伊勢国鈴鹿郡関町 
坂之下宿
から土山宿へ
江戸日本橋から坂之下宿まで421.1km、坂之下宿〜土山宿間9.8km
                
この区間は2002.2.22、関宿から引き続いて歩いた。
東の箱根と並び称されるほど難所として有名な西の鈴鹿峠を
いよいよ越えることになると思うと、気持ちも引き締まったような気がした。
また朝は小雨であったが、鈴鹿峠に近づくころは晴れて
天気も味方してくれた。
鈴鹿峠は、片山神社から本格的な峠の山道というような感じであったが、
国道に分断されたりしていて、ちょっと興がそがれてしまったところもある。
しかし昔はそれこそ大変な難所であったことは
十分窺い知ることができた。
峠の頂上は三重県と滋賀県の県境で、
また当時の国境でもあった。
三重県関町市ノ瀬沓掛坂下鈴鹿峠滋賀県土山

坂之下宿:坂下宿は東海道48番目の宿場で、難所の鈴鹿峠の東麓にあり旅人で賑わったが明治以降近代交通の発達で徐々に衰退して、現在では数十件の民家があるだけとなった。
なお坂之下宿は江戸の延20年間亀山藩領であったが、それ以外は幕府領となっていた。
鈴鹿峠越え:古代の鈴鹿越えは、加太川に沿って多くの瀬を渡る、険しい「加太越え」であったが、都の移転で886(仁和2)年「阿須波道」と呼ばれた現在の鈴鹿越えが開通した。
これによってこの峠一帯の名称が鈴鹿山と呼ばれるようになった。
人馬駄賃(運賃):1611(慶長16)年、幕府によって街道筋の人馬駄賃の規則が定められたが、坂下宿は気象の変化が激しく、峻険な鈴鹿峠越えを要したため、他の宿場より割高な駄賃が認められた。
 本陣:3、脇本陣:1、旅籠:48、人口:564人

   
 鈴鹿川にかかる市ノ瀬橋を渡ると、急に山里に入ったような雰囲気のただよう道になった。再度鈴鹿川沿いに走る国道一号線に合流して約1km歩くと、右手に筆捨山標柱(写真左)がありその向こうに雨に煙った筆捨山(写真右)が見える。この山の名の由来は画聖狩野元信がこの山の景観に惹かれて筆をとったが、激しく変化する天候に追いつけず、ついに筆を投げ捨てたという、言い伝えからきている。
   
 右手に筆捨山を見ながら1号線を200m行き鈴鹿川を渡るとすぐ道は分岐する。右手の舗装された道が旧東海道でここで1号線と別れる。ここから両側に杉の木がうっそりと繁った如何にも山道という雰囲気で、鈴鹿峠方面へ緩い登り勾配が続くことになる。そして約1.6km歩いて行くと、右手入ったところに鈴鹿馬子唄会館(写真)がある。ここには鈴鹿峠を発祥の地とする鈴鹿馬子唄についての多数の資料が展示されている。鈴鹿馬子唄がいつころから唄われたか不明であるが、1704(宝永元)年に刊行された「落葉集」には既に登場している。鈴鹿馬子唄は馬子唄としては南限と言われている。
   
 雨もあがりさらに淡々と1kmほど歩いていくと、道の左側に松屋本陣跡(写真左)大竹屋本陣(写真右)、梅屋本陣跡の碑がそれぞれ立っている。従ってこの辺が坂之下宿の中心地であったということになる。なお大竹屋は「街道一の大家」と称えられたほどで、旅人は一度は泊まってみたいと願う宿であったという。
   
道の反対側には法案寺(写真)がある。ここの玄関は松屋本陣の玄関が移されたものである。
   
 500mほど真っ直ぐ西へ歩くと、ちょうど1号線との合流点の道の右側に岩家十一面観世音菩薩の石碑(写真左)がある。清滝という小さな滝が流れる高さ18mの岩窟に、旅人の道中安全を祈り、阿弥陀如来、十一面観音、延命地蔵の三体安置されている。道路境界柵の奥まった階段の上にあるお堂(写真右)へあがり扉を開けて、暗い空間に祀られてある三体を拝像したが、何かおそれを感じさせるものがあった。
   
 国道1号線と合流するとすぐ右側の道に入り、500mほど1号線と並行して歩くと道は右に曲り、片山神社の石碑が立っていて参道(写真)となる。
   
 参道を約500m歩いて行くと、で片山神社(写真)にたどりつく。片山神社は坂下宿の氏神であり、峠を守る神様でもある。鈴鹿大明神、鈴鹿権現とも呼ばれ、その縁起は坂上田村麻呂を助けた鈴鹿御前を祀ったともいわれている。
   
 神社の前を右に折れて細い山道に入ると、峠の頂上まで約600mある。つづら折で、、急勾配の石畳の道でこれが東海道かと疑いたくなった。これでも整備されているはずで、当時の旅人の難儀さはどれほどであったかを知らされた。。黙々と登って行くと国道で遮られ、その下をくぐって狭い階段を登って行くと突然視界が開けて小さな広場に出る。ここに鈴鹿峠を行き来する馬の水飲み場跡(写真)がある。
   
 再度細い山道に入り300mほど行くと、薄暗い林の中に鈴鹿峠の立札(写真)に出会う。ここが標高300mの鈴鹿峠の頂上となる。ちなみに立札には、真中に縦書きで鈴鹿峠、右には高畑山、左上には片山神社、左下には土山町と矢印で示されている。
   
 立札の左脇には、鏡岩まで150mの案内板(写真)があるので、ちょっと横道にそれて鏡岩へ行ってみることにした。道は尾根道で狭くて雑木が邪魔し、雨の後でぬかるんでいたところもあり足元が悪かったが数分で着いた。
   
 鏡岩の手前には、三重県指定天然記念物鈴鹿山の鏡岩の標識(写真左)があり、その奥の切立った崖の頂上で、坂下方面を一望できる位置に鏡岩(写真右)がある。鏡岩は珪石が断層によってこすられ、露出面に艶が出たもので、鏡の肌面の大きさは縦2.3m、横2mある。昔峠に住む盗賊が街道を通る旅人の姿をこの岩に写して危害を加えたという伝説から、俗称「鬼の姿見」とも言われていた。なお明治元年の山火事で鏡面の輝きは失われてしまったという。
   
 鈴鹿峠の立札に戻ると、この辺には江戸時代立場(休憩所)があり、堺屋、伊勢屋など数件の茶屋でぜんざい餅を売っていて峠の名物だったという。立札から旧東海道を数分歩くと、突然目の前が開けて一面お茶畑(写真)になる。この一瞬の出来事はまさに驚きの喜びであった。そしてここは滋賀県土山町であり、土山宿へ入ることになる。
   
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