近江国甲賀郡土山町
土山宿から水口宿へ
   江戸日本橋から土山宿まで430.9km、土山宿〜水口宿間10.5km
                   
この区間は、2002.2.22に関宿、坂下宿に引き続き歩いた。
この時期としてはとても天気のよい日で鈴鹿峠を下ったころは、
ほかほかの歩き日和と言えるほどであった。
経路としては1号線を時々クロスしながら、1号線に並行に走っている。
土山宿はよく整備されていて、訪れる人を楽しませてくれる。
この宿はなんといっても鈴鹿馬子唄の「あいの土山」の土地である。
ただこの「あい」という意味はなんだろう、
絶対平凡な「愛」なんていうことはありえない、
もっと深い何かがあるはずだと、今でもこだわっている。
鈴鹿峠土山宿松並木今宿水口町

土山宿:土山宿は平安時代に伊勢参宮道が鈴鹿峠を越える旧東海道筋を通るようになって以来、難所を控える宿駅として発達してきた。源頼朝が鎌倉に幕府を開くと京都と鎌倉を結ぶ交通路線として武士だけでなく、商人、庶民の通行も盛んになった。
特に江戸時代に東海道の49番目の宿駅に指定されてからは、真に興隆した。現在も本陣や旅籠の並ぶ町並みはきれいに整備されて残され、宿場町の面影を残している。
 本陣:2、脇本陣:0、旅籠:44、人口:1,505人

    
 海抜375mの鈴鹿峠を越えると、そこは三重県から滋賀県に入ることになり、昔の国境でもある。鈴鹿峠は古代から山賊が多いことでも有名で、峠には山賊(鬼)を退治したという坂上田村麻呂を祀る田村神社跡がある。峠の林を出て一面お茶畑の平らな道を数分歩くと、右側に高さ5.44m、重さ38トンという巨大な万人講常夜燈(写真右)がある。これは今から270年前に四国金毘羅神社の常夜燈として、坂下宿甲賀谷住人300人の奉仕で鈴鹿峠に建てられ、東海道を往来する行商人信者が常夜燈に火を燈し、鈴鹿峠より伊勢の海遥か彼方の四国金毘羅神社に航海と道中の安全を祈ったという。
   
 常夜燈から舗装された山道を800mほど下ると国道1号線と合流するが、歩道のある反対側に渡るには横断歩道がないので地下道で渡る。1号線を2kmほどひたすら下って行くと、山中川沿いの方へ右に分岐する道が旧東海道である。その分岐道のすぐのところの公園に、「坂は照るてる 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る」と刻まれた鈴鹿馬子唄碑(写真)がある。坂下宿で晴れていても鈴鹿峠では曇りで、そして日本海気候の土山宿は雨というように、鈴鹿峠を境に気象ががらりと変るという意味である。ただ、あいのつちやまの「あい」とは何の意味なんだろうか?
   
 旧東海道を500mほど行くと再度1号線と合流するが、合流点に小さな山中一里塚公園(写真左)があり、鈴鹿馬子唄之碑と馬子像(写真右)がある。
   
 肌寒い風の中を1号線を左、右、左、右と横断して、1号線と並行に走っている蟹坂を経て田村川に至る。旧東海道は川を渡る道であるが、現在は橋がないので左に曲がりいったん一号線に出て、200mほど行くと右側に坂上田村麻呂を祀る田村神社の鳥居(写真左)がある。とても長い参道を歩いて行くと、鈴鹿峠上か移された質素な社殿(写真右)がある。坂上田村麻呂は797(延暦16)年に征夷大将軍に任ぜられ、奥州方面への大和朝廷の勢力拡大に尽力があった人で、811(弘仁2)年に亡くなった。鈴鹿峠の鬼(山賊)退治の伝説などの他、東北地方にいろいろ伝説を残し、また田村神社として祀っているところも多い。
   
 田村神社鳥居前から左へ曲がり1号線を横断すると、道の駅「あいの土山」の左側に旧東海道(写真)がある。その道を100mほど行くと丁字路になり1号線に並行に走る狭い道路があるが、これが土山宿を走る旧東海道となる。
   
