近江国伊賀郡水口町
水口宿から石部宿へ
戸日本橋から水口宿まで441.4km、水口宿〜石部宿間13.7km
          
この区間は、2002.2.22と23日に関宿、坂下宿、土山宿に引き続いて歩いた。
22日は天気はよかったが夕暮れとともにとても寒い風が身を刺した。
23日は全くの曇りであった。
この周辺には宿泊施設が少なく、水口町にある唯一のホテルに
前日予約を入れたところが満員で断られ、
その先の甲西町のホテルに宿泊することになった。
そのため最後は夜歩くことになり、道案内標識も不明確なうえ、
写真も夜間撮影となり見にくくなった。
なお東海道を歩いて非常に困ることは、トイレと宿泊である
土山一里塚水口町甲西町石部町

水口宿宿場の歴史は古く、室町時代に伊勢参宮の宿村として設けられたのが初めと言われている。その後1585(天正13年)豊臣秀吉が家臣の中村一氏に水口岡山城を築城させたことにより、宿場としての町割が整備された。
そして江戸時代、東海道53次の50番目の宿場に指定されて発展した。特産品は、藤細工、煙管、かんぴょうなど。
 本陣:1、脇本陣:1、 旅籠:41、人口:2,692人

   
 水口町の入口にある土山一里塚から、西へ約1.5km歩いて来ると307号線にくる。ここを横断すると水口宿(写真)となる。
   
 横断して100mほど行くと右に東見付(江戸口)(写真)がある。この地が水口宿の東端、すなわち江戸口であったことを示す。なお西見付は宿の西端五十鈴神社南側にあった。
   
 そこから200mほど行くと元町で、ここには脇本陣跡と本陣跡があるはずであるが、それらしき所を行ったり来たりして探し、また近所の40代らしき女性に尋ねても知らないということで、ついに発見できなかった。なお東海道を歩き地元の人に史跡のあり場所尋ねても、知っている確率は50%以下で、当てにならないことが多かった。そのまま少し行くと道の分岐点に復元された高札場(写真)がある。
   
 旧東海道は高札場の左手の道で、水口宿の町並み(写真)を通ってしばらく歩く。
   
 約900mほど歩いて行くと、近江鉄道水口石橋駅の踏切の直前の三角地帯に大きなからくり時計(写真)がある。
   
 踏切を渡って200m行った信用金庫の前の丁字路を右に曲がり、さらに100m先で左に曲がり、400m先で右に左に曲がり、また100m先のクリーニング店前の分岐を右に曲がる。ここは城下町のため曲がりの多い道となっている。水口城址は左手の方向にあるが、宿泊予定の甲西のホテルへ9時前に着きたいので、先を急ぐことにし城址を見ることを勝手に割愛した。最後の曲がり角の右側に水口石(写真)がある。これは東海道に面した小阪町に伝えられる大石で、「力石」とも呼ばれ江戸時代の浮世絵師国芳が錦絵の題材にもしている、と石の前の説明書きにあるが、しかしそんなに大石には見えないのだが・・・・。
   
 曲がって約300m行くと右側に五十鈴神社がありここは宿の西端で、西見付が置かれていた。また境内には林口一里塚跡碑(写真)がある。
   
 宿場を抜けると一直線の道で、しばらく行くと松並木(写真)がある。このあたりは江戸時代は北脇縄手と呼ばれていて、曲がりくねって道を真っ直ぐに整備して一直線の道にしたところである。
   
 さらに真っ直ぐな道を歩いて行くと、日は暮れて街燈に明かり(写真)がついてしまった。
  
 周囲が田園の暗い夜道には車の通りも、もちろん人の通りも全くなく淡々と前を向いて歩くのみで、暗がりを恐がる私がよくも我慢して歩いたと、今でも感心している。ただ道路標識がよく見えないので、道に迷わないことだけに全神経を傾けた。五十鈴神社から約3km歩いたところに、道路標識(写真)が、東海道は真っ直ぐとがあった。もしこの標識を見落として道なりに右へ行ったら、さてその結果はどうなっていたであろか。幸いにも私は→の通り、写真の正面の東海道らしくない細い道を行き、すぐ川にかかる橋を渡った。
   
