武蔵国横浜市神奈川区
神奈川宿から保土ヶ谷宿へ
 江戸日本橋から保土ヶ谷まで27.4km、 神奈川宿〜保土ヶ谷宿間409km
                 
この区間は2002.2.10日に川崎宿からの延長上で歩いた。
日本橋から3番目の宿で,宿名が県名の由来となり、横浜の母体となった地でもある。
神奈川が一躍有名になったのは安政元年(1854)の神奈川条約締結の舞台となってからで、
開港当時多くの寺が諸外国の領事館などに充てられた。
ここには約4kmにわたる「神奈川宿歴史の道」があり、当時の史蹟を生かしつつ景観を整備し、
楽しく訪ね歩けるようにした歴史散歩道である。
各史跡にはわかりやすい解説の載ったガイドパネルや壁画が設けられているなど
いろいろ工夫がされていて、主要な史蹟はほぼこの散歩道に集中している。
横浜市神奈川区西区保土ヶ谷宿へ

神奈川宿:昔の東海道は海に沿って延びていて、ここ神奈川宿も東海道有数の景勝地である「袖ヶ浦」のそばにあった。そのため、旅人はもちろん観光客で訪れる客も数多く滞在した。最盛期には近隣の宿の2倍の人口を抱えたといわれる。神奈川は安政5年(1858)の日米修好通商条約締結後、開港場としても賑わった。
 本陣:2、脇本陣:0、旅籠:58、人口:5,793人
     
 生麦事件の碑を後にして、第一京浜国道(国道15号線)を西へ歩く。このあたりは私が20年前に5年間通勤していた懐かしいところであるが、やはり周囲の状況は大きく変化していると言ってよいだろう。
京急神奈川新町駅前を通りすぎると、すぐ右側に
良泉寺(写真;神奈川区新町10)がある。門前のガイドパネルには「開港当時、諸外国の領事館に充てられることを快しとしないこの寺の住職は、本堂の屋根をはがし、修理中であるとの理由を口実にして、幕府の命令を断った」とある。この周囲の寺の多くは領事館などへ充てられた寺が多いなかで、徹底拒否で筋を通した住職である。東海道マップでは紹介していない寺であるので敢えてここで紹介した。こじんまりとした奇麗な寺という印象である。
   
 ここから約1km行った右側に能満神社(写真:)がある。この神社は鎌倉時代に創立されたもので、地元の光善という漁師により海中から拾いあげられた虚空蔵菩薩(高さ15cmの木像)が、この漁師の娘に託していう言葉に従って作られた寺との伝承がある。
   
 京急仲木戸駅から700mほど行った右側に金蔵院(写真:)がある。この寺は平安末期に創られた古刹で、その後徳川家康から十石の朱印地を許された。本堂前には徳川家康の「御手折梅」があったという。写真のようにガードが固く中に入ることができなかった。
   
 また500m程行ったところに鎌倉時代の創建の念仏寺(写真:)がある。安政6年(1859)の開港当初アメリカ人宣教師の宿舎に使われ、ヘボンは本堂に、ブラウンは庫裡に住んだという。ヘボンはヘボン式ローマ字で知られ、日本最初の和英辞典を完成した人で後に明治学院を創設している。、ブラウンは聖書や賛美歌の翻訳に尽力をした人である。ちなみにヘボンは正確にはヘプバーンといい、有名な女優のキャサリンヘプバーンは孫にあたる。
    
 念仏寺から北へ京急線路を横断したところに、室町時代に開かれた運慶寺(神奈川本町1-18)がある。開港当初はフランス領事館に使用された。この寺はまた浦島寺とも呼ばれている。本堂は改修工事中。
 運慶寺のガイドパネルによる浦島伝説のいわれは次の通り。