 丁字路を曲がるとすぐ左側に大きな宿全体の案内板(写真)があり、主要な史跡について説明がされていて、初めて宿へ入る者にとっては助かった。
   
 少し歩くと左側に、「ここから右京都へ15里、左江戸へ110里(写真)がある。
    
 さらにすぐその先の生野児童公園(写真左)には、上島鬼貫の句碑(写真右)がある。上島鬼貫は大阪伊丹で生まれで、東の芭蕉、西の鬼貫と言われた俳人で、1686(貞享3)年に鈴鹿峠に行く途中土山に寄ってお六櫛を買い求めたときに詠んだ句が、刻まれている。
   
 さらに300mほど行くと右側に東海道一里塚跡碑(写真)が立っている。
   
 土山宿通りの町並み(写真)は、舗装された道路の両側に昔の建物がならびとても整然としている。
   
 町並みの入口付近にある来見橋の欄干(写真)には、宿ゆかりの広重の絵を画いているなど、隅々まで行き届いた心遣いで旧東海道宿を整備していることが伝わってくる。
   
 また、町を歩くと道端には江戸時代の跡地標識(写真左)屋号(写真右)が掲げられている。因みに左側写真の石柱には、左から旅籠柏屋跡、旅籠大工屋跡、旅籠釣瓶跡、右側写真の屋号は升屋権兵衛跡と記されいる。
   
 町並みの中ごろに来ると、右側に東海道伝馬館(写真左)がある。この館は東海道や宿・伝馬制度をテーマにした展示(写真右)をしている。また復元した問屋場も展示されている。
   
 通りには、こんな異人風のしゃれた道標(写真)も見ることができる。
   
 伝馬館からすぐの所の右側に、土山本陣跡碑(写真)がある。土山本陣跡は将軍、皇族、諸大名の宿泊所として1634(寛永11)年に設けられた。建物は写真のような黒漆喰塗りの壁に、籠目格子造りと呼ばれる旅籠独特の造りの2階建で、現在も調度類、宿帳(大名が食事した料理の献立などもある)、関札など当主の土山氏によって管理・保存されている。
   
 さらに数十m行くと右側の神社の赤い鳥居(写真)の前に、左から高札場跡問屋場跡大黒屋本陣跡の碑が並んで立っている。大黒屋本陣は、土山本陣が諸大名の宿泊で収容しきれなくなったため、土山宿の豪商大黒屋立岡氏の旅籠を控本陣として指定したもの。
   
 宿の町並みを出ると国道1号線と合流しその三角地帯に、東海道土山宿の標識(写真)が立っている。
   
 旧東海道は国道を横断して北へ迂回する経路をたどるが、現在その経路は野洲川の横断ができないので、しばらく1号線に合流して歩く。300mほど歩いてから右の細い道に入り、野洲川にかかる歌声橋(写真)を渡ってさらに300m行くと、旧東海道に戻る。
   
 旧東海道を約1.4k歩いて行くと、松並木(写真右)の入口左側に東海道反野畷碑(写真左)がある。この松並木は大日川掘割(反野畷)跡といい、水害で甚大な被害を受けていた市場村が、1699(元禄12)年から4年間かけて野洲川へ流す延長504間、川幅4間の排水路を掘割した跡である。
   
 1号線に並行したのどかな道を歩いていると、学校帰りの小学生の女の子の3人組が、向こうから歩きながら「只今、只今」と私の方を向いて挨拶をする。初めは黙って過ごそうと思ったが、私が返事をするまで「只今」と言いつづけるので、慌てて「只今」と返した。とても都会では経験できそうもない出来事であった。この辺では、知らない人にも挨拶をするようにしつけているのであろうか。松並木から1kmほどのところで1号線を横断してから、さらに1号線と並行に約1km歩くと再度1号線に出る。この合流点の三角地帯に大きな東海道土山今宿の石碑(写真)がある。この地は土山の西端の今宿である。
   
 ここで1号線を横断すると、そこは水口町で約400m行くと左側に土山一里塚跡(写真)がある。この先は水口宿となる。
   
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