亀山市
亀山宿
から関宿へ
江戸日本橋から亀山宿迄408.7km、亀山宿〜関宿間5.9km   
この区間は、川合町〜本町は2002.12..10に、   
本町以降はそれより早く2/21に歩いた。
12.10は小雨であった。
2/21はとても天気がよく、ぽかぽかの陽気という表現そのものであった。
        従って、その日は陽気のせいもありのどかな道を、
     のんびりと歩いて心の洗濯をしたという気分であった。
亀山市川合町本町野村町

亀山宿:江戸日本橋より46番目の宿駅。亀山は中世からの宿で1601(慶長6)年に江戸幕府が宿場を整備したときに、宿駅に定められた。亀山は城下町であるとともに、藩領内に幕府直轄の宿場が置かれたので、参勤交代で通る大名達は亀山宿に宿泊するのを遠慮したという。
  
本陣:1、脇本陣:1、旅籠:21、人口:1,549人
    
 JR関西本線の踏切を越えると鈴鹿市から亀山市になる。小雨の中を左側に関西本線を時折見ながら南西へ約2km歩くと、左に和田の道標(写真)がある。道標には「従是神戸 白子若松道」と刻まれていて、東海道から旧神戸道に分かれる所に立っている。1690(元禄3)年に設置された亀山市内では現存する最も古い道標となっている。
   
 道標から100mほど歩くと、一旦1号線と合流するがすぐ別れて西へ向かうと、なだらかな登り坂(写真)が延々と続く。
   
 600mほど登ると右に和田一里塚(写真)のとても目立つ木がそびえたっている。昭和59年の道路拡幅でそれまであった塚が消滅したため、模式復元した1里塚である。
    
 道はやがて平坦になり、700m行くと本町商店街(写真)に入る。
   
 道なりで商店街を通り抜けると丁字路になりその左隅に、江戸口門跡(写真)と書かれた張り紙の立看板があり、この地が亀山城の城門であったことを示している。
   
 丁字路を右に直角に曲がると東町商店街に入り、しばらく行くと左に樋口本陣跡の立札(写真)がある
   
 そこから数十m行くと右に江ケ室交番があるので、その前で左折してアンツーカで舗装された道(写真)を下っていく。
   
 坂道の突き当たりを右に曲がるとすぐの左側に、遍照寺(写真)がある。この本堂は明治初期に消失したとき、亀山城二之丸御殿玄関部分を移築して再建したもので、江戸時代の殿舎建築の姿を今に伝える貴重な遺構となっている。
   
 道なりに歩くと本丸町の交差点に出る。旧東海道は直進であるが右に折れて、約300m先にある亀山城址に立ち寄った。途中右側の公園の道路に面したところに石井兄弟敵討碑(写真)がある。これは昭和8年に建立されたもので、この地で1701年(元禄14年)5月9日に石井源蔵、半蔵兄弟が28年目に父の敵赤堀水之助を討ち取ったところで、この敵討ちは「元禄の曽我兄弟」と称され日本中に広まり称賛されたという。
   
 緩い坂道を少し行くと、左手に亀山城址(写真)が見える。亀山城は1590(天正18)年岡本良勝によって築城され、天主台南門高石垣は直高14.5m野面石(自然石)積したもので堅固・優美さを備えて400年の風雪に今も耐えている。白髪の櫓、門、土塀などを連ねる景観を蝶の群れが舞う姿にたとえられて、「粉蝶城」と呼ばれた。現在は天主台、多門櫓、外掘、土塀の一部を残すのみとなっている。
   
 もとの道へ戻って、西へ向かってあるくと車も、人も通らない本当にのどかな町並み(写真左)に出会った。そして各家には江戸時代当時の屋号(写真右)の書かれた立札があった。これは地元の「きらめき亀山21町並み保存会分科会」が歴史的たたずまいを復活させるために、屋号の立札をつくり該当する家に立ててもらっているもので、町の人々も屋号で呼び合って暮らしているとのこと。
   
 のんびり歩いて行くと、交差点から500mほど行った崖の右手前に京口門跡標柱(写真)がある京口門は1672(寛文12)年に亀山宿の西端、滝川左岸崖上に東海道の番所として築かれもので、亀山城の一部としての機能も備えていた。崖下から見上げると、門、番所のそびえる姿は壮麗を極め、「亀山に過ぎたるものの二つあり、伊勢屋蘇鉄に京口ご門」と謡われたという。また安藤広重の「東海道53次」の雪晴の舞台になっている。
   
京口ご門跡碑から約500m行くと左側に慈恩寺(写真左)がある。慈恩寺は聖武天皇の728(亀神5)年に行基が勅願により創建したと伝えられる古刹で、かっては7堂伽藍を備えた大寺であった。現在の堂宇は1829(文久9)年に竣功したもの。境内(写真右)には薬師堂、筆塚がある。
   
本堂には国指定重要文化財で等身大の阿弥陀如来像(写真)があり、平安初期彫刻の特徴をよく表している。なおこの陀如来像は、もともとは薬師如来像であったもものを、その手を代えて阿弥陀如来にしたという。仏さまも、いろいろ変化させられてびっくりさせられたことであろう。
   
 全く車の通らない道を、心地よい太陽の光を浴びながら淡々と400mほど歩くと、右側にとても大きな木が見えてくる。ここは野村一里塚跡(写真)で、1604(慶長9)年徳川家康の命で亀山城主の関一政が築造したもので、一辺が約9mの石垣で囲まれた約3m高さのに盛土の上に、周り6m、高さが33mの樹齢400年という椋の巨木が立っている。県下に一縷塚で現存するのはここだけで、国指定史跡となている。
   
 のどかな道をさらに歩いて行くとの左側の道路際に、史跡 大庄屋打田権四郎昌克宅跡の石(写真)がある。昭和61年に建てられたものであるが、どういう謂れがあるものかは不明。
   
 野村一里塚から約700m歩くと道は丁字路になり、旧東海道は直角に曲がる右手になる。そこから少し歩くと左側に長い参道の布気皇舘太神社(写真)がある。この神社のご祭神は天照大神、菅原道真をはじめ22の神々のオールキャストで恐れ多い神社と、遠くから拝礼した。
  
 さらに歩いて行くと、道は坂になり下って国道に出る頃にふと下を見ると、きれいな絵模様のマンホール蓋(写真)があった。思わず写真をとりたくなるような素敵な絵柄であった。
   
 国道と並んで走るJR関西本線を跨線橋で渡ると、鈴鹿川に沿った大岡寺口畷(写真)が目の前に現れる。畷とは、縄を張って真っ直ぐな道を作るということであるが、その名の通り見事に真っ直ぐな道路である。恐らく1.5kmはあると思う。昔は松並木で、現在は桜並木となっている。
   
 通常は鈴鹿おろしの風でほこりが舞い上がっているという、真っ直ぐな道を700mほど歩くと国道25号線の亀山大橋(写真左)にくる。この高架下の両側の壁には、100倍の大きさに拡大された広重の絵パネル(写真右)が7枚飾られていて、目を楽しませてくれる。
   
 遠くに鈴鹿山脈(写真)を見ながら、左側の鈴鹿川に沿って行くと、やがて鈴鹿川の支流にかかる小野橋を渡る。ここから関宿となる。
   
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