 神奈川宿の浦島太郎伝説は観福寺の縁起書に由来するものと思われるが、同寺は慶応4年(1868)に焼失したため詳細は不明。ただ「江戸名所図会」などの文献では以下にのように記述されている。
相州三浦の住人浦島太夫が丹後国
(京都府北部)に移住した後に太郎が生まれた。太郎がニ十歳の頃澄の江の浦から竜宮にいたりそこで暮らすこととなった。3年後、澄の江の浦へ帰って見ると里人に知る人もなく、やむなく本国の相州へ下り父母を訪ねたところ、3百年頃前に死去しており、武蔵国白幡の峰に葬られたことを知る。これに落胆した太郎は神奈川の浜辺より亀に乗って竜宮へ戻り、再び帰ることはなかった。そこで人々は神体をつくり浦島大明神として祀った、という。
 この浦島伝説をもつ観福寺が廃寺になったとき、同寺とゆかりの深い運慶寺へ浦島太郎が竜宮からもってきた玉手箱とともに持ち帰ったという
浦島観世音が移され、また門前には亀の形をした台座に上に「浦島寺」と刻まれた浦島寺碑(写真左)や境内には浦島父子塔(写真右)がある。
    
 再度旧東海道に戻るとすぐ、滝野川(写真;)の滝の橋に出る。この川を挟んで江戸側に神奈川本陣、反対側に青木本陣が置かれていた。
    
 滝の橋から200m程上流に行ったところに、開港当時アメリカ宣教師であったヘボン博士が施療所を開いたという宗興寺(写真左:)がある。これを記念する石碑(写真右)が境内にある。寺は写真で見るように大変シンプルでモダンにできている。
    
 旧東海道の戻り500mほど行くと、州崎大神が右手にある。この神社は建久2年(1191)源頼朝が安房国(千葉県)の安房神社の神をこの地に祠ったのが始まりと伝えられている。今でも石鳥居や周囲の地形に江戸当時の名残が残っている。
   
 すぐその先には、開港時イギリス士官の宿舎に当てられた、普門寺がある。
   
 さらにその先には、開港時フランス公使館にあてられた甚行寺がある。
   
 旧東海道に戻るとすぐ国道1号線にぶつかる。旧東海道はそのまま真っ直ぐ国道1号線を斜めに突っ切ていくことになるが、現在は京急線とJR線で遮断されているので、左手の青木橋を渡って線路を横断することになる。青木橋を渡ったら第二京浜国道を横断して西へ20mほど行ったところから右の狭い道路に入り東急東横線のガードをくぐると、前方に長い坂道が現れる。坂道を登るとすぐ右手に大綱金毘羅神社(写真:)一里塚の(写真左側の立碑)がある。この神社は平安末期の創立で、その後琴平社を合祀して現在の名前になった。かっては眼下に広がっていた神奈川湊に出入りする船乗りから深く崇められ、大天狗の伝説でも知られている。また江戸時代に神社前に日本橋から7つ目の一里塚が置かれた。
   
 この坂道の台町あたりは、かって神奈川の台と呼ばれ、この周辺は切り立った崖の上で湊を見下ろす景勝の地であった。弥次さん、喜多さんが活躍する「東海道中膝栗毛」にも「ここは片側に茶店をならべ、いずれも座敷2階造、欄干つきの廊下桟などわたして、波打つぎはの景色いたってよし」とある。 その中の茶店の一つの「櫻屋」は坂の途中の左側にある料亭田中家(写真:)あたりだといわれている。現在は埋め立てられていてここからは海は全く見ることができない。
   
 さらに坂を登って行くと右側に関門の碑(写真:)がある。開港後外国人に対する殺傷事件が相次いで発生したことから、厳しい警備体制のために作った関所としての関門で、神奈川宿では東西2ヶ所作られた。この碑は西側・神奈川台の関門。
   
 この関門の碑あたりから下り坂となり、JR横浜駅前にある天理ビルを左に見て下っていく。この日はとても寒くて道中マップを持っていた左手の握力がなくなり、ポロリと落としてしまった。坂道をおりきった所で第二京浜国道と合流し、道なりに歩くと浅間下交差点があり横断して第二京浜とは別れて右手の狭い道に入る。するとすぐ右手の小高い丘に浅間神社(写真:)を見ることができる。
浅間神社は富士山の信仰に基づいて創られた神社で、読み方は地方で違い富士山の太平洋側では「せんげん」と読み、反対側の山梨方面では「あさま」と読むという。ちなみにこの神社は「せんげん」と読む。

   
 再び旧東海道に戻り平坦な道を約800mほど歩いていくと、右側に追分の標識(写真中央黄色)がある。ここで直進すると保土ヶ谷宿へ、右に行くと八王子から遠く甲斐、信濃へ続いていく。
またこの辺から保土ヶ谷宿となる。
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