 橋を渡ると50mくらいのところの右側に立派な泉一里塚跡(写真)があったが、もうデジカメが2台とも電源切れでフラッシュがたけず、暗闇の一里塚となってしまった。
   
 さらに50m行き大きな自動車道路に出ると、道路の反対側に横田の大常夜燈(写真)がある。フラッシュがたけず全体が分からなくなってしまったが、1822(文政5)年建立の石造で街道随一の規模を誇る巨大な常夜燈である。この常夜灯の前には鈴鹿山から流れ来る横田川(上流の土山町では野洲川という)があり、江戸時代は渡しで越えていた。ただ渡しは往来が激しく旅人は夜中でも川を渡ったため、交通の安全を期して巨大な常夜燈が建てられたという。川の対岸にも常夜燈がある。横田の渡しは東海道13渡しの1つとして重要視され、幕府直轄下に置かれた。この渡しも下流側に国道の横田橋がかけられたことにより廃止された。従って本来の東海道は渡しによる対岸経路であるが、道がないので横田橋経由とした。
 さて今日はここまでとし、宿泊ホテルに所在地を電話で尋ねたら、運良くも横田橋方面であった。横田川沿い道を下流に歩いて行くと国道一号線と合流するが、またこの地点は水口町と甲西町との境界でもある。国道はこれまでと一変して交通が激しく、歩道のない暗くてなれない道を、飛ばす車を避けながら冷や汗をかきかき歩いた。横田橋の袂で道に迷ったりで、結局常夜燈から1時間以上の歩いてようやく目的のホテルに着いたのが、予定通り
(?)の9時であった。
 2/23日朝9時15分ホテル出発。天候は全くの曇り空。
   
 ホテルから横田橋まで30分かけて歩き、橋を渡って左に曲がってちょっと行くとJR草津線三雲駅前の丁字路に出る。この駅前の道路が旧東海道であり、左へ曲がって横田川の方へ200m行くとJRの踏切の脇に常夜燈(写真)がある。これは昨夜見た対岸にある横田の常夜燈と対になるものである。この先の旧東海道は、河川敷となり道がないので引き返した。
  
 三雲駅前をほぼ真っ直ぐ西へ向かって歩く。亀山宿を出てから3日目で少し疲れもでたのであろうか、なかなか歩く調子がでない。道中ビールの量が足りないのかもしれないと思い、ビールの自動販売機でコインを入れていたら、隣の販売機でタバコを買っていた50代の男性が「ご苦労さま」と声をかけてきた。私は人見知りでこういうご対面は苦手であったが、そこは世間の義理と思いできるだけ愛想よく挨拶をした。「どこまで行くのか」「京都まで。ただ京都の地図を準備していないので道が分からない」との会話で、その人は急に家にもどり、真新しい京都の地図を持ってきて私にくれた。ただただびっくりした。見ず知らずの男に、多分買ったばかりであろう地図をくれる人がいるであろうか。名前をお聞きするを失念しましたので、その後お礼も言えません。もし万が一にもこのホームページをご覧いただいていることがありましたら、どうーぞEメールをいただけませんでしょうか。お願いします。それにしても、土山宿の小学生の挨拶といい、日ごろ乾いた都市に住んでいる私にとっては、この素朴とも思えるやさしい人情味には感激した。甲西町を通り抜ける旧東海道はゆるい登り坂で、両側の側溝の水は流れが早く、小川のようにとてもきれいな水で爽やかに感じた。三雲駅から約4km来ると左側に、1805年創業の北島酒造(写真)のいかにも歴史を感じさせる建物が見える。
  
 そこから少し行くと家棟川がありその橋の付け根に、幟、バス停、カーブミラーに混ざって、小さな常夜燈(写真)がなにげなくぽつんとたっていたので、ついカメラを向けてしまう。ここから先約1.6kmのところに落合川があり、そこが甲西町と石部町の境界で石部宿へ入る。
   
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