伊勢国鈴鹿郡関町
関 宿
から坂之下宿へ
     江戸日本橋から関宿まで414.6km、 関宿〜坂之下宿間6.5km
                 
この区間は、2002.2.21に亀山から引続きと翌2.22の両日にかけて歩いた。
21日は天気が良かったが、22日は小雨降るあいにくの日であった。
関宿を縦断する旧東海道は国道1号線と並行に走っている。
関宿はとてもよく整備され、古い建物も昔のまま保存されていて、
一見の価値が十分ある。
私が今回歩いた中では、袋井宿、土山宿とともに
快適な観光地として推薦したい宿であった。
関町小野東追分西追分関町市ノ瀬

関宿:関町は古代から東海道、伊勢別街道、大和街道の分岐した交通の要衝であり、古代三関の一つ「鈴鹿の関」がおかれていた所である。関の名もこの鈴鹿の関に由来している。
江戸時代には47番目に宿場町として参勤交代や伊勢参りの人々などで賑わった。東西追分の1.8km間に江戸時代から明治時代にかけて建てられた約200軒の古い町並みが残っている。
旧東海道で唯一歴史的な町並みが残る宿として、昭和59年国から重要伝統的建造物保存地区に選定された。江戸期の特産物はこんにゃくと火縄であった。      
古代3関とは、646(大化2)年に創設され、不破の関(美濃)、愛発(あらち)の関(越前)と鈴鹿の関。
  本陣:2、脇本陣:2、旅籠:42、人口:1,942人

   
 国道1号線と合流して小野橋を渡り約200m行くと道は二つに分かれる。右手の狭い登り道が旧東海道になる。少し登って行くと関の小萬のもたれ松(写真)の案内板がある。江戸中期、久留米藩士牧藤左衛門の妻が、夫の仇を討つため旅を続けて関町の山田屋に止宿したさい、一女小萬を産んだ後病死した。小萬は遺言にしたがい成人して亀山城下で武術を修行して、1783(天明3)年に、見事仇敵軍太夫を討ち果たした。当時亀山通いの小萬が若者のたわむれを避けるために、姿をかくしもたれたと伝えられた松がこの場所にあったことから、小萬のもたれ松と呼ばれるようになった。
関の小萬の亀山通い 月に雪駄が25足」(鈴鹿馬子唄)

    
 そこから500m程歩くと左に分岐する道の入口に東追分一の鳥居(写真左)がある。ここは旧東海道と伊勢別街道の分岐点で関西からの伊勢参りはここから向かった。この一の鳥居は伊勢神宮を遥拝するために建てられたもので、現在のものは昭和52年に内宮宇治南橋詰めの鳥居が移されてきたもの。周りに一里塚跡碑(写真右)、常夜燈などもある。
   
 東追分から、関町に入るときれいに手入れされたほぼ真っ直ぐな道路(写真)が、西追分までの約1.8kmにわたって続いている。道の両側には昔ながらのたたずまいが並び、またお馴染みの電柱やテレビアンテナがなく、とてもきれいな町並みである。この静さはまさに江戸時代に戻ったような錯覚を覚える。道路には凍結防止剤の入った箱があちこちにおいてあったが、多分冬の寒さの厳しいところなのであろう。
   
 町の中を歩いて行くと、右手コーナーの小さな広場に御馳走場案内板(写真)がある。ここは関所に出入りする大名行列の一行を、宿役人が衣服を改めて出迎えたり見送ってたりした場所である。また大名行列もここから毛槍をふりたてて本陣まで行列した。
    
 さらにそのコーナーから右に入ると、突き当たりに関神社(写真)がある。この神社は江戸時代は熊野皇大権現と呼ばれていた神社で、ご祭神は天照大神はじめ33の恐れ多き神々である。
   
 町並みに合わせた意匠の第百五銀行の前を通り、さらに十字路を横断して行くと右手に入る道があり、その突き当たりに瑞光寺がある。この境内には徳川家康が上洛の折り関宿に立ち寄った時、賞味したと伝えられている権現柿の木(写真)がある。
   
 もとの道に戻り関まちなみ資料館を左に見ながらちょっと行くと、右側に鶴屋の建物(写真)がある。この鶴屋は、玉屋会津屋とともに関宿を代表する旅籠で、江戸時代の終わりには脇本陣もつとめた。座敷の前の千鳥破風がその格式を示しているという。
   
 すぐその先の右に川北本陣跡碑(写真)がある。
   
 その斜め前の反対側には、ひときは目立つ真新しい造りの百六里庭・眺関亭(写真)がある。この玄関を入るときれいな小公園になっている。関宿が江戸から百六里余りあることからこの名がつけれた。またこの2階の眺関亭からは関宿の町並み(写真)が一望できる。
   
 さらにその数軒先の左側にはいとう本陣跡碑(写真)がある。
   
 玉屋、郵便局の前を通って少し行くと、右に入る細い道があり、突き当たりには織田信長の3男の織田信孝の菩提寺である福蔵寺(写真)がある。また境内には仇討ちで有名な関の小萬の墓と記念碑(写真)がある。
   
 もとの道に戻って少し歩いて十字路を過ぎると、左に威厳を感じさせる地蔵院の本堂(写真右)がある。この地蔵院は、741(天平13)年行基が伊勢参宮の帰途、三尺1寸の地蔵菩薩像を刻み、お堂を建てたのが始まりと伝えられている。本堂、鐘楼(写真左)、愛染堂の3棟が国の重要文化財に指定されている。「関の地蔵に振袖着せて、奈良の大仏婿に取ろ」と俗謡で名高い寺で、本堂の金網から覗いて見たら確かにとてもやさしい表情のお地蔵さんであった。なおこの地蔵さんは日本最古とのこと。
   
 地蔵院の前の道路を挟んだ反対側には、代表的な旅籠の一つの会津屋(写真)がある。もとは小萬が育ったことで知られる山田屋であったところである。
   
 さらに700mほど歩くと左側の国道一号線と合流する。その合流点の三角地帯は小さな広場になっていて休憩施設があり、また関宿の西の入口にあたる西追分の看板(写真)が立っている。西の追分は加太峠を越えて伊賀上野・奈良に至る大和街道(現国道25号)との分岐点である。
   
 国道1号線と合流するとすぐ南へ分岐する大和街道あるが、旧東海道は一号線をまっすぐで、正面に雨に曇る山々(写真)を見ながら歩く。約900m行った地点で1号線と分かれて右の細い道に進み、鈴鹿川にかかる市ノ瀬橋を渡ると坂之下宿へと入る。
   
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